三十七

「どうして、苑枝殿が、その話を……」


 戸惑いと共にそう呟くと、苑枝は訝しみながら「どうして、とは?」と返してきた。

 香流は一瞬迷ったが、祭りの晩に弓鶴に呼び出された後の話を、大まかに説明することにした。

 弓鶴が香流に銀正への不信を植え付けようとしたことも。

 その時に比翼の鳥の話をして、香流と銀正では、その鳥たちのようにはなれないと吹き込んできたことも。

 苑枝は話を聞いて顔を険しくしていたが、弓鶴が「あの方だけが自分の比翼だ」と言ったのだと香流が言うと、ひどく言葉に詰まったような面持ちで悲しげな顔に影を落とした。


「最初私は、弓鶴様がおっしゃった自分の比翼とは、夫であった方のことだと思ったのです。 ですが人の話を聞く限り、お二人はあまり仲がよろしくなかった様子。 では、他に想う方でもあったのかとも考えたのですが……」


 香流が考えを述べると、苑枝は重く首を振ってそれを否定した。


「いいえ。 おそらく……いえ、まず間違いなくあなた様が予見した通り、比翼といった弓鶴様の心にあったのは、耀角様のお姿でしょう。 だって、あの方はずっと、耀角様を慕っておられた」


「どうして、苑枝殿がそれを御存じなのですか?」


「それは、」


 今でこそ苑枝は当主側として、弓鶴はそれに冷たく相対する立場として、互いの溝を感じる間柄にも思える二人だ。

 それなのに、まるですぐそばで見て知ったように、どうして強く断言できるのだろうと香流が聞けば、苑枝はいつになく細い声でその理由を答えた。



「私が、弓鶴様付きの侍女として、若い時分のあの方に、ずっとお仕えしていたからですよ」











 こんなことをあなた様に語ってよいものかとは思います。

 ですが、この家に嫁いで参られたのなら、承知しておくのも何かの役に立つかもしれません。

 そう言って、苑枝は話し始めた。

 それは、数十年前。

 当時の右治代当主であった銀正の父、耀角と、それに他国より嫁いできた、母、弓鶴の話であった。








 苑枝の話によると、弓鶴の嫁入りは、狩士の家同士の…… まぁ、よくある政略的婚姻であったらしかった。

 弓鶴がこの家に輿入れしたのは、彼女が十七、夫となる耀角、二十一の春。

 桜が散り去る頃。

 晩春の訪れを目前にする時節であった。


「私は当時、侍女としても中堅になりかけの若手。 まだまだ至らぬところばかりの若輩者でしたが、目をかけてくださっていた以前の筆頭女中様の采配で、嫁にいらした弓鶴様のお世話をおおせつかることになりました」


 狩士の家として相当の名家の娘であった弓鶴のために、右治代は多くの侍女をそのそば仕えとして用意していた。

 そんな侍女たちに混じり、弓鶴付きとなった苑枝。

 彼女の記憶によれば、当時の弓鶴は、それこそ良家の奥座敷の一輪華。

 生家にて蝶よ花よと大切に育てられ、一度たりとも折れることなく、憂いに沈むことなく、真っ直ぐに花開いた、純な娘であったらしかった。


「若い頃のあの方は、それは純朴でしとやかな娘様でありました。 高位の狩士の家柄の生まれながら人に心優しく、侍女にすらあどけない笑みを向ける方でした」


 それは、見方を変えれば、世間の闇を知らぬ箱入り故の、無知の優しさではあったかもしれない。

 世は美しい物語だけで出来上がっていると信じて疑わぬ、世間知らずの幼い感情であったかもしれない。

 しかし、そんな弓鶴という無垢な少女を、当時の苑枝は好ましく思いながら見守っていたのだという。


「元々、耀角様と弓鶴様の婚姻は、御生家同士の思惑あるものでありました。 ですが、それを承知してなお、あの頃の弓鶴様は笑って仰っておりました」


 その頃。

 まだ姑との軋轢も酷くなく、夫との仲も穏当だった時分のこと。

 弓鶴は日々の暇の他愛ない話し相手に、一番年の近かった苑枝を好んで選んで共に茶をたしなんだのだという。(弓鶴の侍女は、老輩が多かった)

