幕間

 草の茂る平野に、馬蹄音が疾駆する。

 全速力の馬を駆るは、白銀の男。

 男は、銀正は、焦燥に突き動かされるまま、馬を走らせていた。


 結局、銀正が抱いていた憂いは、ものの見事に吹き飛ばされてしまった。

 組頭たちは、最早銀正の不在などより、美弥狩司衆の威信を示そうと奮起して。

 十雪は、青い憧憬と共に銀正が望む道を行くことを願って。

 真殿に至っては、まるで面白ければそれでよしとでも言いたげに。

 三者三様、まったく自分勝手に銀正の背中を狩場から押し出した。

 お前の向かうべきは、他にあると言外に断じて。


 それでも、迷いが消えたわけではなかった。

 心の求めるままに走りながら、一方で投げ出したものへ拘泥する思いもある。

 しかし、最後の最後。

 真殿に言われた言葉に、秤が振れた。


『香流の力になってくれ。 あの子を、董慶師の二の舞にせぬように』


 どうして、と仰天する思いだった。

 にっこりと笑う香流の兄という人が、一体どこまで勘づいているのか。

 目を見開いて真殿を見返した銀正には、底が知れなかった。

 ただ、今はそれをただしている暇がないことだけは確かだと、銀正は馬に飛び乗った。

 そうして一人、在るべき場所を背にし、馬を駆っている。


 香流のもとへ向かうと決めた以上、思考は幾分静寂に沈んだ。

 そうすると、今度は余分な記憶が、頭の奥底からよみがえってくる。

 誰かが、何かを叫んでいる。

 幼い、あれは、


 あの忌まわしい、始まりの夜の、己の絶叫――――






 *






 あれはまだ、銀正が師である董慶と、美弥狩司衆所縁ゆかりの菩提寺である会照寺で、共に暮らしていた頃のこと。


 董慶との出会いから、数年。

 数え十四になっていた銀正は、日々を狩士になるための修行に費やしていた。

 董慶は、素晴らしい師だった。

 寺に軟禁されているに等しい生活であるため、銀正には他の狩士の技量を知る術はない。

 それでも銀正にとって董慶は、心から敬愛するに値する人であった。

 董慶が素晴らしいのは、狩士としての力量だけではない。

 日々を過ごす一挙手一投足、全てをおろそかにしない誠実。

 老年にさしかかろうとも、決してたゆまず鍛錬に取り組む姿勢。

 強くありたいと願いつつも、どうしても心折れそうになる銀正を、温かく支えてくれる器量。

 全てが凛然として美しく、まぶしく。

 ああ、いずれ自分も、この人のようにありたいと心から願うような、人としてのしるべのような方だった。


 そんな日々を送っていた時分だ。

 元々五年の約束で美弥に滞在していた董慶も、里へ戻る時期を迎えようとしていた。

 銀正は勿論それを惜しんだが、実は当の董慶から、良ければ共に来ないかと打診されてもいた。

 そもそも銀正が狩士を目指したのは、故郷美弥を守る一助となりたいからであった。

 だが、長じるにつれ、それは難しいことでもあると気づいてもいた。

 銀正は奇児くしこだ。

 それも、美弥守護家直系の子だ。

 生家の右治代の親が家で銀正を育てずに寺に預けた時点で、銀正は狩司衆としての表舞台に立つことは望まれていないと、察しがつくようになったのだ。

 この国では、自分は刀を振るえない。

 そう理解するようになっていた。

 だから、董慶から持ちかけられた誘いは銀正にとって大変魅力的で、銀正自身、叶うならそうしたいと心から思っていた。


 ただ、銀正は会照寺預かりとはいえ、名家の継嗣だ。

 家の許しがなければ出国などできない。

 そのため、五年目を迎える日が近づいた頃。

 銀正の願いを叶えようと決めた董慶は、足しげく銀正の生家・右治代へ伺いを立てに赴くようになった。

 銀正と共に美弥を発つため、家の許しを得ようとしたのだ。

 交渉は難航したらしかった。

 奇児ゆえに家を追い出しておきながら、右治代としては、男児を手放すことは避けたい。

