四十二

 美弥城下近隣の、主要な防衛地点。

 飢神狩りの体制を整えた銀正は、そこへ向かっていくつかに分けた配下の一団を率い、馬を進めていた。

 銀正が向かったのは、伝鳥で渦逆が進んでいると示されていた経路の真正面だった。

 山間への入り口の、腰以上ある足の高い草が広がった野原。

 見渡す限り動くものは何もないと思い進んでいたそこに、



 ――――その人影は、突然現れた。






「!? とまれッ」


 ぬらりと立ち上がったその人を認めた途端、銀正は停止の号令を叫ぶ。

 合図を受け、配下は歩きの者まで、がくりと動きを止めた。

 銀正は素早く視線を走らせ、現れた者を観察する。

 それは男だった。

 全身赤銅しゃくどう色の着物に、簡素だが鎧を身に着け、脇に流した長髪を風に揺らしている。

 腰には一本刀。

 狩士だ。

 瞬時に直感し、そして顔を認めて記憶が巻き戻った。


「あの人は、」


 呟きと同時。

 赤銅の男は、にいと笑って近づいてきた。


「久方ぶりだな、――――婿殿?」


 男は香流の兄、真殿だった。

 香流の輿入れの日の、僅かばかりの邂逅でその顔つきを憶えていた銀正は、馬を降りて真殿を迎えた。


「お久し、ぶりです、……義兄あに上」


 初対面での手ひどい非礼に負い目があった銀正は、気まずい思いで頭を下げる。

 まだ香流とは許嫁の間柄だが、他に呼びように困って、銀正は義兄と口にした。

 真殿はそれに、どこか笑い出しそうにしながら、肩を揺らす。

 続けて銀正が、「輿入れの折は、大変失礼な態度を致しました。 心よりお詫びを……」と言いかけると、真殿は大仰に片手を振って、にかっと笑ってみせた。


「いいさ。 は元気にやってるんだろ? なら、俺が言うことはなにもない」


 あれは、そうやわにはできてないからな。

 等閑なおざりなようでいて、その実、心底気を置いていないといったような真殿の言い方に、銀正は言葉を飲む。

 短いやり取りだが、そこにこの兄妹の風通しのいい距離感が感じられ、はっとする心地だった。


「とはいえ、まぁ、面と向かっては初めてか。 ――――形式上はあんたの義兄だ、以後よろしく頼むよ」


 真殿はそう言うと、「伝鳥は受けたな?」と確認した。

 頷き返せば、義兄はおどけたように肩を上下させて背後に視線をやる。


「さて、今回は申し訳ないな。 うちの関守がとちったばかりに、お宅にまで尻ぬぐいをさせることになった」


「い、いえ、」


 申し訳なさなど一切思っていないような軽妙さで真殿が言い、銀正は慌てて首を横に振る。

 本来なら美弥側としては真殿の里の不手際を糾弾してもいいところだ。

 だがそれをせずに慎ましく言葉を控える銀正に、真殿はふっと苦笑して背後の山を指示した。


くだんの飢神だが、まさしくこの先だ。 もう数刻もせずにここに至るだろう。 何とかうちの手勢で足止めしてるが…… まぁ、時間の問題だな」


「……あ、あの! 失礼ではありますが、あ……義兄上は、何処いずこの狩司衆に御所属でしょうか? 伝鳥の文には、五老格様の許可印はありましたが、衆紋(=各国狩司衆が持つ紋印)がありませんでしたので……」


 狩司衆のやりとりする文には、発送する側の狩司衆の衆紋が必須だ。

 だが、今回の知らせの文には送り主の立場を証明するものは何もなく、なぜか狩司衆最上位・五老格の保証を意味する赤印だけが押されていた。

 文を受けた直後に、香流から接近しているのが彼女の里に所縁ゆかりのある狩士だと聞いたためここまで出てきたが、本来なら正式な依頼と受けるには、幾分怪しい書面であったのは間違いない。