 若い二人は主人と侍女という立場ながら、人の目を盗んでは、親しい交友を重ねた。

 身分ある生まれであった弓鶴は、生家では大切にされながらも、友を得るなどという機会に恵まれることがなかった。

 そのため右治代にて初めてできた友人に、まるで幼子が笑うように、あどけなく親しみを深めたらしかった。

 そうして日々を重ねるうち、弓鶴は苑枝に言ったのだという。

 

『ねぇ、苑枝。 あなたは、異国の故事を御存じ?』


『故事、ですか?』


 それなりの教養を積んで侍女の勤めを果たしていた苑枝だ。

 だが、流石に異国の文化ばかりは知見がない。

 全く降参だ、と楽しげな弓鶴に教えを乞えば、華のように笑う少女は、まるで秘め事のようにそれを教えてくれた。


『比翼の鳥というのはね、雌雄一匹ずつが片翼しか持たない、つまり、互いに寄り添わねば飛ぶことのできない、番の鳥たちのことを言うのよ。 その分かちがたい様を指して、仲睦まじい夫婦の例えとしても使われるの』


 互いを信じ、信じられて、飛ぶことが叶う鳥なの。


『……まぁ、それは素敵なお話ですね』


 片割れを一途に信じて、ともにある鳥。

 互いに互いを必要とし、寄り添い生きるつがいがあるとすれば、それはなんと美しい様だろう。

 弓鶴が教えてくれた話に感嘆して苑枝がそう言うと、弓鶴は心底嬉しげにそうでしょうと頷いた。

 そして遠く臨む先に、おそらく夫の――――耀角の姿を見据えながら、恋に落ちた女の顔で言ったのだ。




『私もね、いつか…… いつの日にか、あの方と共にある姿を、比翼のようだと言われるような夫婦となれればいいと思うの』


『あの方を真っ直ぐに信じ、そして、あの方に一等の信頼を寄せられる妻でありたいの』


『そして終生、あの方のそばで、あの方をお支えして、共にあり続けるの』




 比翼の鳥のような縁をつなぐことが、私の夢だから。


 子供の頃からの夢だったから。


 例え政治的な婚姻だとしても、私はあの人を選んだから。


 あの人に、恋をしたから。











「弓鶴様は、確かに耀角様を愛しておられました。 それが例え親に決められ結ばれた縁でも、弓鶴様が耀角様に向ける心は確かなものでした」





 けれど。



 けれど、そのいとけない恋が、実を結ぶことはなかった。





 その後、若い弓鶴は献身的に耀角へ尽くそうとしたのだという。

 守護家奥方として、妻として、どうにかその心へ寄り添おうと努めたのだという。

 しかし、耀角はそんな弓鶴の献身を物の数とも思わず、それに報いる一言さえも与えることはなかったらしい。

 確かに、当時の右治代家は前代が亡くなったばかり。

 当主となった若き耀角の多忙は、傍目はためにも明白であった。

 当人としても、守護家当主としての勤めを果たすために、他へ心をやる余裕も少なかったであろう。

 だとしても、弓鶴へのあまりの冷遇ぶりを目の当たりにしていた苑枝は、耀角の性根を承知していてもなお、その態度が腹に据えかねた。


 ある日、仕事終わりで帰宅した耀角に、弓鶴が声をかけたことがあった。




