四十一

 右治代の屋敷から引きずり出された香流は、そのまま屋敷近くの川縁かわべりへと連れていかれた。


 美弥には穏やかな幾つかの川が、支流として流れ込んでいる。

 そのうちの一つが城に寄り添うようにして流れ、船を浮かべれば城中へ至れるようになっているのだ。

 大ハタキを背負ったまま後ろ手に縛られた香流を、上格たちは最初、自分たちの船に乗せようとした。

 だが弓鶴がそれを止め、香流は弓鶴のために用意された、より格のある一艘の屋形船へ乗り込むこととなった。

 船は屋根のある屋形船で、香流はその舳先へさきを背に座らされ、上格の一人がハタキを脇に置いて船を出て行った。

 船頭のほかに弓鶴と二人だけの船上に座した香流は、真っ直ぐ背を正して船の奥を見た。

 そこには一段高くなった畳の台があり、脇息に身を寄せた弓鶴が障子向こうの流れる風景を眺めている。

 無言の間に、川を掻く船頭の竿の音だけが木霊していた。


「何か、聞きたそうな顔をしておる」


「そうでしょうね」


 ぼんやりと呟いた弓鶴に、香流は淡々と返した。

 そして、川の流れに消されぬよう、


「比翼の鳥」


 その言葉を言った。

 鍵となるその単語に、弓鶴はびょうとも気配を動かさない。

 しかし響いておらぬはずがないと香流は判じ、言葉を続けた。


「回りくどい話は避けましょう。 猶予もないことでしょうから」


 白い顔が、こちらを見る。

 その色の抜け落ちたような表情に、香流は切り込んだ。


「伝聞ではありますが、あなた様と耀角様の過去を、少しばかり拝聴いたしました」


「苑枝か」


 易々と当たりをつけた声に温度はないまま、赤い唇だけがゆるりと弧を描く。


「して、其方そなたは何が言いたい? 城につくまでの無聊ぶりょうの慰めに、聞いてやらんでもないぞ」


 弓鶴は、ひどく穏やかに先を促した。

 しかし、きっとこれは、余裕ではない。

 弓鶴の鷹揚な態度を、香流は疲弊だと感じていた。

 あの晩香流を拒絶したときに見せた、凍てつくような炎の気配が、今の弓鶴からは微かにしか感じられない。

 この人は何かに疲れ果てようとしている。

 そう直感しながら、香流は問うた。


「あなた様が、私に御当主への不信を植え付けようとしたのは、御自分たちの過去ゆえですか?」


「もっとはっきり言え」


 脇息の指先で遊ぶのを見下ろしながら、弓鶴はぱしりと問いを叩き落す。

 無気力な要求だった。

 だから香流は、僅かなりとも言葉に被せていた遠慮を取り払うことにした。


「御自身が夫婦として確かな縁を繋げなかったがために、私たちを同じ境遇に落としてみたかったのですか、あなた様は」


 そうやって、自分の境遇に何らかの見切りをつけたかったのか。

 見切りをつけ、そうして、


「御自身の慰めにしたかったのですか」


 細く白い指先が、ひくと震えた。

 うろのような目が、香流を見た。


「聡い子」


 赤い唇が、零れ落とすように呟いた。


「聡く、寄りがたいほどまっとうで」


 そして、


「傲慢でうとましい子」


 弓鶴の断言に、香流は揺らがなかった。

 まったく弓鶴の言う通りであったから。

 今差し向けたのは、許しを得ず人の過去に踏み込み、その闇をつまびらかにしようとする問いかけだ。

 それを傲慢と言わずして、なんと言う。

 それでも、香流に引きの一手はなかった。


「身の程知らずは百も承知。 ですが傲慢とそしられても、私はあなた様の真に触れたい」


 香流の決意に、弓鶴がまなじりをきつくする。


「妾が望まぬともか?」


「そうです。 踏み込むことで、あなた様にも痛みを負ってもらいます。 しかし私も、相応のものを引き受けます」


 鋭い批判に、香流は正念を入れた。


「あなた様を苦しめる選択をするという咎も、


 それを理解していてそうする傲慢という誹りも、


 私はどんなものを受けようと、あなた様に向き合う覚悟」





 何も知らなかったから。

 だから一度遠ざけてしまったこの人の手を、香流はもう一度だけ、握ってみたかった。

 だから、例え恥知らずと言われようと、香流は弓鶴が隠すものに触れるつもりだった。

 自分の身勝手な覚悟でもって、弓鶴さえも傷つけようと、全て責は受け入れる。

 香流は背を真っ直ぐ正し、はっきり断言した。


「誰かの真に真実触れたいと願うとすれば、


 そのために自分も、相手さえも、全く傷つけず、


 すべてを終わらせることなどできないと、


 私は諦めたのです」





 祭りの日、香流は銀正に近づきたいと願った。