 香流が五老格の身辺から推挙された娘なら、彼女の里も五老格のいる央の国・秀峰所属の狩司衆だと思われるのだが。

 困り顔で銀正が問えば、真殿はきょとんと瞬きして虚を突かれたような顔する。

 それから「おーっとぉ?」と呟いたかと思うと、くるくると蟀谷こめかみを指で掻き、


「その様子じゃぁ、香流からは何も言われとらんな……?」


と、渋い顔で口をへしゃげてみせた。


「はい。 香流殿からは、崩渦衆という狩士についてと、件の渦逆の能力についてくらいで……」


 今から共闘することになる真殿たちの所属についてはなにもと、銀正は首を振る。

 香流の家に所縁があるなら、決して不確かな立場ではないとは思う。

 だが、何分なにぶんはっきりとした身元が分からねばやりにくいというのが本音で、それを真殿も分かっているのか、はぁと大きくため息をついていた。


「意図して言わなかったのか、言い忘れただけか……」


 真殿はぶつぶつ呟いていたかと思うと、瞬間ぱっと切り替え、仕方なしとばかり、へらっと笑った。


「とりあえずは…… 流しといてくれ」


「は?」


 あんまり投げやりな返答に、銀正は呆気にとられる。

 しかし真殿はそれ以上応えるつもりもないらしく、くるっと背を向けてしまう。


「心配するなぁ。 老格の爺共から直々に許しが出るような家柄だ。 それだけあれば、十分だろ」


 こっちがアンタらの足を引っ張ることはないよ。

 そう言って投げると、真殿はすたすたと歩きだした。

 渦逆のところへ向かうのだろうか。

 しかし、まだ話を終えるわけにはいかない。

 慌てて銀正は足を踏み出しかける。

 その時だ。


「伝鳥! 伝鳥!!」


「!!」


 背後に控えた配下から、報が飛んだ。

 銀正は瞬時に背後へ視線を走らせた。

 振り返ると見慣れた鳥が一羽、蒼天をこちらに向かってくる。

 伝鳥は真っ直ぐ銀正を目指して舞い降り、うやうやしく文を結んだ足を差し出した。


「苑枝か……?」


 美弥狩司衆飼育ではなく、右治代家子飼いの鳥であったため、銀正は発信者にあたりをつけて文を開いた。

 文は、ひどく荒れたで簡潔に記されていた。

 その内容にさっと目を通し、そして――――



 瞬間、銀正は顔色を失う。




「……香流殿が!?」




 ひきつったような叫びが上がりそうになった。

 それを寸で噛み殺すと、次には全身から嫌な汗がどっと吹く。

 血が一気に下に下がる。

 がたがたと動揺が表れたような文字の羅列に、再度目を走らせた。

 そこには確かに見慣れた苑枝の文字で、こうしたためられていた。



『香流様、国主様の命により、御城内へ』



 絶望が、視界を覆うような気がした。

 なぜ、どうしてと、ひどい困惑が襲い来る。


 なぜだ。

 なぜ、突然彼女は城に呼ばれた。

 自分との企みが露見したのか?

