三十五

 間者に伝送を任せることも、できなくはないだろう。

 だが、策が頓挫する危険性が増してしまう。

 それに、


「五老格に直訴する役目は、その間者に負えるものだろうか? 例えあなた直筆の文を添えていたとしても、あなた自身が訴えてくださる場合と比べれば、少々弱いだろう」


 銀正の懸念は最もだった。

 間者とはいえ、元は真殿配下の狩士だ。

 身元が悪いということはない。

 だが、家名の売れている香流が直談判するのとしないのとでは、大きな差が出るだろう。


「(やはり、私が行くほかないか……)」


 ならせめて。

 せめてもと、香流は俯いて言った。


「……せめて、明命を討つときは、お一人では行かないと誓ってください。 でなければ私は、あなた様一人、この国に残しては行けない」


 この人を、一人にしたくない。

 しかし、それでも行かねばならないとするなら。

 この人が一人にはならないという約束が欲しい。

 あなたが一人、無闇に走らぬという確約を得たい。


「どうか、一人にはならないと誓ってください」


 香流の願いに、銀正は嬉しそうに笑った。

 そして瞑目し、深々と頭を下げた。

 まるで謝罪するように、望まれた言葉をすり替えて答えた。


「嘘はつかないと誓ったから。 だから最後に一つだけ…… 私が今までにあなたに一つだけついた嘘を明かそう」


 これは、董慶師匠との約束事であったから、決して明かせなかったと、銀正は背を正しながら言った。

 香流はその告白に目を瞠り、黙り込む。

 銀正は柔らかな笑みで香流を見つめ、そして告げた。






「あなたには最初、自分を能力も代償もない例外だと偽ったが、私は確かに奇児くしこなのだ」


「私は希色まれいろという、特別な奇児だ」


「董慶師匠がこの国をおとなったのも、それを確かめるためだった」


「希色はその力こそ特異だが、確かに代償もある奇児と変わらない存在だ」


「だがその力を使えば、私は。 だから、」


 私は、大丈夫だ。

 そう言って笑うと、銀正は「もうこれで、あなたに偽ることは何もない」と、ほっと力が抜けたように俯いた。

 香流は、銀正が明かした希色というものが何なのかを知りたかった。

 それがどうして明命を倒すのに有用なのか、それも教えてほしかった。

 だが、香流が抱いたそれらの疑問を押しとどめるように銀正は再び深く頭をさげ、


「どうか、この使い、頼まれてはくれぬだろうか」


と、誠実な声で言う。

 そして落ちる沈黙に、疑問を言う機会を失った香流は、眉間を険しくして唇を噛んだ。


「……今の話全てが、あなたの妄言であればと、思いますよ」


 言っても詮無いことを呟き、香流は自嘲に頬を歪める。


「あなたが明命という法師を陥れ、失脚させるために、大芝居を売っているとか」


 そんなことはあり得ないと思いながら言えば、優しいままの声で、銀正は「では、私を切られるか」と聞いた。

 それに、香流は刀を返すことで答える。


「残念ながら、あなたのその目が、虚偽に歪むことはなかった」


 静かに銀正の手へ刀を戻すと、香流は深く息を吸って背筋を伸ばした。

 そして、正面切って琥珀の目に挑む。

 本当は、このままなんて、許しがたかったけれど。

 それでも、この人が決死の覚悟で明かしてくれた願いを、今の香流が振り払えるはずもなかった。

 もう、この人のことを、自分は。

 そこまで考えて、それ以上の想いを断ち切る。

 渦巻くようなその想いを今受け入れれば、自分はきっとこの人のもとを離れられないと直感したから。

 未練がましく纏わりつこうとする思念の糸を引き千切り、香流は真っ直ぐに銀正を見た。

 これがけじめだと、決然と了承を答えた。


「……少なくとも、この国が国崩しの一歩手前に立っていることは、確かだ。 最低限、そうならぬための対処を各国に求めるくらいのことは、やり遂げて見せましょう」


 あなたが待ち続けたというこの千載一遇の時。

 見事ものにして見せようと頭を下げる。