『よ、耀角様っ! あ、あの、』


『…………』


 夜も遅い時分に帰った耀角。

 部屋に戻ろうとするその人に広縁で声をかけた弓鶴は、恋い慕う相手に、言葉すら上手く操ることもできなかったのだろう。

 真っ赤になって俯くと、もじもじと小さな呟きで『あの、』とか、『その、』とか、言葉を継ぐ瞬間を得ようとしていた。

 たおやかな体を幼く揺らすさまは、それだけいじらしかったが、すぐそばで見守っていた苑枝は、ハラハラと心を騒がしていた。

 そもそも、この声かけをけしかけたのは、苑枝だった。

 妻としても勤めを果たしながらも、日々耀角と言葉を交わす機会に恵まれなかった弓鶴。

 そのことを知っていた苑枝は、信頼を得るには話し合うことも重要だと、弓鶴に耀角を月見に誘うよう助言したのだ。

 耀角はうら若き妻をじいと見つめ続けて、その言わんとすることを待っているようだった。

 だが、早く続きを言わねば、仕事の多い耀角だ。

 早々に立ち去ってしまうやもしれぬと苑枝が案じたところで、ぎゅうと袖を握りしめた弓鶴が、決死の表情で顔を上げた。



『あ、あの!! 御身がお忙しい折であることは重々承知しておりますっ。 ですがっ、ど、どうか…… 私と、月を見ながら談を交わして、くださいませんか……』


 少しの、間で、よいのです。



 それは、ひどく寂しげで、それでもと強く願うような、切ない頼みだった。

 常にあどけなく笑って夫を待ち続ける弓鶴の、本音が垣間見えたような声だった。

 だからその時になって、苑枝はようやく悟ることができた。

 弓鶴は、ずっと不安だったのだ。

 どれほど慕っていても。

 慕っているだけで十分だと…… いつか想いを返してくれる日がくるかもしれないからとうそぶいてみても、弓鶴は自分の心がどこにも行きつくことができないのではないかと、恐ろしかったのだと。

 恋を秘めた心が、受け取ってほしい相手に届きもしないのではないかと、ずっと寂しかったのだと、苑枝は弓鶴の切ない表情に知ることができた。

 だから、どうか。

 どうか届いてほしいと二人を見守りながら苑枝は願った。

 しかし、


『……すまんが、そのような時間を割くことはできない』


 耀角の答えは無情だった。

 冷めた視線を向けられた弓鶴の赤い頬から、さっと血の気が引く。

 苑枝は唖然として、言葉を失った。

 その瞬間から苑枝は、幼い頃から知っていた耀角という人が分からなくなった。

 小さき頃より人に優しかったこの人が、どうしてこんな慈悲のない言葉を吐くのか。

 どうして、今はだめでもいつかはと、例えあやふやでも先の希望すら与えずに言葉を切ってしまうのか。

 瞬間、苑枝は立ち上がりかけた。

 身分的なわきまえを理解していても、仕えている弓鶴のため、無礼を覚悟で弓鶴への慈悲を耀角に訴えようとした。

 だが、それを当の弓鶴が制して止めた。

 どうしてと目で訴えかけるが、俯いた弓鶴は顔を陰にして答えない。

 そうしているうちに、早く部屋に戻るよう言い置いて、耀角は去っていった。

 