 そんな、まさか。


 ――――ただ、


 ただ一つ、確信できるのは、


 この命を裏で指示したのが、おそらく国主ではないということだけ。




「(明命……!!)」




 紙面を強く握りしめ、銀正は歯を食いしばる。

 心が、出立してきたばかりの美弥まで駆け戻るようだった。

 戻らねば。

 香流の身がひどく案じられた。

 だが、


「(この非常時に、つとめを放棄しては行けない……ッ)」


 目前に迫る、この国有数の危機。

 それに背を向け、己の務めを投げ出し、配下を置き去りにすることなど、今の銀正に許されるはずもない。

 しかし、――――しかし、


 締め付けられるような思考に、息を止めた時だ。



「どれ、」


 不意に手が伸びてきた。

 それがひょいと握っていた紙を掴んだのに、銀正は驚いてはっと手の力を緩める。

 そのせいで文は視界を過って背後に消えた。

 慌てて振り向くと、いつの間にか戻ってきていた真殿が、興味深そうに紙面を眺めていた。

 真殿は内容を確認すると、


「――――ははっ、そっちもそっちで、面白いことになってるらしいな?」


 至極愉快げに体を揺らし、まるで悪童のように口元を三日月にして、銀正に視線を寄越してきた。



「行って来いよ、婿殿。 うちのが、何か厄介に巻き込まれたんだろう?」


 あんたんとこの国に『何かしら』があることは、うちも掴んでる。



 後半は銀正の耳元に顔を寄せて呟き、真殿はひょいと離れていった。

 銀正は真殿の言葉にぎょっとたが、しかし瞬時に裏を察して言葉をつぐむ。


「…………」


 強く、唇を噛んだ。

 心は、真殿の進言に乗ってしまいたいといていた。

 だが、美弥狩司衆頭目としての立場が、それを許さない。


『できません』


 口が、理性のもとにそう断じようとした。

 だが、がそれを阻む。

 引き裂かれそうだった。

 身の内からひどい葛藤が押し寄せ、全身が半分に裂けてしまいそうだった。

 決断しなければ。

 選ばなければならない。

 故郷の民と、あの人と。

 どちらを捨てる覚悟をすると、自分で選ばねば。

 もう、猶予はない。

 銀正の思考は切迫した。


 そこへ、





「随分、迷うんだな」


 だからその声が耳に飛び込んできたとき、ひどく心が揺れた。

 ぎしり。

 体が硬直し、ゆるゆると視線を上げる。

 その人は、静まり返った目で銀正を眺めていた。


「あんた、数月程度しか共に過ごしていないあの子たった一人と、後ろの幾多の人間を秤にかけて、随分と迷うんだな」


 真殿の検分に、銀正はたじろぐ。

 己の未熟を、看破されたような気がした。

 自分の許嫁と数多あまたの民を秤にかけるという愚行に走ったことを、見抜かれた気がした。

 一国を守る狩司衆頭目としての器はないと、断じられたような。

 

 突き付けられる、と思った。


 言い渡されてしまう。

 お前は資格がないと。

 頭狩たる器量はない、誰も守れないと。


 お前は、また失う。


 弱さのために、また失うのだと、










「そんな顔するな、右治代殿」


 なのに、目前のその人は、ひどく優しく銀正を見て言った。

 朝霧の中、涼やかに微笑んでいた彼女とよく似た面差しで。

 「その迷いを持ってしまったと、自責するのは時期尚早だ」、と。

 真殿は風そよぐ野原に涼と立たずみ、伸びやかに断じた。



「武の道にある者なら、怜悧な判断ができて当然だ。 下手な迷いは弱さだ。 捨てにゃぁ、ならねぇ」


 だが、


「あんたは、そうまで己を弱くするくらいに、あの子が大事なんだ」



 多数の命を優先するという道理を見失うほどに、そのたった一人へ、心を許したんだ。

 それは、確かに迷いを生む元にもなりうる。

 しかし、そうして迷う心を知らなければ、掴めない強さもある。

 だから、


「その弱さ、捨てるなよ。 でなきゃあんた、強くはなれんぜ?」


 確信に満ちた断言が、風と共に銀正に届く。

 そして真殿は、「そう弱るな、婿殿。 一人なら選べぬ道も、助力があれば越えられる」と笑い飛ばし、ぐるりと銀正の背後を見遣って、挑発的な顔で声を張った。


「大国美弥を守護してきたアンタらだ! 頭領の不在くらい、見事に埋めるだけの懐はあるだろうっ」


 突然の挑発じみた声掛けに、銀正はぎょっとする。

 事情をはっきり察せていない配下たちは顔を見合わせ、真殿の言葉へ困惑に顔色を染めた。

 そんな美弥側の戸惑いを置き去りに、真殿は続ける。



「お聞き召されい、美弥狩司衆御一同。 アンタらの頭領は今、決断を迫られている」


 決断?

 配下がこそこそと囁き合う。

 銀正は悪い予感がして、さっきとは違う冷や汗が背を伝うのを感じた。


「己の嫁の一大事だとよ! なんでも、厄介な相手にかどわかされたらしい」


「え!?」


 配下の一部から、驚きの声が上がる。

 どうにも聞き覚えがあるような気がするが、それどころではない。


「アンタらの頭領は務めと嫁を秤にかけて、にっちもさっちもいかずに頭抱えてるみたいだぁ。 どうだ、御一同。 務めを取るか、嫁を取るか。 ――――まぁ、悩むまでもないかぁ?」


 だんだん芝居がかってくる真殿の様子に、配下の間へ沈黙が落ちる。

 もう嫌な予感しかない銀正は、「あ、義兄上……っ」と足を踏み出しかけた。

 しかし、紙一重で真殿は言い放った。


「お役目ほっぽり出して嫁可愛さに走ろうとは、漢としちゃぁ、情けないか?!


 アンタらも、この男一人欠けられちまっちゃぁ、満足に飢神も狩れんか?


