三十六

 山中を全速力で走り続け、二人は屋敷近くまで舞い戻ってきた。

 向かう先、白壁の合間に立派な裏門を認めた香流は、それを指しながら振り返る。


「御当主、見えて参りましたよ!」


「あ、香流殿!」


 勢い裏門へ走りこもうとした香流。

 だがそれを、銀正は細い腕を取って制した。

 それがあまりに急なことだったので、がくんと体が引っ張られた香流は、何事かと首を回す。

 振り向くと、銀正が荒い息を吐きながら、険しい顔で一つ忠告を寄越してきた。


「すまん、一つだけ、言い忘れていた。 先ほどの話だが、私の母も明命にくみしている。 だから、明日まで母に接触する場合も、注意しておいてくれ」


 弓鶴は、祭り明けから家に戻ってはいない。

 おそらく城に籠っているのだろうが、使者の到着までに全く接触の可能性がないわけではない。

 だから重々用心してほしいと、銀正は厳しい面持ちで言った。


「弓鶴様も、この国の事情に関わっていらっしゃる……?」


 銀正の忠告を聞いた香流は、立ち止まって息継ぎしながら、ぐっと目元を険しくした。

 心当たりがないわけではない。

 祭りの晩、弓鶴は城の法師――――つまり、明命とは懇意だと言っていた。

 それが単に親しいというだけでなく、まさか同じ思惑を共有する者同士だったとは。

 ということは、弓鶴もこの国の現状を良しとしているのか。

 そこまで考え、香流は一つの事実に思い当たって体を固くした。




「(弓鶴様が、明命に与しているということは、つまり…… この人は、実の母すらも罪に問う覚悟をお持ちになったのか)」




 明命を討つこと。

 その裏を暴くことを決めた銀正。

 そして、もし相手方に弓鶴が関与しているのだとすれば。

 それは必然、銀正は己の母すらも敵に回さねばならないということになる。

 だとすれば。

 だとすれば、それはなんとむごい現実だろうと思わずにはいられない。

 目の前の青年がおのずから選んだ選択の意味を理解した香流は、痛ましげに顔を歪めた。



 しかし、その様子を眺め、きしむ心を読みでもしたのか。

 銀正は寂しく笑って目元を緩めた。



「そんな顔をしないでくれ。 ――――まったくあなたは、外に向ける目だけは聡い人だ」



 あどけない笑みが虚しくて、香流は息を詰める。

 そんな顔をして笑うなと、言い散らしたい思いが渦まく。

 だが、銀正は揺らがぬ笑みのまま、香流の細い体へ、腕を伸ばしてきた。

 香流はそれを戸惑いながら眺めた。

 伸ばされた二本の腕は香流をよぎり、その体を閉じ込めるはずだった。

 だが、一瞬の理性が、銀正を咎める。

 瞠目して立ち尽くす香流をじいと見つめ、一息。

 銀正は伸ばした腕を引き戻し、目の前の小作りな頭を両手でくるんだ。

 そのまま、ゆっくりと触れ合う額。

 琥珀の目が瞑目したのは、きっとこの世で一等鮮烈な黒の目を見つめ続けることに耐えられなかったから。

 身の内で、早く、早く行かねばと、狩司衆頭目としての義務感が騒いでいる。

 けれど、せめて。

 もうこれが最後だからとその叱責に詫びて、銀正は掠れた声を振り絞った。




「私はもう決めた…… 決めたんだ」


「だからこの先、この身に向けられる悲哀も、憐憫も、必要としない」


「あなたがくれたものが、私を真っ直ぐに立たせてくれる。 だから、もうなにも憂うことはない」


「だから…… だから、大丈夫だ、香流殿」




 ゆっくりと離れていく距離。

 呆然と目の前にあった顔を見つめたまま、香流は立ち竦む。

 そして最後にもう一度だけ微笑んで、琥珀の目は躊躇ためらいを捨てた。

 銀正は美弥狩司衆頭目の顔へと己を切り替えると、強く断じて言った。





「時間がない。 さぁ、行こう」






 *






 屋敷に戻り、狩衣装の支度をすっかり済ませた銀正。

 責ある頭狩となり果てた彼の人は、そのあとすぐ、屋敷まで迎えに来ていた配下を伴って、狩り場へとおもむいて行った。

 屋敷に残された香流は、遠のく馬上の姿を門の前で見送った。

 その背がいつになくかそけしいのを気遣ったのだろう。

 珍しく柔らかな対応の苑枝に促され、香流は部屋の広縁に座って苑枝の茶が渡されるのを待っていた。





「まさか、特別監視対象が美弥に迫っているとは…… 二代前の時代ならいざ知らず、昨今では一等危急の報ですね」


 昼を過ぎて明るくなった西の庭先。

 急須で茶を入れながら苑枝が言い、湯呑を受け取った香流はぎこちなく微笑んだ。


「御当主が言うには、元々その甲種を見張っていた狩士たちもその後を追っていらっしゃるそうなので…… その一団と美弥狩司衆両陣が手を組めば、きっと城下が危険にさらされることはありませんよ」


