四十六

 突然の乱入者が、自分の名を呼んだ時。


 香流は、咄嗟とっさに振り向くことを恐れた。

 しかし、体の反射は怯えを置き去りにして、勢いよく背後へと視線をいざなう。

 広い謁見の間の先。

 出入りの扉を開け放って、男は立っていた。

 息を荒らげ、汗にまみれ、肩を大きく上下して。

 男は、銀正は、香流を見つけた。

 その目が、良かったと。

 安堵したと確かに緩んだのを認めた、瞬間。

 香流は己の身が、正中から半々に引き裂かれたような気がした。





 銀正はさっと室内の状態を確かめると、仰天したように明命と、そして香流を見つめた。


「これは、一体…… どういうことです」


 押さえられた声が、荒い息のまま微かに震える。

 声は戸惑いや焦燥、小さなおののきを孕んでいるように感じられた。

 そしてそんな声に最初に応えたのは、一等早く正常を取り戻した明命だった。


『どういうこととは、面白いことを聞く。 わしからすれば、狩場に出ているはずのお前がここに居ることが、どういうことだと問いたいがな』


 おそらく職務を放棄してこの場にあるであろう銀正自身を揶揄やゆして、明命はくつくつ体を揺らす。

 銀正はそれを厳しい顔で聞き流しながら、素早く香流のもとへ近づいてきた。

 香流が瞳を揺らして立ち尽くす間に、銀正はその細い体を背後に庇う。

 振り返った視線が香流に何も傷ついたところがないことを確認すると、琥珀の目はひどく安堵したように揺らいだ。


「……なぜ、この人がこんなところに居るのですか」


 片腕で香流を隠し、銀正は明命に問うた。

 明命はまるで他愛ない虫けらを見るように銀正を睥睨すると、興が削げたように顔をしかめる。


「わしが呼んだからだ。 わしがその娘に興味があった。 だから命じて連れて来させた。 それ以外、他にあるまい?」


「……そのお姿を見せたということは、この人も巻き込むおつもりか?」


 低く、唸るような問い。

 銀正は激昂寸前のような横顔で、明命にただした。


「右治代に関わったせいで、この人まで、あなたの駒にするおつもりか?」


 『この人まで』。

 その言い方に、香流はすくむ。

 その言い方ではまるで、まるで自分、――――も、目前の異形の手駒であると明言したような。

 そんな己の思考に気が付いて、香流は指先を震わせた。


『巻き込む…… 巻き込むだと?』


 複眼の瞳孔をすいと細め、明命が思いがけないとでも言いたげな驚嘆を呟く。

 そして次の瞬間、



『――――げぁあははははは! 巻き込む…… 巻き込むと来たか!』



 あごを反らせて哄笑を垂れ流した。

 そうして一頻ひとしきり笑いきると、異形はいやらしく口元を歪めて『そうだな』と笑みを浮かべた。


『確かにもう、その娘は戻れない。 わしの存在を知った以上、もう、以前の何も知らぬ生活には戻れない』


 だって、そうだ、その娘は、


『その子はもう、何もかも知ってしまったのだよ、右治代』


 明命の存在も、

 明命の異能のためにこの国の平穏が維持されていることも、

 代償に業人を贄にしていることも、

 そして、


『それらを承知で、


 





 ぎくりと、目の間の肩が揺れた。


 香流は、自分を守る広い背に、深い動揺が走ったのを感じた。


「あ……」


 銀正が、かすれた息をついた。

 動揺が、段々とその全身を犯していくの分かる。

 動きたい。

 なのに、動くこと叶わず、香流はゆっくりと振り返る白銀の頭を見つめた。

 琥珀の目が、香流を捉える。

 愕然となにか、恐ろしいものを見るように、色が揺れる。

 香流はその目に映る自分を見た。

 悲しみでもない。

 怒りでもない。

 琥珀に映る、自分。

 そこにあったのは、――――苦悩。

 苦悩、苦しみ、迷い。



 銀正殿。


 声が、男を呼ぶ。

 男は、触れがたいものから遠のくように、一歩後ずさった。


「銀正殿、どうして」


 香流は苦みを堪え、のどを震わせる。

 銀正が隠し通そうとしたもの。

 それを知ってしまった今、最早知らぬふりなどできなかった。

 あの祭りの晩。

 これ以上は問わぬと退いた線を、今この時、踏み越えた。


「どうして、こんな歪、あなた様はお許しになっていた。 どうして、民を飢神に捧げるなど、鬼畜のような所業を看過しておられた」


 あなたは優しい人だった。 

 優しくて、誠実で、芯の美しい人だと、香流は知った。

 知ってしまった。

 だから、明かされた現実が受け入れがたかった。

 この人がこれほどの闇に身を沈めているなんて。

 そんな真実が耐えがたかった。

 

 信じてみようと、思ったから。

 この人に、信を置いてみようかと思わされていたから。

 だから、心は慟哭していた。


 この想い、信頼、


 あなたはそれに値しない人だったのかと、


 心が、


 身勝手に、


 死に絶えそうに、


 なった。





 だから末期の叫びのように、香流は言葉で銀正を打ち据えた。



「どうしてですか? どうして、こんな、こんな……ッ」


 ――――あなたは!