 故に国外への旅などもってのほかと、董慶を門前払いし続けた。

 銀正はそれでも食い下がり続けてくれる董慶に申し訳ないと思いつつ、どうにか出国が叶わないかと、日々願いながら過ごした。


 そんな日々が続いた頃だ。


 いつものように鍛錬に励んでいた銀正は、董慶の様子がおかしいことに気が付いた。

 日々、明朗闊達で笑顔を絶やさない董慶であったのに、時折ひどく難しい顔で物思いにふけることが多くなったのだ。

 心配した銀正は、董慶に問いただした。

 一体何をそんなにお悩みなのか、と。

 そう言うと董慶は決まって苦笑し、銀正の頭を撫でて首を横に振った。

 『何でもない、気にするな』、そう言って微笑んでくれた。


 けれど、銀正は気が付いてしまった。


 それは、たまたま董慶に返し忘れていた書物を返そうと、董慶がねぐらにしていた離れのいおりへ夜中に赴いたときのことだ。

 すでに深夜を過ぎ、草木も眠る刻限。

 本当は、本など翌日に返してもよかったのだ。

 だが、これを機に今度こそ董慶の憂いの訳を問いただそうと決意していた銀正は、眠る者たちを起こさぬよう、足音を潜めて庵へ向かっていた。

 きっともう、董慶も寝ついているだろう。

 しかし、あの人なら仕方なさそうに笑って、銀正を迎えてくれる。

 そんな確信を抱きながら、庵に続く角を曲がった時だ。

 銀正は、視界に捉えた庵から、人影が出てくるのに気が付いた。

 闇の中でも見間違えようのない姿。

 董慶だった。

 遠目故に表情までは分からなかったが、董慶は帯刀していた。

 そして全く音もなく、寺の裏方へと消えていった。

 月もない夜だ。

 なのに、灯りも持たずに何処かへ向かった董慶を、銀正は呆然と見送った。


 しばらくそうしていたが、その日はそのまま、銀正は居室へ戻った。

 戻りはした。

 だが、銀正の身の内は、膨らむ疑問で渦巻いた。

 どうして、董慶は忍ぶようにどこかへ出かけたのか。

 一体どこへ向かったのか。

 全ては董慶本人に質せばよい話ではあった。

 だが、昼間。

 やはり表情の晴れない董慶に訳を問うのも、そもそもが忍ぶように闇に消えた後姿に、銀正が見ていたことを明かすのはとても躊躇われ、結局銀正が疑問を言葉にすることはなかった。

 その代わり、銀正は董慶を見送った日から夜な夜な部屋を抜け出しては、董慶が出かけていくのを確認するようになった。

 董慶はほぼ毎晩のようにどこかへ向かっているようであった。

 その時には、必ず帯刀している。

 平素、決して庵から持ち出さない真剣を携える様はどこか物々しく、銀正は増々疑問を深めた。



 そんな夜が続き、同時に、董慶の旅立ちの日も近づいた秋の終わり。



 とうとう出国の許しが出ず、董慶との別れを覚悟した銀正は、一つ、大きな決断をした。

 家の許しなど、もう願わない。

 どうか自分も共に連れて行って欲しいと、師に頼み込むことにしたのだ。

 覚悟を決めれば、行動は早かった。

 銀正は必要最低限にまとめた荷物を持って、夜に姿を消す董慶を、彼の庵で待つことにした。


 昼間、誰かしらがうろついている境内では、こんな話はできない。

 夜、理由は分からないが、どこかに出かける董慶の邪魔もしたくない。


 なら、暁の前に戻るらしい董慶を待ち、固めた決意を訴えようと決めたのだ。

 まとめた荷も、覚悟の証にするつもりだった。

 月のない晩だった。

 いつものように闇に溶ける董慶を見送り、誰もいなくなった庵に忍び込んで銀正は足を抱える。

 もう、後には引かないつもりだった。

 共に行きたかった。

 そうしてもっと強くなり――――いつか、家族に認められるような狩士になりたかった。

 だから待った。

 待ち続けた。

 暗い夜に身を潜め、覚悟を抱いて待ち続けた。



 待ち続け、いつの間にか落ちてきた眠りの気配に、沈みかけた頃だ。



 夢の微睡まどろみに、何かが近づいてくる音が聞こえた。



 なんだ?


