四十七
ずっと。
ずっと、真っ直ぐに自分を見つめてくれていた、あの黒の目が。
触れがたいほど
銀正は、自分の中の何かが、ひどくひび割れて崩れ行くのを感じていた。
それは、執着。諦観。絶望。
何も知らずにいてほしかった。
ずっと、あの美しい眼差しで、向き合っていてほしかった。
でもそれは、香流をこの国の闇に巻き込みたくないという、それだけの理由ではなかった。
失望されたくなかった。
銀正が犯した罪を知り、香流が侮蔑――――いや、それならまだいい。
あの清廉な人に、あなたは、私が信頼するにあたう人ではなかった、と。
失意と共に拒絶されることが恐ろしかった。
だからきっと自分は、鍛錬場の最後の会話で、全てを明かさなかった。
明命の正体も、董慶様のことも。
あの人はきっと、銀正の罪を許さないと分かっていたから。
許されたいわけではなかった。
許されていいなんて、思ったこともない。
でも、香流との間に積み上げたものを、失うことも嫌だった。
それすら罰だと受け入れるべきと
あの眼差しが銀正にもたらしたのは、董慶の死に縛られる銀正を解き放つ赦しだけではなかった。
あの眼差しが与えてくれたのは、
もう一度だけ立とう。
あなたのようにありたいと願い求めるような、
強く確かな、生きゆく意志。
失えなかった。
銀正にとって香流へ向かう想いは、絶望に立ち続けるための、最後の寄る辺だ。
慕い続けた師。
守りたいと思った故郷。
強くありたいと抱き続けた矜持。
何もかも奪われ、それでも卑しく生きた銀正の夜に、ようやく差し込んだ黎明の灯。
だから明命から、香流に何もかも知られたと告げられた瞬間。
銀正はずっと己を覆っていた夜の天蓋が、音を立てて崩れ落ちるのを聞いた。
知られた。
知られてしまった。
あの人に、あの、美しい眼差しの人に。
――――なにもかも知られてしまった! なにもかも!!
狂うような絶望に押しつぶされながら、銀正はがむしゃらな謝罪を繰り返した。
香流は
触れられたくなかった。
触らないでくれ。
あなたまで、汚れてしまう。
遠ざけるように距離を取る銀正を、きっとあの目は見ていた。
戸惑いと、混乱と、そして、深い失望と共に。
明命の嗤い声が止まない。
異形は何もかも明らかにして、銀正と香流を翻弄する。
董慶の死の真相も、銀正が明命に下ったわけも。
全てを
闇が広がる。
もう、何も見えない。
夜が、再び落ちてくる。
あの朝霧の寺で香流と共に見た朝日が、塗りつぶされる。
意志が。
もう一度だけ、立とうと
あの人の瞳が、消えてしまう。
全てが、掌から零れ落ちていくようだった。
断罪を、待った。
覚悟すら
香流が銀正の罪を、拒絶と共に切り捨てる。
それを、ただ怯えたまま、待っていた。
あの人は、きっと
罪ある者を真っ直ぐに断じ、正しく背を向ける。
だから、銀正はもう香流の目を見つめることはできなくなる。
それが苦しい。
苦しくて、たまらなく痛い。
でも、どうか。
最後に一つだけ、願った。
叶うなら私は、あなたの言葉で、裁かれたい。
あなたの決別の眼差しを、最後に胸に刻みたい。
私を、許さないでほしい。
許さず、どうか、遠ざけて。
直向きで美しいあなたを、決して汚さぬように。
どうか、私を、あなた自身の意志で捨ててくれ。
もうそれ以上など望まないから。
だから、と。
願った。
胸掻きむしるほどの希求だった。
そして。
その声は、銀正に届く。
「――――なにもかも、ふざけ切った話だ」と。
立ち尽くし、そして、
炎が宿る瞳を揺らしていた。
*
『これで分かったろう、娘。 お前が嫁に入った男は…… お前が頼みとするその男は、わしの傀儡。 わしの意向に従い、この国の人間をわしに捧げてきた。 お主ら人からすれば、咎人とでもいうのか?』
『同族を
そう思わせる声音で、明命は香流に言った。
ひどく優し気に、銀正との間に重ね上げたものをズタズタに引き裂くように。
静寂が落ちる。
誰も動かない。
明命も、上格たちも、弓鶴も。
銀正に至っては青ざめた顔を伏せたたまま、身じろぎすらしなかった。
弁明すら、語ってはくれなかった。
そうやって、どれ程の時がたっただろう。
震える吐息と共に、唐突に香流は言った。
「――――何もかも、ふざけ切った話だ」
そう笑った。
途端、自分を見つめる全ての目が、
だから香流はもう一度笑った。
決して気のせいなどではないと叩きつけるように、吐き捨てるような笑いを浮かべた。
「これ以上ない、馬鹿げた話だ」と。
『……何が可笑しい、娘』
うすら笑いを浮かべたままの香流に、明命は気分を害したと言わんばかり、低く唸った。
気配は苛立ちを滲ませ、威嚇じみて香流に降りかかってくる。
しかし、それすらものともせず、香流は歪に嗤い続けた。
その場にいた全員が、香流を見ている。
明命の苛立ち、上格たちの戸惑い、弓鶴の静観、そして銀正の。
苦痛。
香流は拳を額に押し付け、肩を震わせた。
そして歪む口元を噛みしめ、湧き上がるものを
「何が可笑しいか、だと? そんなこと、決まっている。 言っただろう、何もかもだ」
今しがた明かされた全ての真実。
明命の語った銀正の過去。
この国の闇に身を沈めてきた、彼のこれまでが。
全てが、香流を瓦解させていく。
「董慶様の遺骸を対価に、幼かったこの人の額に土をつけさせた?
