四十五

 それはさかのぼる事、十数年前。

 当時甲種へと成り上がったばかりだったは、腹を満たせるだけの餌を求め、人里を遠く眺めていた。



 当時その飢神は、上位種への変態のために消耗し、ひどく腹を空かせていた。

 成長に伴う飢えを満たすべく飢神は、多くの餌を求め野山をさ迷った。


 そんな、僅かばかりの餌で食いつなぐ月日を過ごしていた頃のことだ。


 ある日、山間を巡っていた飢神は、ひどくかぐわしい練の気配に満ちた、一つの国を見つけた。

 その国は、他国に類を見ぬほどに業人を多く抱えた国だった。

 多くを抱えたため、常に飢神の猛攻にさらされ、民を守る守護の力が弱まってしまっていた国だった。

 あまりに危うい均衡の上に成り立っている、大国・美弥。



 異形はその国を見つけた時から、ひどくそれに惹きつけられた。



 欲しい。

 あれが欲しい。

 おびただしく薫り高い練の気配に、飢神は己の欲が狂っていくのを感じた。

 そして決めた。


 そうだ、を手に入れよう。


 決断すれば、あとは早かった。

 飢神は己の能力を用いて身を隠し、その国の内情を探った。

 腹に響く練の気配はこらえがたかったが、悶えるようなそれを耐え忍んで探り続けた。

 幸いにも、その飢神は同種の中でも知恵が頭一つ抜きんでていた。

 だから国を探るうちに、その国の主と、国の守護の要である集団の頭領が、国の在り方を巡ってひどく対立していることを掴んだ。

 飢神は人を学んだ。

 学び続け、そうして一つの策略を練り上げるに至った。

 この国を手中に収めるを成すための策を、組み上げてしまった。


 そして、あの曇天の日。


 飢神は、練り上げた策を実行に移すことに決めた。

 まず飢神は、あらかじめ角の能力で恐慌に落としておいた同種を追い立て、狙いの国を攻め立てた。

 同種は群れなして国を襲い、人間たちは必死にその猛威に立ち向かって、周囲は総力戦の様相を呈した。

 そこに、隙はできる。

 飢神は守護の網をかいくぐると、身を隠して国の中枢である城に忍び込んだ。

 城には、飢神の襲撃に怯える国の主と、飢神の天敵・狩士の集団が立てこもっていた。

 中枢まで轟く、外の狩りの気配。


 それに怯え切って小さくなるその人間たちを嗤い、――――飢神は姿を現した。


 忽然と現れた人食いの異形に、男たちは仰天して腰を抜かした。

 泡を喰い、地に藻掻いて配下の狩士に命を下す国主。

 飢神はすくみ上がって動けない狩士たちを薙ぎ払うと、一直線に国主に迫り、その体を抑え込んだ。

 そして国主の首を質に取り、人間たちを睥睨。

 一つの契約を持ちかけた。


『今ここで全員わしに喰われるか、わしに従い、この国を差し出すか』


 二つに一つ。

 それは、悪徳への誘い。

 だが、死の恐怖は人間たちを不徳へと狂わせた。

 国主は頷く。

 守るべき国を捧げ、助命を乞うために。

 そして、飢神は手にした。

 美弥という大国そのものを。




『そして、わしは完全にこの国を支配下にするため、練っておいた策を講じた。

 国を押さえるには、国主と狩士の頭領を押さえることだけはなさねばならん。

 国主はわしに下った。

 だが、当時の右治代当代はわしに手向かった。

 元々、国主とは反目していた奴だ。

 支配下におけるとは思うておらなんだから、城に現れたところを殺した。

 奴め、都合よく少数で乗り込んできたからな。

 だから、わしに切りかかってくるところを城にいた狩士――――そこに控える上格たちに騙し討ちさせて、全員殺した』




 そして、飢神――――明命は美弥狩司衆守護家・右治代をも手中にせんと動いた。

 当代が失われれば、次代が選出される。

 その次代をおのが手駒にするため、明命は現在の上格たちと共に『蝕』の力で作った傀儡を右治代家に向かわせた。

 狙いは、右治代の継嗣。

 美弥国外の狩司衆に美弥に潜む己の存在を秘匿するため、明命には必ず美弥狩司衆当主を配下とする必要があった。

 右治代家に至った明命は、手向かった当時の大奥(=銀正の祖母)を殺し、幼子の銀正を手中にした。

 次に長子を求めて右治代の生き残り、弓鶴に対面する。

 最初は、弓鶴も殺すつもりだった。

 だが、女は我が子を差し出すばかりか、明命に交渉を持ちかけた。


『この家の全てを差し出す。 代わりに、この身の保証を』


 全てを投げ出して助命を乞う女に、明命は嘲笑を禁じ得なかった。

 そして許した。

 明命は右治代の支配権を国主の命の元弓鶴に与え、自分に従うことを誓わせた。



 美弥の高みは、押さえた。

 最早誰も、明命には逆らわない。



 国主には、『帳』によって飢神の脅威を退ける安泰を。

 上格たちには、身に過ぎた権限と私腹を肥やす財を。

 右治代を与えた弓鶴には、命と立場の保証を。


 欲というものを満たし、身の安全を確約してやれば、大抵の人は簡単にかしずくと学習していた明命は、配下に置いた者たちをそうやって支配した。