 ぼやけた思考が、淡い疑問を生む。

 そして、




 がたたっ!!




 静寂に響き渡った騒音に、銀正は跳び起きた。

 一瞬、理解が追いつかない。

 それよりも、視線が音源を確かめるのが先だった。

 庵の障子だ。

 開け放たれている。

 誰かがいた。

 暗闇を背負い、その人は、――――董慶は、仰天して銀正を見ていた。


「どうして、」


 ため息のような問いに、銀正は硬直したまま答えない。

 だがゆるゆると現状に追いつくと、しどろもどろ、釈明を口走った。


「あ…… も、申し訳、ございません、師匠。 その、聞いていただきたいことが、」


 あって。

 そう、返そうとした言葉尻は、夜気に溶けた。

 銀正の、琥珀の目が見開かれる。

 暗い。

 暗い闇夜だ。

 月明かりもない。

 なのに、分かってしまった。

 ムッとする異様な匂いが、董慶からした。

 そのぬるい匂いを、銀正は知っていた。

 菩提寺であるこの寺に、死して運び込まれる狩士たちが纏っていた臭い。

 血だ。

 血の匂いだ。

 それも、大量の。


「し、しょう……?」


 目を凝らす。

 董慶の衣装の半分が、黒く染まっている。

 その中心。

 右肩には、何かに裂かれたような外傷。


「師匠!!」


 仰天して立ち上がった。

 董慶は手負いだった。

 それも、大量の血を流しながら。

 とても尋常の様子ではない。

 銀正は咄嗟に董慶へ駆け寄り、その傷を確かめようとした。

 止血だ。

 止血をしなければ。

 混乱する頭にそれだけを抱え、董慶の肩に手を伸ばす。

 だが、


「っ!?」


 一手、董慶の方が早かった。

 董慶は駆け寄ってくる銀正を捕まえると、片腕で銀正の肩を掴み、鋭い形相で視線を合わせてきた。

 そして、


「逃げるぞ、銀正」


「え……?」


 戸惑いが、夜気に浮かぶ。

 銀正は動転していた。

 逃げる?

 逃げるとは、どこへ?

 一体…… なにから?

 渦巻く疑問にくらくらしながら、銀正は震える唇を開く。


「ど、どこへ、逃げるんですか……? そ、そんなことより、」


 まずは止血を。

 そう、言いかけた。

 言いかけただけで、言葉にはならなかった。


「どこでもいい、とにかく、今すぐこの国から逃げ出すんだ」


 五年一緒にいて、初めて見る顔だった。

 董慶は傷のためか、息を荒らげながらそう断じた。

 咄嗟に、訳を問う声が口を突いて出そうになった。

 だがそれも見越していたのだろう、董慶は「今はゆっくりしていられない、訳は後で話す」と追及を封じて、部屋の奥へ向かった。

 董慶は隻腕で器用に葛籠つづらを開け、何かを大切そうに懐に入れる。

 それは、見慣れない衆紋が刻まれた根付だった。

 董慶の元居た狩司衆のものだったのだろうか。

 呆然とそう考えていた銀正だが、董慶は動かない弟子のもとに戻ると、その手を取って庵を後にしようとした。

 しかし、


「っ! 追いつかれたかッ」


 外に出た瞬間、董慶は険しい顔で足を止めた。

 その横顔を眺めるしかない銀正は、覚束おぼつかない思いで外を見遣る。

 何もいない。

 だが、おそらく董慶は何かを察知している。

 そしてそれは、なにかなのだ。

 

