四十三
人の気配が、ない。
歩きながら、香流はそう目を細めていた。
ここは、美弥国主のおわす城。
川下りの果てに、船は城郭へと至っていた。
着岸した船から後ろ手に拘束されている香流を引きずり出すと、弓鶴たちはその背を追い立てながら城内へ入る。
城は静まり返っていた。
大国に似つかわしい、広大な建造物だ。
だが、それに対してあまりにも人影が少ない。
天守がある建屋の廊下をずっと進んできたものの、その道中に動くものを見ることはほとんどなかった。
「(……異様と言うに尽きる)」
過ぎてゆく景色を鋭く検分しながら、香流は勘が揺れるのを感じていた。
警鐘というにはまだ早い。
しかし、警戒を解くにはあまりに異質な場所に思えていた。
一行は足取りに迷いなく進んでいく。
本来、城に上がるとなればそれ相応の手順があるものだ。
なのに、どうやら香流はそれらをすっ飛ばして、――――おそらく直接国主の御前へ引きずり出されるらしい。
増々異様。
香流はじっと黙して周囲をうかがい続けた。
そうしているうち、廊下はその扉の前へ至った。
屋内にしては大仰な、身の丈二倍はある両開きの木戸は、上覚たちの手によって、ゆっくりと押し開かれてゆく。
瞬間、香流は肩を揺らした。
微かだが、何かを嗅ぎ取る。
それがなにかを明確にする前に、強く背中を押された。
つんのめりながら扉の敷居をまたぐ。
内部は広かった。
見上げるほどに高い天井に、それを支える石材の太い柱。
壮観だ。
山里育ちの香流は目を見開いて室内を眺めた。
絢爛豪華な装飾に彩られている柱を一つ一つ確かめて行けば、自然、その先に目が吸い寄せられる。
貴人のおわす場所を区切る簾が閉じている。
他より一段高いそこは、仄暗い室内でも、一等陰が渦巻くようであった。
「歩け」と背を押され、香流は御簾の前に導かれる。
上格たちは御簾の前に香流を座らせると、ハタキを奪って膝横に置いた。
丁寧に扱われなかったことには眉がひきつるが、そばに置くことは許されるようでほっと息を吐く。
上格たちは香流を控えさせると、その両脇へ向かい合って一列に座った。
弓鶴は一人、御簾の脇に控える。
彼女とは、下船後から一度も言葉を交わしていない。
視線すら合わされず、船で明かしてくれた彼女の想いは宙に浮いたままだ。
香流はそのことを強く心残りにしながら、決して目を合わせない弓鶴を見つめていた。
だから、その影が気配を放ったのを感じ取るのに、一瞬遅れた。
「よう来やったなぁ、右治代の嫁」
首筋の毛が、
手が自由であったなら、きっと首を庇っていただろう。
まるで…… まるで、そう、
膿み果てて、ひどく臭う傷口にうぞめく蛆。
それが、ぞろりと首筋をはいずり回ったような。
そんな、
「……まだ、許嫁でございます」
香流はたじろぎを悟られぬよう、くっと顎を引いて呟く。
脇で上格の一人が「この娘ッ 無礼ぞ!」と叱責を飛ばすが、知ったことではない。
香流は能面のような顔で御簾の内側を睨みつけると、
「不敬でありましたでしょうか? しかしながら……私にはこのお方が、国主様とは思えませなんだので」
平然として言い放った。
御簾向こうには、影が二つあった。
一つは、中央に座す男――――おそらく国主。
もう一つは、向かって右。
その人影は、高位の法師が身に着ける、特徴的な被り物をした姿でそこに座っていた。
本来、国主以外が在ることを許されぬ場所に、だ。
そして、あのいじましい声で香流に語りかけてきたのは、その人影だ。
国主しか上れぬはずの場所に平然と座る何者かだ。
「このお方様は、おそらく国主様ではありますまい。 なれば、どれ程の礼を尽くすが道理か、私にははかりかねます故」
目を細めてその何者かを睥睨する香流の様は、完全に礼儀を捨てていた。