 こんな若造一人いないだけで、アンタら烏合の衆になっちまうのか?」



 そりゃ、大国預かる名高き狩司衆が、情けないこって。




 完全に挑発である。


 身元不明、階位不明、そもそも言ってる当人もいい若造。


 そんな手合いに虚仮こけにされ、美弥狩司衆は――――




 黙れというほうが無理であった。




「……行ってください、」




 まるで地獄のかまの轟きのような。

 ぐつぐつと、恐ろしげに沸き立つ声だった。


「行ってください、頭狩すかり


 組頭たちだ。

 銀正や真殿より数段年嵩の男たちが、ぎらぎらと両目を燃やして背後を指さす。


「行ってください、頭狩様。 あなた様が居らずとも、我ら美弥狩司衆一同、その穴埋めて、見事飢神を狩り取って見せますれば」


 怒っていた。

 激怒であった。

 そもそもが、狩士は血の気の多い集団だ。

 それにああも火を着けられて、腹が治まるわけがないのである。


 銀正は配下の剣幕に「……し、しかし、」と及び腰になりながらも食い下がる。


 するとその肩をとんとんと叩くものがあり、銀正ははっと振り返った。

 肩を叩いていたのは真殿だ。

 この事態を招いた張本人は、素晴らしく爽やかに笑いつつ、綺麗に片目をつぶって見せた。


「ほれ、配下の衆もこう言っとることだし、遠慮すんな、婿殿」


「い、いや!?」


 遠慮も何も、配下のあれは、どう考えても血迷っているだけだ。

 そんな状態では増々置いて行けるかと頭を抱えたくなる。

 だが真殿は呑気そうに、


かしら一人抜けただけで役に立たんようじゃ、集団としては不出来だぜ?」


と肩を竦めて笑い飛ばす。


「仮にも一国を預かる一門だ、あんた一人抜けたところで、組織系統を乱したりするまいよ。 それとも何か? アンタは自分とこの狩士を信用しとらんのか? そうまで心配せにゃならん程度の配下なのか?」


「ぐ、」


 言葉に詰まる。

 いや、そういう訳では、と言葉が渋る。

 というか、さっきから背後の視線が痛い。

 すごく痛い。

 完全に配下は心を一つにしている。


『いいからさっさと行けよ。 あんた抜きでもやって見せなきゃ、こっちの面子めんつがたたねぇんだよ』


と、噛みつかんばかりに視線で訴えてきている。



「(いや、この状態で置いていけんだろう!? 頭を冷やせ!)」



 銀正は今度こそ頭を抱えた。

 そんな肩に真殿が腕を回してわははと笑う。



「いやぁ、心強い一門で、婿殿も幸福ですなぁ!」



 完全に思惑にはまっていた。

 美弥狩司衆一同、真殿の掌の上だった。







「……は今、あんたの領分にいる」


「!」


の身の安全に関しては、あんたの責だぜ?」


 肩を組んだまま、真殿が囁いてきた。

 銀正は顔を上げ、香流とよく似た面差しを見つめ返す。

 すると、


「行ってください、頭狩様!」


 若い男が一人、配下の中から顔を出して叫んだ。

 先ほど、香流の非常時だと真殿が言ったのに、驚いていた声の主だ。

 確かあれは、祭りの日に香流を迎えた――――


「行ってください、頭狩様。 香流様の一大事なのでしょう? あなた様が行かなければ、誰が香流様をお守りになるのですっ」


 確か、十雪といったその若い狩士は、ひどく真剣にそう言った。

 彼が所属する組の頭が「こらっ、無礼だろう!」と叱っているが、十雪は構わない。


「行ってください。 きっとあなた様に、後顧の憂いなど抱かせません。 我ら一同、必ずやこの国を守って見せます。 そして、」


 あなた様が大切に思うものを守るための道も、開いてみせる。



 強い目だ。

 強く、真剣で、


 しかし、若さゆえに未熟な目だ。


 残してゆくには、憂いが消せない。


 だが、




「あれだけ真っ直ぐに預けてくれと乞われて、託さないのは野暮だなぁ」




 真殿が、にやにやと銀正の心を見抜く。

 それから、


「良かったな、婿殿。 あんた、結構慕われてるらしい」


「っ、」


 優しい指摘に、銀正は唇を噛んだ。

 迷いに揺れる心が、軸を取り戻し始める。

 あと少し。

 もう少しで、銀正は走り出してしまいそうだった。

 でも、まだ、その少しの憂いが、晴れない。


 それを真殿も見抜いていた。


 だから、その最後を吹き飛ばすために。


 銀正のもとを離れ、風渡る野原を背にして、傲然と言い放った。




「行け、右治代殿。 あんたの背は、あんたの仲間が守る。 それが頭領をいただく配下の務め」


 一人欠けただけで崩れるなどありえない。

 守るべきを守るため、その最後の一人となるまで狩場に立ち続けるが、狩士の道。


 それに、

 

「そう心配ばかりせずとも、


 なぜなら、


 真殿の手が、空に遊ぶ。


 その手に誘われるように、は草をかき分け現れた。

 皆、真殿と同じ赤銅の衣装に身を包み、一本刀を携えた狩士たち。

 全く気配もなく接近していたらしい。


 あまりの異様さに美弥狩司衆はぎょっとし、真殿は笑みを描いた。



「この狩場、がぶんどらせてもらう」



 赤の狩士たちを従えて、義兄である男は、野生をむき出した凄みでそう言った。

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