 その時に、遠慮や卑屈といった怯えに支配されたままでは、駄目なのだと理解した。

 そして、自分だけがすべてを負おうとするのでも駄目だとも。

 遠慮の一切ない、一線を越えたところで向き合う以上、自分と相手は鏡合わせのように傷つき合う。

 苦しめないようになどと配慮や保身に走れば、その線すら越えられない。

 線の向こうで向き合うためには、その人を真に想う心以外、保身も、虚飾も、全てを諦めねばならない。

 何もかもを取り払い、むき出しの精神であらねば、人の真は見通せない。


「諦めたから、覚悟した」


 まるでときの声を上げるように、香流は言い放つ。


「この覚悟をした以上、私はどんなものからも逃げません。


 傲慢の誹りも、あなたを苦しめる咎も、


 私は、思います」




 諦めたと諦観を語る香流。

 だがその面差しは、全てを了解したような揺るぎない意志に満ちていた。

 弓鶴は注がれる無垢な想いに目を瞠る。

 そして僅かに心揺らがせながら、唇を振るわせた。


「……なぜ、それほどまでに己を投げ出す」


 弓鶴の戸惑いに、香流はそっと目を伏せた。

 思い返す脳裏に、揺れる行燈の光。

 月影の落とす闇に一人遠ざかって行った、目前の女の姿。

 あの時自分は、


「……祭りの晩、あなた様に真を問うたのは、ただの衝動だったかもしれない」


 あの晩に、香流はただ遠ざからないでほしいという思いに駆られ、無闇矢鱈に弓鶴に言葉を投げかけた。

 それは、覚悟のない行いだった。

 しかし、今はあのときと、少しばかり違う。

 銀正と向き合い、他者の線を踏み越えるのを知ったことで、そのときあるべき心の在り様を、おぼろげにとらえることができた。

 それに、


「あなた様が私を通して御自身を見ていたのではと気が付いたときから、これはもう縁なのだろうと、私は腑に落ちたのです」


「え、ん?」


 香流が明かした答えに、弓鶴はぽかんと呆気にとられたように呟いた。

 香流はただ静かに頷く。

 だが、弓鶴には納得いかない返答だったらしい。

 脇息の上の手をわなわなと震わせると、あの凍てついた炎をちらつかせ、香流を睨み返して言った。


「縁? 縁だと? 其方、その程度のことで妾に自分を差し出すというのか? そんな、愚にもつかないことで……」


 憤懣ふんまんが、弓鶴の火に力をくべる。

 だが。


「あなたなら、」


 まるで、響き渡るような声だった。

 弓鶴はその響きに飲まれ、ふいと口を閉ざす。

 声の主は――――香流は、決して嘘とは言わせないと断じる強さで告げた。


「あなたになら…… 私はいいと思った。 それだけのことです」


「っ、」


 瞬間、弓鶴は息を忘れた。

 この人になら。

 その想いを、自分は知っている。

 遠い昔、あの春の晩。

 弓鶴は、ようやく見つけたあの背中を、心に迎え入れることを決めた。

 この人なら。

 そう、飾ることない己の心が頷いたから。


「……愚かだ、」


 顔が歪むのが分かる。

 今にも泣き出しそうに、歪んでいくのが分かる。

 しかし、取りつくろうことなどできない。

 だって、今目の前にあるのは、あの春の晩に泣いた己だ。

 己と同じ思いを抱き、だが己とは違い、何もかもを覚悟した強く揺らがぬ意志だ。

 弓鶴は打ち据えられたようにたじろぎながら、自嘲に歪む口元で笑った。


「愚かだ、真、愚かな娘よな、其方は……」


 そして、妾も。

 可笑おかしかった。

 心底可笑しくて、たまらなかった。

 遠い昔、決して交じり合わない人を唯一と決めてしまった愚かな己と同じ想いを、今度は自分が向けられることになろうとは。

 けれど、今目の前にいる娘は、あの時の弓鶴とは違う。

 きっと、……いや、確実に。

 若き日の弓鶴よりも、息を飲むほどに強い。

 強く、それが優しさとなって、あの目に宿っている。

 あの人の目を思い出す。

 あの人も、この娘のように二心なく、ずっと見ていたいような美しい目をしていた。

 苦しい。

 苦しくて、たまらない。

 思い出してしまう。

 この娘が、消えてしまいそうだった過去を、鮮明にしてゆく。










「……あなた様は、私に同じ傷を負わせたかった。 己の過去と照らし合わせるように、私に同じ道を歩んでほしかった」


 片手で目を覆い、俯いてしまった弓鶴に、香流は静かに投げかけた。


「あなたにとって私と御当主は、御自身たちの写し身だった。


 あなたは、私に、御自身を見ておられた。


 どうしてですか?