そもそも御簾の内にある時点で、高貴な身分であると保証されている。
それに黙って平身低頭するという選択をしていない時点で、無礼千万もいいところなのだ。
だが、そんな一介の小娘の振舞に御簾向こうの気配は、ぞろりと笑ったらしかった。
「豪胆な娘だ」
くつくつと笑う声すらも、気に障る。
香流は余分な戯言はごめん
「どのような用向きで、私はここに引きずり出されたのでしょう?」
「理由を聞く前に、名を名乗り合うくらい、礼儀と思うがのう」
影の揶揄に、香流も黙る。
正直なところ、力づくで香流を引っ立ててきた側に礼儀を指摘されるのは虫が好かなかったが、仮にも国主の御前。
目を細めた不遜な面持ちのまま、香流は「……右治代家当主許嫁、香流と申します」と名を名乗った。
礼儀としては頭も下げるべきだが、縛られた状態でそれをするのも気に食わない。
そもそも、目の前の存在に無防備に
両脇の上格たちは、相変わらず無礼だと気色ばんでいる。
しかし、御簾向こうの存在が「よい」と許したので、気に食わなそうに口を閉じた。
「
影が名乗る。
それにさもありなんと、香流は落ち着いて黙した。
この国で国主に庇護された法師。
となれば、その出で立ちと御簾の内にすら許された有様から、おそらくこれがそうなのだろうと、香流としても推察していた。
香流は「存じております」と短く応じると、再び背筋を伸ばして御簾の向こうを睥睨し、「それで、御高名な法師様が、私のような小娘に何用でしょう?」と鋭い語気で睨みを利かした。
明命はまたも
「なに、この美弥の守護家である右治代の嫁に、一度会ってみたかったのよ」
と、ざらついた声で笑う。
「なれば、もう用はお済でしょう。 御前を辞する許可をいただいてもよろしいか」
平素なら、当たり障りなく会話を繋ぐ香流だが、この状況だ。
香流はぴしゃりと要求を叩きつけると、脇を固める上格たちにも視線を走らせる。
「このようなやり口で罪人のように引きずり出されては、私としても腹に据えかねます故」
権力を笠にして蛮行を行うは、賢君に在らず。
上格と弓鶴の所業を咎めない時点で、明命とここまで何も言わない国主も同罪と暗に断じ、香流は冷たく言い放つ。
常人なら竦み上がって、道理に合わない扱いも受け入れてしまうようなこの状況だ。
しかし香流は己を囲む者たちの分別のない行いを不徳と断じて、気勢を緩めなかった。
それが心底愉快であったのか、明命はあの気味の悪い笑い声で、香流を制した。
「そう急くな、嫁御。 やり様は強引であったが、わしが其方に会いたかったのは本当だ。 折角ここまで来たのだ。 もうすこし、わしにその愛らしい顔を見せておくれ」
影が動く。
中央の国主の脇を過り、その前に出てくる。
香流に近づいてくる。
「祭りの日、実はわしは、お前を見つけていたのだ。 あの時から、ずうううっと、お前のことが気にかかっていた」
香流は目元を一瞬ひきつらせた。
祭りの日。
ということは、あの時この法師から視線を感じたのは、気のせいではなかったのだ。
あの距離で、大勢の中から香流たった一人を視認した。
それはひどく違和を伴う話だ。
しかしそのことを考察する前に、明命の体が御簾のすぐそばまで迫る。
何かが香る。
一体『何』なのかを理解する前に、別のものが鼻先を掠めた。
「あの時から、わしはお前から目が離せなかった。 ――――お前は、ひどく蠱惑的だ」
さぁ、近ぅおいで。
手が伸ばされる。
御簾の合間から、
香流は本能的に身を引いていた。
だが、間に合わなかった。
「邪険にするな、娘」
明命が笑う。
その息が、ふうと香流に向かって吹き付けられた。
視界の端で、上格たちが袖で鼻と口を覆うのを捉えたと同時。
香流は目を見開いた。
明命の息から、甘い匂い。
甘く、
――――これは!!