 流石に全ての事情をつまびらかにするわけにもいかず、香流は伝聞を装ってそう言う。

 普段豪気な苑枝も、特別監視対象の肩書には怯えも出るのだろう。

 香流の慰めに頷きつつ、重い溜息を吐いた。


「先代からこちら、美弥はあまり大きな飢神の脅威に晒されておりませんからね。 当主様の采配や美弥狩司衆の実力が他国に劣っているとまでは言いませんが……」


「特別監視対象とあっては、どの国の狩司衆にとっても大事ですよ。 案ずるのも仕方ありません」


 柔らかくあとを引き取れば、苑枝は「そうですね、」とまぶたを伏せる。

 そして少し思案したのち、


「ですが、こんな時、耀角ようかく様が生きておられればと思わずにはおれません」


と、肩を落として言った。


「耀角様……?」


 聞きなれない名に、香流は湯呑を口から離して首を傾げる。

 苑枝は香流の理解が及んでいないのを察したらしく、ええと頷いて遠い夏空を見た。


「二代前の右治代当主…… つまり、現当主のお父上様です」


 右治代忠守白主耀角。

 それは、右治代の二代前当主。

 銀正とその兄の父。

 そして、弓鶴の夫であった人。


「苑枝殿は、二代前の当主様を、御存じで……?」


 もし阿由利の年の頃から右治代に仕えているなら、苑枝の年齢的に銀正の父の代を知っていてもおかしくない。

 香流がふとした思いでたずねた問いに、苑枝は当然とばかり、頷いた。


「私の家は、元々美弥狩司衆に属する狩士の家系ですからね。 私は狩士であった父の縁故を頼りに、こちらの御屋敷へ奉公に上がったのですよ。 それこそ阿由利殿と同じ年頃からですから、もう四十年近くは経ちます」


「そうだったのですか」


 若かりし頃の苑枝は、阿由利と同じ侍女として、この家に仕えたのだという。

 そして、当時の当主夫婦(三代前、つまり銀正の祖父母の世代)の子であった耀角をそれこそ若君の頃から見守っていたらしい。


「当代の当主様は、耀角様に生き写しです。 目も、耳も、鼻も。 在りし日の耀角様を思い出さずにはおれないほどです」


「それほど外見は似通ってらっしゃるのですか?」


「はい。 でも、容姿だけではありませんよ? 耀角様の方がもう少ししっかりなさってらしたように思いますが、その御心の優しく御立派なのは、二人とも瓜二つです」


 懐古に目を細め、苑枝はゆるりと笑みを浮かべる。

 そして、断言した。


「耀角様は幼いみぎりより利発で武術にも長けた御子でありました。 性根も真っ直ぐで美しく、右治代の当主となるにふさわしい器量をお持ちの方でした」


 微笑みと共に語られる記憶。

 苑枝が過去に向ける慈しみ深い横顔に、耀角という人の人柄を感じ取った香流は、瞬間、確かな違和感を抱いた。

 そして、不意に聞いてみたくなって口を開いた。


「あの…… お聞きする限り、耀角様は、人格も素晴らしい御方と思われます」


「ええ。 当代様と等しく家柄を笠に着ず、慎ましく、それでいて頭狩としての矜持をしっかりとお持ちでありました」


「……でしたら、」


 そこで少し香流は躊躇い、口を閉ざす。

 己の中でずっとわだかまっている疑問。

 それを、当人のない所で聞いてもいいのかと、葛藤する思いが重く沈む。

 しかし、目の奥。

 祭りの晩に香流を拒絶したあの目に近づきたくて。

 香流は遠く、か細い背に心の内で頭を下げて、口を開いた。




「そのように素晴らしい人格をお持ちの方が、なぜ奥方であった弓鶴様を、長らく無下になさっておられたのでしょうか……?」




 香流の細い声に、苑枝は黙り込んだ。

 重い沈黙。

 圧し掛かるようなそれに居心地悪さを感じ、香流は唇を噛んだ。

 やはり、聞くには込み入った話だったかと後悔が過る。

 だが、それでも。

 それでも苑枝の答えを知りたくて視線をあげれば、苦し気な目が、なぜそれをと問うていた。

 それに香流は、「少々噂を耳にしまして」と気まずげに答えた。

 苑枝は「女中たちですか」と仕方なさげに目を閉ざすと、苦ったような顔で庭を眺めた。

 その横顔が、なにか遠い記憶を見ているようで、寂しげで。

 横で見守っていた香流は、落ちた沈黙を守ることにした。



「……どの程度の話を聞いたかは存じませんが、まぁ、それほど的外れでもない話でしょうね、おそらく」



 そう呟くと苑枝は湯呑をあおった。

 声の気配に求めた答えの許しを感じ取った香流は、息を詰める。

 苑枝は空になった湯呑を置くと、小さく続けた。


「耀角様は、確かに御立派なお心をお持ちの方でした。 それは、確かなことです。 ですが、あの方が弓鶴様を省みることがなかったのもまた事実。 それが何故であったのかは…… 私にも分かりません」


「では、お二人は、出会った当初から不仲であったと……?」


 当時を知る人が肯定したのだ。

 となれば、やはり弓鶴が比翼と呼んだのは夫ではなかったのかと香流が思い直していると、


「いいえ、それは違います。 少なくとも、お互いに出会った当初の大奥様…… 弓鶴様は、耀角様のことを、確かにお慕いでありました」


「え?」


 苑枝の断言に香流は目を瞠る。

 その驚きを宿す黒をしかと見据え、苑枝は頷いた。


「ええ、確かにあの方は、耀角様を一途に慕っておられた。 それこそ、ずっと憧れであった異国の故事に互いを例えながら、いつか自分たちもそのような仲睦まじい夫婦となりたいと、美しく微笑んでおられたくらいには」


「異国の、故事……?」


 小さく繰り返したのに、苑枝は目だけで肯定する。

 そして、言った。






「あなたは御存じでしょうか? 『比翼の鳥』というお話ですよ」

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