 どうして、同じ過ちを繰り返させようとしたのです?


 あなたは、ただ、同病相憐れむ慰めにするためだけに、私を――――」









「妾は、其方を愛したかった」


 返ってきた弓鶴の答えに、香流は瞠目した。

 一瞬、言葉の意味を、捉えかねた。

 ……愛したかった?

 誰を…… 私を?

 戸惑いが渦巻く。

 だがその前に、弓鶴の真っ黒な目が香流の注意をからめとって言った。


「そうだよ、い子。 妾は、お前を愛したかったのだ。


 同病相哀れむ、傷の舐め合いでもいい。


 そうやってお前を愛おしみ、――――もう一度、


 もう一度、誰かを愛するようになれれば、


 あの人が黄泉へ持って行ってしまった心の半分を、この世に取り戻すことができると思った。


 あの人への怨嗟だけで生きるこの生に、もう一度生き直すり所が欲しかった。


 心さえ取り戻せば、


 妾は…… もう、あの人の元を離れ、今一度生きなおせると思った。


 あの男を、


 私を縛るあの男の影を、殺してしまいたかったのだよ」







 笑っていた。

 美しいその人は、まるでうら若い娘のようにあどけなく笑って、そう言った。


「……でも、」


 香流は弓鶴の笑みに囚われたまま、呟いた。


「でも、本当は、」


 口もとから零れ落ちた打消しは、思考がもたらしたものではなかった。


「本当は、それだって望んでいなかった」


 弓鶴の、笑みが。

 細く揺れる瞳が、違うと、訴えていたから。

 香流は考えが追いつく前に、無意識の内にそう言っていた。


「……あなた様は、耀角様の記憶を手放したいと願いながら、どうしようもなく耀角様への思慕を手放せなかった……?」


 己の口が発した者の意味を、頭が遅れて理解する。

 そして、ああと香流は細い息を吐いた。

 そうか、あなたは、


「愛しておられたのですね」


 笑みが、解ける。

 弓鶴は仮面を脱ぎ去ったような無防備な顔で、香流を見返した。

 それが、香流の断定への答えだと知れた。

 己の言葉が、弓鶴の引いている線を踏み越えたとも。


「あなたは耀角様を真実、愛しておられたのですね。 例え耀角様から心を寄せてもらえなくとも、


 あなたはずっと耀角様がその真を寄せてくれる日を願い、心捧げたまま待ち続けた」


 若き日、耀角へ恋をしていたという弓鶴。

 その想いは、決して満たされることはなかったという。

 香流は、全てを伝聞でしか知らない。

 しかし、この人は、確かに、


「あの方だけだと、決めてしまったのだ」


 香流が想いを吐き出す前に、弓鶴の想いはあふれた。


「あの方だけを、終生の人と、私は誓い立てしたのだ。


 あの方の優しさに泣いたから。 あの方の心に、慰められたから。


 あの方を愛したから。


 ……あの人だけなのに。


 私はあの人のもと以外、もうどこにも行けないのに。


 なのにあの人は、私を置いて行ってしまった。


 だから、妾は怨みにすがった。


 この身を顧みることなかったあの人を恨んで、うらんで、恨みぬいて、


 そうして、あの人を、」


 手に入らなかったもう片翼の記憶を、忘れまいとした。






 香流は息を飲む。

 そして、細い声で応じた。

 そうかと、全てが腑に落ちるような心地で、呟いた。


「あなたは、忘却から『想い』を守りたかったのだな」


 この人は、守りたかったのだ。


「耀角様が御自身を顧みずとも、耀角様だけと誓い立てたその真、御自分だけは裏切るまいと、」


 決して、その清廉な想いを穢すまいと、

 忘却によって誓いを裏切るまいと、


「あなたは、伴侶へ捧げた心を…… その誓い立てを、死ぬまで果たそうと、


 ずっと、耀という覚悟を、再び立てられたのだな」


 例えそれが、親愛と表裏である憎悪に形を変えたとしても。

 想いを忘れることだけは、するまいと。




 弓鶴は嗤った。

 まるで自分を嘲笑うように、歪な笑いで言った。