「(これは、弓鶴様が使っておられた……!)」
咄嗟に、呼吸を閉じる。
すでに眼前へ広がっていた匂いに、息を飲みこむのを諦めた。
吸い込むな、吸い込んでは、また、
「(あの感覚に飲まれる!)」
二度この匂いに
同時に、立ち上がって明命から距離をとろうとした。
だが、
「逃がさんよ」
明命が、背後へ振り向いたせいで
そのまま強く引きつけられ、香流は痛みに呻いて一瞬、口を開いた。
その隙を明命は目ざとく捉えると、口元を覆っている被り物の下から、今一度息を放った。
「ぅく!」
横顔に、匂いが命中する。
息を止めたまま、香流は耐えた。
それは相当な長さの無呼吸状態であったが、ついには限界が訪れる。
口は意思に反して空気を求めるように呼吸を継いだ。
瞬間、鼻口腔へ充満する匂い。
香流はその絡みつくような甘さに咳き込み、身を伏せた。
呼吸が乱れれば、自然、多くの空気を吸い込む。
息が落ち着くころには、あの感覚が全身を支配した。
「弓鶴から聞いておるのだろう? それは生き物の情に作用して、恐怖や怯えに陥らせる効果がある。 いくら堪えようと一度怯えに支配されれば、動けなくなるか、――――恐慌して暴れるようになるか」
量を加減すれば、その働きを支配することもできる。
少なければ、怯えで動けなくする。
一度に過剰に与えれば、半狂乱になって暴れるようになる。
「そら、震えや汗が
明命の歪な愉悦に、香流は歯を食いしばった。
体が、勝手に感情を暴走させるような心地がしていた。
何も怯える必要などないのに、理性の判断を置き去りにして、本能が恐慌して揺れる。
冷や汗が止まらない。
声が、出ない。
出せない。
体の自由がきかない。
恐ろしさが、全身を支配してゆく。
香流はその場に座り込んで体を縮めた。
「おいで」
香流の髪を手放した明命が、手を伸ばしてくる。
御簾から、体がのぞき始める。
「さぁ」
顔が仄明るさの中に晒される。
被り物は明命の口元も覆い、だがしかし、目元だけは隠されずに香流を見つめていた。
異様なほど落ち窪み、白目はひどく黄ばんで濁り切った瞳は、まるっきり生気なく香流を
「さぁ……!」
手が、香流の
動けない。
動くことが、できない――――でも。
一呼吸。
胸が上下する。
その一瞬、
『鈴』は零れ落ちた。
薄い地金の玉。
結い紐が揺れて、真っ直ぐに落ちて行く。
そして、
――――りーん
壺中に反響するような、澄み渡る音が響いた。
「!!」
残響。
声が聞こえた。
あれは、あの人の、声。
深く、深く。
祈ってくれた、あれは、
『どうか、あなたに害なすものを、この鈴の音が払ってくれることを――――』
瞬間、本能が舌に歯を立てた。
血が滲むほどに肉を噛み締めたと同時。
香流は激痛と共に、神経の制御を己の内に取り戻す。
そこからは電光石火。
手が最低限の動きで縄を抜けて自由になれば、
「な!?」
上格たちの驚愕を置き去りにしながら、香流は素早く懐へ片手を滑り込ませた。
そしてつかみ取ったものを引き抜き、その仕掛けを解く。
「!」
明命が御簾の裏でたじろぐ。
だが遅い。
香流は目にも止まらぬ早業で手の内のものを構えると、一直線の軌道でそれを放った。
それは、――――
しかし、刃は法師を捉えない。
その、目がけた先は、背後。
キンッ!
硬質な何かへ命中したらしき音に、上格たちが息を飲む。
香流は乱れる脈を抑え込みながら、ゆっくりと立ち上がった。
「この娘!?」
一拍遅れて上格たちが泡を喰ったように腰を浮かす。
それを視線で圧し、香流はぎっと歪めた顔で吐き捨てるように言った。
「……臭い、鼻が曲がりそうだ」
さっと、空気が張りつめる。
緊張が走ったように固まる上格たちと、弓鶴。
だが、香流が視線を突き立てる当の相手は、びょうとも動かぬ。
「この部屋に入った時から、はっきり感じていた。 ――――ここは異常だ」
その奥。
香流は明命を睨み据えて、御簾の奥を指さした。
「そこに、何がある?」
何かが、ずっと香っていた。
それは、『
それは、生々しい臭気。
明命自身も纏っている、それは、
「貴様、死臭がする」
忌々しさに顔を歪め、香流は断定した。
それは、死の臭いだった。
生き物が死して腐敗する、血と肉の臭いだった。
「それも尋常ではないほどに。
鼻を手の甲で庇い、香流は詰め寄る。
明命は再び御簾に身を潜め、香流を見返してた。
その被り物をした顔に指を突き立て、香流は断じる。
「その顔
詰問の
『げぇえへへへへへへへぇあ――――はははははああああ!!』
轟くような哄笑が響き渡った。
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