 あとは、国を今以上に肥えさせるだけ。

 『帳』を使い、美弥を飢神から隠し始めた明命は、国主に命じて一層の業人の流入を促した。

 その途上で反発を見せた狩士や役人は、理由をつけて国を追い出したり、少しずつ処分したりした。

 そうして段々人が増え、平穏な日々が続くと、人は『不言の約定』を忘れ、穏やかな日々に毒されるようになる。

 人が集まり、技術・文化が栄えれば、自然業人も増加する。

 ここまでくれば、明命の宿願は成ったも同然だった。


 以来、十余年。

 この国は飢神の異能のもと、歪な平穏を得て時を重ねた。

 明命という異種の加護の存在を、腹の闇に抱えたまま。






『それがこの国の全容だ。 わしはこの国が平穏な日々を送れるよう、異能で守ってやっているのだ』


 割れた声が、たまらない上機嫌をかもすように過去を語る。

 明かされる何もかもが、香流の心には受け入れがたかった。

 目の前の飢神が美弥を手中にした経緯も、それに下った弓鶴たちのことも、殺されてしまった耀角の真実も。

 何もかもが理解して飲み下すには、いとわしかった。

 だから、こみ上がるものが形を得て口から溢れ出ることも、止められなかった。


「守る……? 守るだと……?」


 あふれてそれは、何か、止めどないものに震えていた。

 寒い。

 体が冷えていくようだ。

 香流は己の芯が急速に熱を失っていくのを感じていた。

 守る。

 その形容が、たまらなく許しがたかった。

 だって、分かってしまっていた。

 明命が現れた瞬間から、むせ返るほどその匂いはきつくなっていた。

 香流は知っていた。

 それが何なのか。

 そして、それが香る意味も、銀正が語っていたあの言葉の意味も。


『奴はこの国を守る代わり、民から、あるおぞましい見返りを得てきた』


 眩暈めまいがする。

 無上に堪えがたい…… それでも。

 それでも香流は歪めた顔を、きつく張り詰めた眼差しを明命に向けて、深い闇の線を踏み越えた。


「その対価に、?」


 詰問は、闇の色を一層深めた。

 闇は嗤う。

 この国を守っているとかたりながら、うそぶきながら。

 その実、ただ己のために利用、……いや。



 、愉悦に歪む。



「まるで汚れのない綺麗ごとのように語るな。 これだけの国を異能で囲うのは、相当の力を必要とするはずだ」


 

 腐臭がする。

 血と肉が朽ちてゆく臭気が香る。

 もう、目を背けることはできない。


「これだけの力、お前は、何をもとにして能力を維持している?」


 臭いは、明命の現れた奥から届いている。

 闇深いそこには、夥しい『何か』が山のように積み上げられている。


「この城から出て来ない業人を、お前はどうした?」


 ただ、人の国を手にしたいだけだなんて欲を、飢神が持つはずもない。

 この飢神は、この国を手にして、飢神が最も求めるものを労せず得ようとしたのだ――――半永久的に。


 

「お前が、集めていたんだろう。 消息の途絶えた業人たちを……ッ」



 憤怒が、のどを焼く。

 闇を看破せんと香流は歯を喰いしばった。



 明命の陰に、は転がっていた。

 それは、血と肉にまみれた、白い。



 白い、人骨だった。



 変わり果てた、おそらく消えた業人たちの、残骸だった。



 決して城より戻らぬ、その理由と共に、転がっていた。




『げははははははは!!』




 耳を割るような大音声。

 明命は狂喜の笑いを上げて香流を見る。

 そして複眼の瞳孔を歪め、鎌を広げて嘲笑った。


『そうだ、お前の推察通り! わしはこの国を囲い、ッ この国は、わしの腹を満たすための飼育場。 集まった業人は、全てわしの食料!』


『わしは飢神だぞ? これだけの食い物、喰わずしてどうする!?』


『この国に生きる業人全て、わしが肥やして、わしが食らう! そのためのこれまでだ!』



「っ!!」



 視界が、白に焼ける。

 

 何かが、引き千切れる音がした。





「どうしてだッ!」



 激情に突き動かされるまま、香流は叫ぶ。

 叫びと共に怒りの火炎に身をくべて、この場にいる人間たちを睨みつけた。


「どうしてあなた方は、このような悍ましい国の有様を許容する! あろうことか、守るべき民を飢神に捧げ、そうして国の守護を願うなど……っ 到底人のなすべき所業ではない!」


 香流の剣幕に圧された上格たち。

 年嵩のその一人一人をねめつけて、香流はやる瀬のない感情に任せて拳を振り落とした。

 男たちは気後れしたような顔のまま、何も返さない。

 その手応えない様子に苛立ち、香流は弓鶴へと視線を移した。


「弓鶴様! あなた様も、あなた様だッ どうしてこのような鬼畜にくだってしまったのです!? どんなに憎しみに心が傾いても、あなたは耀角様を愛しておられたのでしょう?」