配下を
守るべき狩士たちを質にとって?
そしてお前は言うのか。
この人が罪過にまみれた下劣な人間だと」
幾多の犠牲が流した血にまみれた、薄汚い人間だと。
「お前が…… お前が言うのか? ――――はは、ははははは、」
あはははははははははは!!
狂ったような笑いだった。
香流を見つめる全ての目が、当惑に揺れていた。
けれど、香流は冷えていた。
狂いをまき散らしながら、その実、芯の芯まで冷え切っていた。
そして全てを知って即座に心中へ浮かび上がった己の感情を、はっきりと理解していた。
「香流、殿?」
銀正が、弱弱しく香流を呼ぶ。
その痛々しい面差しに、香流は嗤いを治めた。
沈黙し、冷え切った心の鏡面に銀正を映し、その瞬間灯った熱を自覚する。
何もかもが、可笑しい。
可笑しくて、たまらなくて、
耐えがたいほどに、
――――許しがたいほどに。
「ふざけるな」
呟きは、あまりにも小さすぎて、誰にも届かなかった。
故に次の瞬間、香流が動き出したのを、誰も止められない。
香流は立ち
銀正は痛々しい眼差しで、香流を見ていた。
そこにあふれる恐れ、悲しみ、諦観。
何もかもが香流の炎を掻き立てた。
許しがたかった。
そんな悲壮にこの人がまみれているのが、たまらなく苛立った。
だから、香流は
ガヅン……ッ!!
「ぐっ!?」
容赦ない勢いで、頭突きを見舞った。
『!!?』
骨と肉が躊躇いなくぶつかり合う音が、鈍く響く。
成り行きを見守っていた幾多の目は、驚き丸く広がる。
誰もが小娘の突然の行いに、言葉を無くしていた。
そんな中、当の香流だけが明瞭に動き続けた。
香流は額を押さえて
「……目は、覚められたか? 御当主」
凍てついた香流の問いに、頭を
答えはない。
しかし、それを待たずに香流は続けた。
「母には、伴侶たる人が弱きに惑ったときは、腹に一発蹴り入れて目を覚まさせるよう言われておりました。 だが、その混乱した御様子なら、目を覚ますには、こうするほうがよろしかったでしょう?」
伴侶という言葉に、銀正がびくりと引き
旅立ちと共に、母に贈られていた言葉。
それを久方ぶりに思い返しながら、香流は淡々と言った。
本当は腹に蹴り入れることも追加してやりたかったが、今は向き合わねばならない相手が他にもいる。
だから香流は痛みに
『げはははははははっ! なんだ、突然! 狂ったかと思えば、面白い奇行を見せる嫁御だなぁ!? 見ていて飽きぬわっ』
「黙れ」
香流の行動を見世物のように笑う明命。
その愉悦を短く切って捨て、香流は凍てついた目元を細めた。
「この人が、咎人? この人が、下劣な性分だと?」
銀正を飼い殺していた異形の言を繰り返して、香流は立つ。
低く押し殺した呟きは、身の内に宿った火種を激しく
燃え盛り始める火炎を感じながら、香流は
「ああ、そうだな。 そうだろうとも。 確かに、この人は貴様に服従し、多くの命を犠牲にして国の平穏という対価に
『ああ、そうだよ、その通りだ』
民を、配下を。
幾多の命を取る代わりに、贄として少数を飢神に捧げて。
そうして守られた国で、たった一人生きた人。
明命が香流の口上に、笑みを深めて肯定する。
その通りだろうとでも言いたげに、嘲笑を描く。
だから、
「そうだな」
失笑。
そして頷きと共に、香流は顔を伏せた。
「確かに、許されざる行いだろうとも……」
「…………そう、私が言うとでも思ったか?」
怒りに燃える瞳に、最後の熱をくべるために。
「ふざけたことを抜かすな!