「お役目、お受けいたします」


 下げた頭の下で、香流は目の前の人との距離が、ぐんと遠くなるのを感じていた。

 依頼を受けた香流は最早個人としてではなく、家名を負った公人として。

 そして、頼みを寄越した銀正は、この美弥を守らんとする守護家当主として。

 二人、個を離れた場所で、遠のく自分たちの距離を感じながら、約定を交わしてしまった。

 もう、香流殿、銀正殿と、互いに呼び合う場所には立てないと、自分たちで決めてしまった。

 そしてこの距離は、一度事態が動き出せば二度と戻ることはないだろうと、二人とも気が付いていた。


 風が渡る。

 立ち合いの役目を終え、遠く、吹き去ってゆく。


 もう、戻ることはない二人の先を表すように、帰ることはない道を行く。

 行かないでと、手を伸ばしたいような。

 けれども、その道を閉ざすことは願えないと俯くような。

 そんな行き場のない想いを食い殺しながら、香流は頭を上げた。

 その刹那、懐に抱えたあの鈴を着物の上から撫ぜたのを諦観の慰めとして、一呼吸。

 黒に埋火うずみびの揺らぐ目と、琥珀に風流れる目が、交わる。

 別れを思う心を隠し合いながら、見つめあう。

 その交わりは、きっとそれほど長くはなかった。

 どれほど分かちがたく交えても、十分と思えることなどないと知っていた眼差したち。

 それらはしばらくのちにどちらともなくその色を閉ざし、無言の別れを舌先だけで味わって飲み下した。


 そして静寂。












 

 羽ばたきは、唐突に舞い降りた。







 ぴぃいいい!


「「!?」」


 滝音に混じるそのさえずりに、二人はそろって天を仰いだ。

 見れば、茂る枝葉の合間から、一匹の鳥が舞い降りてくる。

 あれは隈啼鳥。

 そしてその色は、


「赤隈!」


 銀正が口走った通り、伝鳥の隈は赤。

 緊急の要件を携えた証だった。

 一羽は真っ直ぐに銀正の腕へ舞い降りると、大人しくその足に結びつけられた知らせを差し出した。

 銀正はもう一方の手でそれを解くと、一読。

 さっとその顔色を急変させた。


「東の特別監視甲種!? 美弥に迫っているだと?」


 瞬間、うなじに走る緊張へ、香流は唇を噛んだ。




 止めきれなんだか。




 口惜しさの滲む吐息が、食いしばった歯の間から漏れた。

 木立に消えた、兄の背を思う。

 来る。

 あの脅威が、この国にやってきてしまう。

 俯いた先、外で足止めにかかっている里の者たちを思わずにはいられなかった。

 追っている、彼らはどうしている。

 皆無事なのか。

 被害は、


『だからそこに関して、いざとなったら婿殿によろしく言っといてくれ』


 真殿の言葉が去来する。

 瞬間、弾かれたように顔を上げた。


「御当主っ」


 鋭い声に、硬直していた銀正ははっと顔を上げた。

 その目をしかと見据え、香流はひと瞬き。

「緊急ですね?」と確認し、白い顔が強張って首振り応えるのを認めた。


「甲種だ。 それも、特別監視対象の甲種が、この国に迫っている」


「存じております」


 打ち返すように応じれば、銀正は驚いて口を閉ざす。

 だが、今悠長に全てを話している暇はない。

 文を胸に、ハタキを背に立ちあがった香流は、鋭く答えて言った。


「私が知っていることを、お伝えします。 だが今は、時間がない」


 走りながら話します、だから、


「行きましょう!!」






 *






「奴の名は、渦逆かぎゃく。 その能力によってつけられた名です」


 木立の中を走りながら、香流は冷静に口火を切った。

 二人は、急ぎ狩司衆の出陣に備えるため、右治代への帰路を走っていた。

 その疾走の中、香流は途切れぬ息づかいで、この国に近づく脅威について説明した。


「御存じの通り、我が里は狩士の里。 そしては、我が里が請け負っていた、特別監視対象です。 奴の力は、『ねじれ』。 角の力を発動している間は、触れるもの全ての理を捩じ曲げ、形あるものを崩壊させてしまう力です」