 愛した夫との死別を、耐えがたいと言っていたのに。

 忘れたくないのだと、痛みに涙なく泣いていたのに。

 その人を直接手に賭けた上格たちと並び立ち、その諸悪の根源であるものに首を垂れるなど。


 どうして、


「どうして、何も言ってくださらない……っ」



 弓鶴は応えない。

 香流の暴発するような疑念に、何も返してはくれない。

 ずっとあの能面のような顔のまま、玻璃はり玉のように香流を目に映すばかり。

 もう、何もかもが遅いと。

 船上で呟いた言葉を体現するように、生気すら、ない。



「――――国主様!!」



 想いが響くことのない上格と弓鶴に見切りをつけた香流は、明命の後ろに座る国主に顔を向けた。

 先ほどから、国主はこの事態に何も言葉を発していない。

 元々この国を明命に明け渡すと決断したのはこの男だが、それでも一国の長だ。

 香流は最後の綱にすがるように、国主に訴えた。


「どうか、お命じ下さいっ この国を守れと…… この飢神を排し、美弥を在るべき姿に返せと!」


 上格たちに弓鶴に。

 そして、自分に、命じてほしい。

 もうこれ以上の過ちなど、犯さないでほしい。

 例え、これまでを誤っていても。

 どうか、その一言を。





『無駄だ』


 しかし、非情な声は降る。


『『蝕』は二体までなら傀儡に出来ると言ったな?』


 明命が動く。

 脇に避け、体の後ろに隠してた国主を、香流の目に晒した。

 その顔が、初めて光の下、香流の目にはっきりと映る。



 息を、飲んだ。


 それは、最早、生き人では、なかった。



『もう一つの傀儡は、この男だ』



 明命の鎌が、国主の体を押す。

 まるで枯れ枝のようにやせ細ったその体は、糸が切れたように軽くくずおれた。

 同じだった。

 法師としての明命を演じさせられていた男と、同じ。

 目は落ち窪み、虹彩は濁り切って。

 しわにまみれた、血色のひどく悪い肌。


 生きているのも疑わしい程の、死人めいた有様。


『これはもう、廃人だ』






 足が、ひとりでに後退あとじさった。

 理解の及ばないものを眺めるように、香流は愕然と立ち竦む。


『元々権力に慣れた男だ。 わしに従いながらも、年追うごとにわしのやることに口を出すようになってなぁ。 あんまりうるさいものだから、『蝕』の力で狂わせてやった』


 すでにこのざまよ。

 そうあざける明命の声が遠い。

 ここまで。

 ここまで腐っているなんて。

 この国の中枢が、これほどの腐臭を放っているなど。


 耐えがたいものを、堪える。

 しかし理解の拒絶は、香流の口を勝手に操った。


「……銀正、殿は、」


 心が、震える。

 あの人は…… あの優しい人は、この闇を知っているのか。

 知って、全てを理解したうえで、右治代当主としてこれまで生きてきたのか。


 それは、

 その事実は、何を意味する?



『あの若造も、もちろん全て知っているよ。 あれは、この国の裏を外の狩司衆から隠すための要だからな』



 明命は楽し気に、銀正が決して明かさなかったものをつまびらかにした。


 

『この国の内情を外から隠すためには、定期的な狩司衆との交信は途絶えさせるわけにはいかない。 だからあれにはずっと美弥狩司衆頭目として、この国が外から疑惑の目を向けられぬよう、偽装工作を請け負わせていた。 ……あれは、よう働いてくれておるよ』


「そん、な……」


 足元が、不確かになる。

 立つべき場所が崩れていくような。

 そんな絶望が襲う。


 あの人は確かにずっと、香流に何かを隠していた。

 それを香流も知りながら、明かせないならと譲歩してきた。

 けれど…… けれど!!



 そこに、こんな悪夢が眠っていたなんてッ



「(あなたは、どうして、)」



 こんな悪徳に首を垂れたのだ。

 いくら国を守る力を対価とするとはいえ、民を飢神に喰わせて平穏を得るなど。

 そんな、非情な選択。

 どうして、あなたのような人が。


 崩れていきそうだった。

 何もかもが。

 親しみも、嬉しさも。

 銀正へ向かう柔らかな想いの全てが、音を立ててひび割れる。


 やめてくれと、心がむせぶ。

 壊れないでほしいと、崩れる欠片を拾い集める。

 それでも、崩壊は止まらない。

 現状を検分する理性が、銀正への不信を加速させていく。


 嫌だ。

 いやだ。


 だって、私は、



「(あなたを、信じたいと、思い始めていたのに)」



 失いたくなかった。

 ようやく形になり始めたばかりの、その愛おしいものを、取りこぼしたくなかった。

 香流は久方ぶりに、感情が理性を殺す感覚を味わった。


 裏切られたなんて、そんな想いすら。

 抱きたくなかった。



「(私は、あなたを――――)」



 それでも這い上がり、振り払えない絶望に、全てが覆われそうになった、その時。



「香流殿!!」



 木戸を破る音と共に、その人はたどり着いてしまった。

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