「あなたは狩士としての道を…… 董慶様の残された狩人としての矜持を、忘れられてしまったのか……!?」








 



『董慶……? なんだ娘、お前、あの忌々しい鼠のことも知っておるのか』


 燃えるようだった。

 訳も分からぬ感情に焼かれるように、銀正に問いただした。

 だから突然割り込んだその言葉に、冷や水を浴びせられたような気がした。


 香流は銀正を見つめたまま張りつめた顔を、ゆっくりと声の主に向けた。


「どういう、ことです」


 主であった明命が、余興でも眺めるように二人を見ている。

 心臓の音がする。

 どくりどくり。

 だんだんと脈動が響き始める。


「なぜ、お前が、董慶様を知っている……」


 嫌な感覚がした。

 今しがた吐いた問いの答え。

 それを聞くのが恐ろしいと、言葉にしたことを悔いるような思いがする。

 明命は『なぜってそれは……』と一瞬置くと、銀正を見つめていやらしい笑みを描いた。

 それに銀正がざっと顔を青ざめさせ、そして、


『わしが、』


「やめろッ」


『わしが、喰ったからさ。 そこな右治代の目の前で』







 あの日の、記憶が戻る。

 あの、秋の終わり、冬の始まり。

 幼かった自分の手の内に戻った、あの重み。


 ずっとその帰りを待ち続けた、ずっとその手で褒めてくるれる日を待ち続けた。

 あの人の、小さくなってしまった、



 ――――腕。



「おまえ、が……?」


 喰った…… 殺した?

 理解が、追いつかなかった。

 香流は壊れたカラクリのように体を軋ませ、視線を落とす。

 そしてゆっくりと顔を上げて、銀正を見た。


 青ざめ切って微かに震える、その人を、見た。


「銀正、殿」


 だって、自分は教えられた。

 董慶は、確かに飢神に喰われてこの美弥で死んだ。

 しかし、その最後の亡骸を持ち帰ったのは、――――守ったのは、その弟子だと。

 あなただと、伝えられていた。


 守って、くださった、はずだ。


 だって、そうでしょう?


「あの方を…… あの方の亡骸を、里に届けてくださったのは…… あなたが飢神から奪い返して下さったからでは、ないのか」


 ずっと、そうだったのだとうと、合点していた。

 腕は、弟子が、銀正が、刀で奪い返してくれたものだと。

 そう思い込んでしまっていた。

 だって、だって。



 あなたが、あの方のために、戦ってくれたのでは、ないのか、



 あの腕を、守るために――――








「あ、あ、あ、あ……!」


 香流が、質した瞬間だった。

 銀正は怯えに駆られたように声を震わせ、じりじりと後ずさった。

 そして両手で顔に爪を立て、


「すまない…… すまない、すまない、すまない、すまない!!」


 半狂乱になりながら謝罪を繰り返した。

 香流はその様相に「銀正殿!?」と駆け寄りそうになるが、響き渡った高笑いにぎくっと足を止めた。

 至極楽し気に笑い続ける明命。

 異形は笑いの合間、苦し気に言った。


『娘、お前があの鼠とどういう関係かは知らんが、縁があるなら、いいことを教えてやる』


 そうして明命が語ったのは、数年前。

 里への帰還を目前に、この国の闇に感づいてしまった、董慶の最期だった。





 帰郷の日が近づいた頃のことだ。

 董慶は訳あって右治代の家に出入りするうち、当時の美弥狩司衆の有様と、国の上層部に違和を得たらしかった。

 そして日々膨れ上がる違和を無視できなくなった董慶は、美弥の内情を探り、とうとうある日、城へと忍び込んだのだという。

 そして、


『奴はわしを見つけた』


 董慶は美弥の闇を知るに至った香流と同様に、この国の闇を形作る者たちを糾弾した。

 そして、明命を刈り取ろうとした。

 しかし、


『一人では、双角のわしの灯臓までは届かなんだ』


 明命に与しているとはいえ、上格たちひとを切ることを躊躇った董慶は、明命を獲ることを諦め、城から逃げ出した。

 逃げて、その足で、おそらく国を出ようとでもしたのだろう。

 だが、途上に寄った会照寺で、追っ手に追いつかれる。

 そこには弟子の銀正もいた。

 興の乗っていた明命は、傀儡ではなく本体で董慶を追っていた。

 秘密を知られた以上は、董慶を生きては返せなかった。

 だから明命は幼かった銀正を人質に取り、董慶に首を差し出すことを迫った。 

 董慶は、それを飲んだ。

 そして、



『食らい殺したのだ』




 頭から足先まで。

 狩士だった董慶の肉は、練の味が染みわたって明命を満足させた。

 夜闇の中、男の臓腑を喰いあさる明命。

 その牙が、最後の肉塊を飲み込もうとした時だ。


銀正そやつが、わめきたてた』


 人質に取られた過程で傷を負っていた銀正は、その痛みに震えながら、騒ぎ立てたのだという。


 やめろ、やめろ、やめてくれ!

 その人を消さないでくれ!