「愚かと笑うか? 無意味とおとしめるか」


 自傷するような物言いに、香流ははっと目を見開く。

 だがすぐに全てを悟ると、じっと目を閉じ、縛られた手を背中で握りしめた。

 そして、


「それ以上の戯言ざれごとつつしみ願います」


 抜き身の刀のごとき眼差しで、声を張った。

 

「二心ない無垢な心を、これと決めたただ一人に差し出すことが、どれほど無防備で恐ろしく、全霊の覚悟を必要とするものか、私は知っております。 誰かを一途に信じることは、誰をも決して信じぬと断じてしまうことより、圧倒的に難しい」


 誰かを信じようとしたことがない者に、他者を信じるという覚悟を得た者の、身を投げ出すような心許なさなど分からない。

 それは決して臆病などと片付けていいものではなく、信頼という心をさらけだすような、無防備でたぐいまれな強さなのだ。

 その高潔に泥を塗るものを、香流は看過しない。

 例えそれが、覚悟を立てた当人だとしても。





「あなた様のその決意、笑う者があるのなら、」


 他者に心差し出す行為を、愚行と断ずる者があるなら、


「その言い分、全て聞き遂げたうえで、私はその舌先――――握りつぶします」





 鬼気のこもった断言だった。

 弓鶴は気勢に飲まれ、一瞬全てを忘れる。

 そのきょに香流は「例えあなた様自身が御自身の覚悟を嗤われても、同じですよ」と釘を刺し、膨れ上がるような気配を治めて、素知らぬ顔をした。

 鋭い気勢に飲まれていた弓鶴は、香流が己を押さえたことで、やっと呼吸を思い出して深く息を吸った。

 そうしてゆるゆると我を取り戻した頃には、情けないような可笑しさがこみあげて、全身が震えた。



「……恐ろしい女子おなごだ。 娘の言うことではないな」



 弓鶴はそっと額を掌に落とし、ため息のように囁いた。

 もう、何もかも取り繕うのが億劫なほど、目の前の娘は弓鶴を暴き立ててしまった。

 これ以上、虚飾で己を偽るは無意味だと、弓鶴は諦めてしまった。

 だから、こぼれ出たのは、たった今偽ることない、弓鶴の心だった。


「……どんなに恨もうと、憎もうと、その火が年を重ねるごとに潰えていくのを感じていた。


 私はもう、消えゆくあの人の記憶に縋りながら、悲嘆にくれているだけなのだ。


 憎しみすら、終生私たちを繋ぎとめてはくれなかった。


 ずっと、心だけはあの人を忘れまいと、決めていたのに。


 例え心通うことなくとも、この心だけはあの人に寄り添っていようと、己に誓っていたのに。


 ずっと、あの人を忘れないと、誓ったのに」





 長い沈黙が落ちた。

 香流は待った。

 聞くべきは聞けたはずだ。

 だが、もし弓鶴がまだ吐き出せないものを抱えているなら、線を越えた以上、全て受ける覚悟だった。

 しかし、「香流」と名指しで帰ってきたのは、弓鶴自身の想いではなく、香流の線を踏み越える問いだった。


「其方、を慕っているか?」


 突然の言葉に、香流一瞬詰まる。

 だが、その声音が決して重みのないものではないと察せられて、沈思。

 誠実に己の心に問うたうえで、そっと口を開いた。


「まだ、あなた様のように、終生の誓い立てをするまでには至りませんが……」


 まなこの裏、向き合ってきた銀正の全てが通り過ぎていく。

 その何もかもに心が動くのを確かめて、香流は顔を上げた。


「私はきっと、あの人となら、嫌ではないと、思っている」


 眩しそうだった。

 目を細めた弓鶴は、なにか懐かしいものを見るように香流を眺め、


「芽吹きは、とおに果たされていた、か」


 それだけ呟いて口を閉じた。








 その時、船全体がごとりと音を立てて揺れた。

 船頭が、到着の声掛けをくれる。

 はっと光漏れる障子を見遣った香流。

 その横で弓鶴はそっと顔を伏せ、 


「だがもう、すべてが遅い」


 ひどく疲れたような面持ちで、そう言った。

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