 理屈より本能に近いところでそう感じ取った銀正は、怯えに駆られて一歩後ずさった。

 おののく弟子にさっと視線をやると、董慶はその足元にひざまずき、下から視線を合わせて言い含めてきた。


「奴らが来る。 隠れてろ、銀正。 決して出てくるなよ」


「や、奴ら……?」


 鸚鵡おうむ返しに呟けば、董慶はそれ以上応えず、銀正を庵に隠して障子を閉じてしまった。

 自身は手負いのまま、一人外に立ち尽くして。


「師匠!?」


 慌てて師に呼びかければ、「決して音を立てるなっ」と鋭い制止が返る。

 銀正はそれ以上何も言えず、障子に取りすがって硬直した。



 そして、は現れたらしかった。



「……よう嗅ぎつけたな。 血の匂いには意地汚いと見える」



 董慶が、皮肉げに言い放ったと同時。

 庵を囲む竹林を踏み分け、何者かが、――――いや、複数の人間が現れたようだった。

 正体不明の一団は、鋭い殺気を飛ばして董慶を囲む。

 障子越しにもそれが分かった銀正は、咄嗟に口を押えて気配を殺した。


「仮にも狩士たる者が、人斬りに刀を振るうものではないぞ」


 董慶の揶揄やゆに、銀正は耳を澄ませる。

 狩士?

 では、今董慶にあからさまな殺意を向けているのは、この国の狩士だというのか。

 唖然とたじろぐ銀正。

 その手が、体を支えようとした瞬間、



 外の気配が、素早く跳躍したのが分かった。



 がきぃいいいん!!



 闇に沈む静寂が、刀の食い合う鋭い音に破られる。


「っ!!」


 激しく息を飲んだ。

 その音を噛み殺そうと、両手できつく口を押える。

 障子の向こう、董慶の朧げな影が、いつの間にか刀を抜いていた。

 大柄なその姿に向かって、いくつもの人影が切りつけていた。

 声が、堪えきれない。

 しかし、わずかでも漏らすわけにいかない。

 死闘は紙一重の斬り合いをつづけていた。

 漏れ出る自分の僅かな声だけでその均衡を崩してしまいそうなほど、張りつめた渡り合いだった。


「(師匠……!)」


 銀正は耐えた。

 自分は今、丸腰だ。

 どんなに助太刀を願っても、得物がない状態では董慶の足手まといにしかならない。

 しかし。


「(いやだ…… いやだ、師匠!!)」


 恐ろしくてたまらなかった。

 董慶は手負いだ。

 そもそもが隻腕。

 多勢相手ではいくら腕に覚えがあろうと、いずれ体力を削られる。


「(師匠っ 師匠、師匠、師匠!! どうか……ッ)」


 緊張が高まっていく。

 打ち合う硬質な音は止まない。

 董慶は幾人かを切り伏せたらしかった。

 だが、まだ敵は片手以上は確実にいる!



 がぎぃぃいいん!


「ぐぅっ!」



 耳裏をずたずたに引き裂くような音が響くと同時。

 初めて董慶が声を上げた。



 ぷつり。



 張りつめた線が、引き千切れた。




「っ、師匠!!」




 堪らず銀正は障子を開けた。

 恐怖と焦燥が逆巻く衝動のまま、庵の庭先に飛び降りる。


「出るなっ 銀正!!」


 開けた視界の先で、血を顔に受けた董慶が叫ぶ。

 その周囲には、闇に紛れるような男たち。

 握りしめている鋭利な刃先はすべて、師の喉元を狙っていた。

 

「やめろっ!!」


 立ち向かう術はない。

 しかし、ただ黙って守られていることも、無上に耐えられなかった。

 失えない、失いたくない。

 銀正は敬愛する人を守るため、渾身込めて叫んだ。


 その瞬間。



「!? よけろッ 銀正!」


「?!」



 竹林の闇に何かを察知した董慶が、銀正に向かって鋭く警告する。

 だが、遅かった。

 が、冷たい夜気を裂いて二人に迫る。

 董慶がそのを刀で弾いた一瞬。

 その陰に隠れたもう一つが、銀正の頬をえぐり飛ばした。


「ぁ、ぐっ……!」


「銀正!!」


 接触の刹那、銀正は瞠目して背後に倒れ伏す。

 頭を揺らす衝撃が過ぎ去り、空白。

 次の瞬間、猛烈な熱と激痛が神経を貫いた。

 


 痛い、――――痛い痛い痛い!!