 最高位の飢神にのみ発現する第三の殻『角』。

 その器官は、持ちえた飢神に、特殊な力を与える。

 於土居の渦逆の場合、それは『捩』。

 発動の合間は、渦巻くように理を逆転させ、触れるものを崩壊させる力。

 少し先を走りながら目だけで振り返った銀正は、「形あるもの?」と眉間にしわを寄せた。


「ということは、もしや、」


「ええ、つまり、直接切りつける刀は用をなしません。 奴に触れた瞬間、その姿を崩壊させてしまうので」


 寄越された目が、そんな、と強張った色に揺れた。

 狩士にとって、飢神を封じる刀が使えないのは、飢神を退ける力がないのも同等だ。

 だが、そんな絶望的な話だけをするつもりは、香流にはなかった。


「案じ召されるな、御当主。 策はあります」


 あれは、香流の里の狩士たちが、幾年月をかけて渡り合ってきた相手。

 長い年月、多くの犠牲を出しながら於土居山に封じ続けてきた飢神だ。

 とすれば、そのために練り上げてきた、相応の秘策というものがある。


「奴を追っている狩士のなかには、『崩渦衆ほうかしゅう』という渦逆をねぐらに抑え込むことを専門に請け負っている一団がいます。 彼らは渦逆の力に相対する術を持っている。 それは戦いの様を見れば、すぐに分るはずです。 あなた方美弥狩司衆はその後方支援と、万が一渦逆が美弥に押し入った場合の、民衆の避難誘導を請け負うとよろしいでしょう」


 厄介な力を持つ渦逆といえど、その力も無尽臓ではない。

 香流の里の狩士たちがこれまでにその足止めに徹していたのなら、かなりの力を消耗しているはずだ。

 となれば、確実に灯臓まで取れなくとも、力が出せなくなった渦逆は、山奥に逃げ帰る可能性は高い。


「あれは特別監視の飢神です。 無理に狩ろうとせずとも、退けることを第一にとお心に止めて、迎え撃たれるが賢明」


 香流の進言に、走りながら銀正は微かに頷いた。

 そして、これは言うべきかを少し迷いつつ、香流は御当主と呼びかけた。


「もう一つだけ、お伝えせねばならぬことがあります」


「? 渦逆についてか?」


「はい」


「なら、教えてくれ。 今は、どんな情報でも得ておきたい」


 厳しい横顔で走り続ける銀正を見遣り、束の間。

 小さな躊躇いに心を揺らした香流は、それを振り払って言った。






「奴は、董慶様の腕を喰った飢神です」






「なに!?」


 瞬間足を止めた銀正を追い越し、香流は少し先で立ち止まって振り返った。

 道の上に立ち尽くす銀正が、驚愕をその目に宿して肩で息をする。

 その様を見守りながら、香流は苦悩に目を細めた。


「……『練華喰い』、なのか?」


「ええ。 ――――強いですよ」


 董慶の腕を喰った。

 つまり、比肩の贄を食らった飢神。

 それは練華の味に狂い、増強した力を得た飢神ということ。

 その力が、並一通りのものではないという証明。


「奴が、この国一の監視対象に数えられる所以ゆえんです」


 香流の里は、自らの里に属する董慶という狩士が生んでしまった練華喰いを野に放つことがないよう、これまでその足止めの任を請け負ってきた。

 それは言うほどに容易い話ではなく、多くの犠牲を出した歴史と共にある話だ。

 その事情を、瞬時に察したのだろう。

 銀正は青い顔の口もとを手で覆い、


「今の美弥狩司衆で、持ちこたえられるか……」


 と、苦しげに思案した。

 そこに、師と仰いだ人がかつて膝をついた相手と知ってしまったが故の躊躇いを見取った香流は、「御当主」と、張りつめた声を呟く。


「出来る出来ないではありません。 あなたは狩士。 民を守るため、襲い来るものを打ち払うのがその務め。 美弥狩司衆あなたがたはやらねばなりません」


 今こそ、人命を守るため、立たねばならぬ時。

 あの祭りの晩、銀正は言った。

 自分が守るのはこの美弥だと。

 だとすれば、怯えなどという時間の浪費を、己に許す暇はない。

 香流の鋭い眼差しを受けた銀正は、はっと気を飲み、悔悟。

 そして深い呼吸で己を取りもどすと、


「……そうだな」


 揺らがぬ目を見開いた。


「行こう、時間がない。 急ぎ配下をまとめ、渦逆を迎え撃たねば」


 前を向く視線にもう躊躇いの影がないことを認めた香流は、涼やかに微笑んで頷いた。

 走り出す。

 木立を抜ける。

 危急のときが迫っていた。

 この国一の脅威を迎え撃つ狩場に立つために、銀正は一路屋敷へ。

 香流はその背を見送るために、二人は道を走り続けた。

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