香流は厳然と顔を上げ、明命を睨み据えた。
激昂の叫びだった。
それは、断罪や正論のような整然とした言葉ではなかった。
それは、激情。
決して繕われたところのない、掛け値なし。
真実、香流当人の、
感情の発露、だった。
「この人は、」
腕を振り下ろす。
香流はそのやり場のない力を皮切りに、叫んだ。
「この人は、確かに守ろうとしたのだ!! この国を、この国に生きる多くを! 民を、配下を!
例えそれが少数の犠牲の上にあるものだとしても!!」
きっと、銀正は何にも縋れなかった。
師を失い、家族と側近はその
決して誰も巻き込まぬように、この人は一人きりを選んだ。
誰も、明命の駒となるしかなかった銀正の手を取る者はなく。
誰にも、この国の歪を正す助力を願えず。
それでも、自分が守ることができる最善を尽くそうと、きっと今日まで生きてきた。
それが、師を殺し、配下を殺し、銀正の矜持に泥を塗った相手に
『国崩し』という最後の切り札を持つこの異形に、『全て』を奪われないように。
「この人は……
お前に『国崩し』という切り札を押さえられたと理解したこの人は、
最早、自分一人では全てを救えぬと、
『少数の犠牲を出す道』を選ぶという許されぬ罪を、
誰にも譲らずその身に負うと決意して選択したはずだ!」
死に逃げることだって、できたのだろう。
でも、この人は、それをしなかった。
死を恐れたわけではないはずだ。
だって、そうだとすれば、あの祭りの晩。
香流が向けた刃に、銀正は怯えたはずだ。
けれど、銀正は笑っていた。
笑ったんだ!!
「この人は誇りも矜持も泥に沈め、命すらきっととうの昔に諦めて、右治代当代を背負った!!
耐えがたい罪も、肥大しすぎた責も抱え込んで、己への救いすら求めない生き地獄を生きることを選んだ!!
なのに…… なのにッ!
それを
炎が燃え上がる。
怒りと遣る瀬無さを種火にして、劫火のように燃え盛る。
許せない、許しがたい。
何もかも。
この国を食い物にする異形も、それに追従する者たちも、これまでにこの国の闇の犠牲になっていった命があったということも。
銀正が、己の犯した罪故に、香流に苦しみ謝罪したことも。
どうしてだ。
許せない。
だってあなたは、
あなたは、ただ守ろうと生きただけなのに!
香流は激情を吐きつくすと、一転、全てを噛み殺して俯いた。
俯き、そして、身中に荒れ狂う熱を燃やし、拳を握りしめて地獄から轟くような声を呟いた。
「この人は、守るために生きた。
それが、犠牲を差し出す血塗られた道としても」
「
鍛錬場の渡り合いで、銀正は、
「全てを詳らかにして、脅されてきた自分を弁明することだってできたのに。
この人は、何も言わなかった。
それは、」
「許されるつもりはないと、覚悟していたからだ」
断言した瞬間、傍らにある気配が息を飲んだ。
それに正鵠を射たと知った香流は、痛みを抱えながら銀正を見た。
琥珀の目は、動揺に波打っている。
口元が、怯えながら『ちがう』と動く。
しかし、香流はそれ以上の虚偽を許すつもりはなかった。
「私の目の前で、これ以上の隠し事はまかり通しませんよ、御当主」
私は、あなたを知った。
あなたと過ごした。
あなたと向き合った。
刀を重ねた。
そうして心中の鏡面で映してきたあなたを、私はもう、隠し事には逃さない。
香流は真っ直ぐに明命に向き合い、そして告げた。
「聞け、下郎。
この人が耐え忍び続けた苦悩を、お前が無力無能と貶めるというなら、
犠牲の血だまりに沈んだこの人を、私は
そしてその罪過と悔恨に汚れた魂を拾い、
すべての泥を
香流は燃え盛る炎を掴んだ。
激しい熱と気勢で荒れ狂うそれの喉元に食らいつき、腹の底へ飼いならす。
そして、灼熱の力を
「この美弥に殉じんと汚泥にまみれた右治代忠守の名、
その汚辱、
私が雪ぎきってみせる!」
香流に傅いた火炎が天を
全てを燃やし尽くすように、娘は立っていた。
この国でたった一輪。
泥中に根を張り続けた華に、長い夜を切り裂く暁光を差し伸べるために。
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