 燃えるような熱源を、手で強く押さえる。

 頬の肉は抉れて形を変え、どろりとした血が次々したたり始めていた。


「銀正!」


 董慶が張りつめた声で叫んでいる。

 しかし応えられない。

 痛い。

 痛くて、何もできない。


 師匠、――――師匠。

 死なないでください。

 どうか、お願いだから、



 私を置いて行かないで。









『なんだ。 鼠でも紛れ込んだかと思って、刻んでしもうたわ』


 声がした。

 ひどく耳障りで、顔を顰めたくなるような声だった。

 それが何かを言っている。

 それしか分からなかった。

 うずくまっていた。

 痛みをこらえるばかりで。

 だから、誰かが銀正を捕まえて引きずり倒しても、全く抵抗すらできなかった。



『その銀の色、右治代の子か』



 声が、歪な音で言葉を紡ぐ。

 手を後ろ手に押さえつけられて、傷口を押さえられない。

 そうだ、師匠は?

 董慶は、どうした。

 まだ無事か?

 痛い。

 でも、


「し、しょう……」


 頬の痛みで、目が霞む。

 それでもぐいと見上げた先に、慕わしい大きな背中を見つけることができた。

 董慶は竹林の闇を見据えて、腹から轟くような威嚇を告げた。


「この子に手を出すな」


『その様でよう吼える。 足手まといの心配をしている場合か? 高尚な慈悲を垂れ流す前に、己の命乞いをしたらどうだ』


 首晒せ。


 声の指示と共に、銀正は髪を掴み上げられ、首筋へ冷たい線が当たるのを感じた。

 刀だ。

 反射的に理解できた。


「……随分、下劣な真似をおぼえたものだ」


 董慶が忌まわし気に吐き捨てて言う。

 声は反射的に嗤い、『動くなよ』と愉悦を滲ませた。


『この子供の命が惜しいなら、得物を捨てて首を寄越よこせ。 ……人は、こう言えば、手向かえんのだろう?』


 くつくつと命じる声に、董慶は一瞬殺気を膨張させた。

 それは銀正すら竦ませるほどの怒気で、周囲を囲む男たちもこれにはひるみを見せたようだった。


『ほう、従わぬか? 活きのいいのも結構だなぁ』


 声は動じない。

 それどころか一層いやらしく嘲笑を含めて言った。


『まぁ、従わんのも一興だ。 その子供、殺して見せようか』


「ぅぐっ……!!」



 髪が、一際強くつかみ上げられる。

 喉元の刃が、薄く皮を切った。

 死が、目前に迫っている。

 本能だけが、それを正しく察知していた。


「やめろっ!」


 董慶の制止。

 目が霞んで見えない。

 師匠。

 だめだ、


。 それほど惜しいものでもない』


 声が、迫っている。

 董慶を追い詰める。

 やめろ、――――やめろ、

 やめてくれ。



『まぁ、お前としても足手まといを消せて、多少は勝機に縋れるだろう? 一つ、わざわざここまで出てきた見世物にその子供、――――殺せ』


「やめろ!!」



 今度こそ柔い肌を切り裂くはずだった刃は、びりびりと痺れるような怒声に動きを止めた。

 そして、董慶は投げ出した。

 常日頃、たとえ死しても離すなと銀正に教え込んできた、狩士の魂。

 大切な一本刀を敵前に投げ捨てた。



 だめだ、


「し、しょう……っ」



 銀正は藻掻いた。

 背中にのしかかる男を振り払わんと、痛みを忘れて暴れた。


 だめだ、だめです、師匠!!