 その人を、その人のすべてを、奪わないでくれ! と。


 叫びあげる声に、明命はわずらわしいと思いつつ、――――一つ、懸念を抱いてもいた。

 隠滅のために食らってはしまったが、この男は央の国からやってきて、いずれは帰らねばならない手合いだ。

 それをなんの理由もなくただ死んだと伝えても、向こうは納得すまい。

 故に僅かばかりだが、死の証拠を残すのもよかろう、と。


 同時に、目の前で狂ったように泣き叫ぶ男児についても、策をめぐらせた。

 これは予備とはいえ、いずれ右治代当代を継げる身として利用価値のある子どもだ。

 ここで残した肉塊を下賜してやり、恩を売って縛り付けるのも一興。


 そう思考した明命は、まだ未練が残る片腕だった肉塊を銀正の目前に放ると、一言。


『平伏しろ』


 嘲笑うように言い放った。

 そして、誓わせた。

 師の亡骸を渡すことを引き換えに、怨敵に向かって額に泥を擦りつけた銀正に、それを言わせた。




『『ありがとうございます。 この恩義を忘れず、終生あなた様に服従いたします』』



 齢、たった十四。

 たった十四の少年の、矜持の何もかもを蹂躙しつくした所業だった。









『煩わされたが、わざわざこのわしが城から出向いてまで引導を渡してやったのだ。 董慶とかいうあの鼠、片腕にしては、まぁ悪くない味だった』


 思い出を語るように明命は嗤う。

 そして片方の鎌で震える銀正を指して、


銀正それも、まぁ、一緒に食い殺しても構わなんだが、その男は後々右治代の世継として、傀儡とするのに生かしてやったのだ』


と、軽々しくうそぶいた。




 聞きながら、香流はこれ以上なんてないと思った。

 なのに、明命は興が乗ったらしく、流暢りゅうちょうに余分を語り始めた。


『だがなぁ、その男。 年を重ねてもわしの恩を省みることなく、反抗の目を絶やさん。 だからわしはこやつを右治代当代として還俗させたときに、一つ、余興を仕込んだのよ』


 明命の存在と美弥の真実を知った幼い頃の銀正は、二十を越えて当主就任のために還俗するまで、会照寺で軟禁生活を送った。

 そして一年少し前に兄が死に、右治代当代を襲名する前日の晩。


 明命は銀正をこの謁見の間に呼び出して、一つの見世物を催した。




『なに、そう凝ったものでもない。 事前に美弥狩司衆の中から、身寄りのない若い狩士を二人ばかり用意してなぁ。 わしの『帳』の中に閉じ込めておいたのよ』


 男たちは初めて見る明命の姿に愕然としていた。

 そんな男たち以上に青ざめていたのは、銀正だ。

 銀正は明命に詰め寄った。

 これから何をするつもりだと、嫌な予感を抱いたような面持ちで、狩士たちの解放を願った。

 しかし、明命は応えず、


『わしは、その場にあった上格たちにそやつを縛り上げるよう命じた。 そして、もう一つ、用意していたものを引きずり出した』


 それは、『帳』の力で捕らえられていた、飢えた乙種だった。


 明命は騒がぬように猿轡さるぐつわを噛ませられた銀正の目の前で、


 その乙種を、


 狩士のいる『帳』に、


 刀も持たせぬまま、




 放りこんだ。




『あれはいい見世物だった!! 未熟故に食指が動くほどではない餌だったが、飢えた乙種に切り刻まれ、食い裂かれて、狂ったように叫び助けを乞う男ども様は、なかなか嗜虐をそそられる有様であった!!』


 明命の狂喜が膨れあがる。

 びりびりと響き渡る愉悦に、鼓膜が痛む――――痛む?

 いや、もう、何もわからない。

 何もかもが茫然と曖昧で、把握できない。

 なのに、おぞましい声はそれでも続ける。


『見世物の最中、舌を噛まれても興覚めだからな。 轡を嵌めさせていた銀正そやつは、うじがのたうつ様に暴れていたよ。 終始布の下でわめき立てていたものは何一つ分からなんだが…… わしはその耳元で言ってやったのよ』





『右治代当代という勤めを果たさず、このわしを裏切るなら、


 お前の家が擁する美弥狩司衆の狩士たち、


 これと同じ目に合わせてなぶり殺してしまおうぞ、となぁ』





 それは、明確な脅迫だった。

 右治代という家を負うこと。

 美弥狩司衆頭目の責を負うことで、配下全ての命を盾に、銀正の全てを縛り付ける、呪縛。

 そしてそれは、同時に、



『わしは寛大だ。 こやつにも選択肢は与えた。 わしに与するを良しとせず、命を放棄するならこの場で自刃するを許そうと』


 同時にそれは、


『仮にこやつが死のうが、他で跡継ぎを用立てるだけだからな。 そして、』





「そして、その引継ぎが同じ責を負い、苦痛を負う。 同じ絶望を継がせると同義、か」


 死に逃げようとも、残す悲劇の役目を、他の何者かに負わせる。


 自刃すらも許されぬ呪いと同じか、と。



 香流は、呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る