「にげ、て……」


 土を掴む。

 泥にまみれながら、董慶に手を伸ばした。

 刀を拾って、何にも構わないで。

 私に構わないで、行って下さい。

 生きてください。

 それを投げ出さないで。

 それを、命を、



「いや、だ…… いやだ、……師匠っ」



 逃げて



「……逃げて、くださいっ」



「銀正」



 優しい声が。

 秋風のように自由で、優しかった声が。

 まったく凪いでしまったような穏やかさで、銀正を呼んだ。

 銀正はたじろいだ。

 たじろいで、動きを忘れて、ただその人を見上げた。

 董慶は笑っていた。

 いつも通りの、家族にすら見捨てられた銀正が唯一拠り所にするあの大好きな笑顔で、穏やかに笑ってくれていた。


「すまんなぁ、教え諭してきたわしが反故ほごにする始末だ」


 最期まで、手放すな。

 それを、この人は強く繰り返して言い続けていたのに。

 ――――言い続けていたのに!



 銀正のために捨ててしまった!





 手を伸ばす。

 届かないと知りながら。

 無力感に打ちひしがれながら。

 それでも掻きむしるような希求に突き動かされ、銀正は大切な人に手を伸ばす。




「お前は、手放すなよ」





 そして、その晩、








「いやだああああああ!!」




 ほとばしった絶叫が、銀正を殺した。

 その細い喉を埋めて、董慶が育て上げてくれた精神こころを殺した。


 生きながらの死。

 その始まりを告げる、秋の終わりの夜のことだった。











 馬は走り続ける。

 

 あの晩、銀正は師匠の死と共に、故郷・美弥の闇に触れた。

 董慶を殺した声は言った。

 師を食い物にして繋いだ命、意地汚くしがみついて、みじめな生き様をさらせ、と。


 あの日から声に飼い殺されることとなった銀正は、幾度も死を考えた。


 だが今際いまわきわのあの人の言葉が、それをさせなかった。


 生きた。

 確かに、銀正は今日まで生きてきた。

 それは師が、その命を賭して繋いでくれた生だった。

 そして、師を殺した怨敵から、嘲笑と共に投げ与えられた生だった。


 生きていれば、師の敵を取ることもできるやもしれぬと、怨念に縋りもした。


 だが、生きながらえ、そうして至ったのは、それまで以上の地獄だった。


 怨みすらいだけぬほどの、絶望に沈むような地獄だった。


 もう、気力すら失いかけていた。

 師の敵を取ることすら、諦めかけるほどに。





 なのに、





 そんな生き地獄に、あの人は現れた。





『銀正殿、私は、貴方が御自分を許すことを望みたい』





 香流殿。

 

 自分と同じ、あの秋風のように自由だった人を師と仰いだ人。

 自分のせいで、政治の駒として右治代に嫁がされた人。

 強く。

 怜悧で。

 それでいて、



『あなたの心が損なわれてゆくのを、黙ってみているなんて、できませんよ』



 慈しみ深い想いを与えてくれた人。





 その人に、今危機が迫っている。







「(行かないでくれ)」


 馬を駆る。

 今この時、この一路だけに力を尽くしてくれと願いながら、手綱をきつくつかむ。


「(間に合ってくれ)」


 もう、失いたくなかった。

 なににも、消えてほしくなかった。


「(もう、この手から零れ落ちていくのを、見ているだけなんて耐えられないんだ……ッ)」


 だから。


「間に合ってくれ……ッ」


 香流殿。

 あの朝に、あなたが、もう一度だけ私を生かしてくれた。

 だからこの命、あなたのために燃やしてみせる。


 美弥城下が目前に迫っていた。

 遥か蒼天に、白亜の城はたたずむ。

 その染み一つない城が腹に抱えるおぞましい闇を目指し。

 眩い朝に銀正を目覚めさせてくれた彼の人を目指し。


 銀正は駆けた。


 時節は夏の入り。


 涼やかな熱を孕む夏風がその背を追い立てて、銀正は一路、城へと馬を走らせていった。

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