『……どうしてですか』


 どうして止めたのですかと、苑枝は弓鶴に問うた。

 こんな冷たい扱いを良しとするのかと、弓鶴を言外に問い詰めた。

 しかし、弓鶴は悲しみに心弱くした顔で、言ったという。


『いいのよ、苑枝。 あの人が望まないのなら、それでいいの』


『いいわけありません! だって、あなた様はこんなにっ』


 傷ついていらっしゃるのに、



 けれど、苑枝は皆まで言えなかった。

 弓鶴は笑っていたのだ。

 深く傷つき、そして打ち捨てられたような想いを滲ませた笑みで言ったのだ。



『言ったでしょう? 比翼は、信じあわなくてはならないの。 信頼は、求めるものではないのよ』



 信頼は、相手が自ずから寄せてくれるのを、待つものなのよ。


 そう言って、弓鶴は耐え続ける道を選んだ。









 それから数年。

 溝の埋まらないまま時を過ごした夫婦は、姑の非難にさらされながら、ようやっとの時を要して二児をもうけた。

 だがその子らすらかすがいとはならず、姑には邪険にされ、夫には顧みられることのなかった弓鶴は、右治代の家に一人、心病んで孤独を深めていったらしい。

 孤独に病むうち、弓鶴は友と親しんだ苑枝すら遠ざけ、二人の縁もいつの間にか途絶えてしまった。

 一人になった弓鶴は、与えられた奥座敷の一室で、誰もそばに近づけることなく、一日一日を過ごすようになったという。

 しかし、例え縁が切れても、苑枝はずっとふさぎ込む弓鶴を案じていた。

 もう一度、あの人が笑ってくれる日を願っていた。

 けれど愛する人に愛されない絶望に沈んでしまった弓鶴には、もはや苑枝の声は届かず、あの日。

 たまたま苑枝が里帰りで右治代から離れていた時に、






 狩場にて、耀角絶命の知らせが、右治代にもたらされた。






「あの日は、私も里帰りで生家で過ごしておりましたゆえ、すぐに事情を知ること叶いませんでした。 数日たってから戻ってみると、右治代は混乱のるつぼ。 耀角様臨終の知らせに絶望なされた当時の大奥様もその悲しみから儚くなられ、家の親族方が相次いで亡くなった騒動で、上も下もない有様でした」


 混乱から大騒動になりかけた右治代家中。

 当主とその母が相次いで亡くなったのだ。

 その混迷も当然のものであった。

 主亡き後、この家は、この右治代は…… 美弥狩司衆はどうなる。

 一体どうすれば。

 誰も右治代家中の統率を取る者がない状態で、使用人たちは群れの長を無くした畜生同然だった。



 だが、その混乱を制する者があった。

 その人は、当惑する右治代使用人たちを前にして、言ったのだ。



『皆、聞きなさい』



 その声は、苑枝が久しく聞いていなかった、懐かしい弓鶴のものだった。

 懐かしい、けれど、もうあの頃の夢に微笑むあどけない娘のものではない声だった。

 いつの間にやら閉じこもっていた奥座敷から出てきていた弓鶴は、青白い幽鬼のような顔で使用人たちを睨みつけて言い渡した。




『皆知っているように、当主がお亡くなりになりました。 ですが、狩司衆の守護家として、その座位を空席にすることはできません』


『よって、世継ぎである我が長子を、次代として置くことを言い渡します』


 これは、国主様も了承なされた決定です。





 いつの間に国主の許可を取り付けたのか。

 何より、家から出ることのない弓鶴が、どうして国主とつながりなど持てたのか。

 それすら理解する間を使用人たちに与えぬうちに、国主の許しを記した証文を錦の御旗に、弓鶴はみるみる間に右治代を掌握していってしまった。

 同時に、当時国主によって緊急に選別された狩士――――現在の美弥狩司衆上格たちが弓鶴の陣営につき、弓鶴の独断を良しとしなかった右治代古参の使用人や美弥狩司衆に属する狩士たちを排除していった。

 こうして弓鶴の意に反した者はすべからく右治代、美弥狩司衆を追われ、今の右治代の現状が出来上がったのだという。



「あの日からです。 あの日…… 耀角様が亡くなった騒動のあった日から、全ては変わってしまいました。 美弥狩司衆は現在の上格方が幅を利かせ、御当主もその立場を弁えない対応に苦慮していらっしゃる。 右治代家は陰で弓鶴様の絶対的な支配下にあり、そして…… 弓鶴様当人も、あの頃の純真で清い心を忘れてしまわれた」



 その後、自身の家が中立を保ったために右治代に残ることを許された苑枝は、数年前に筆頭女中を引き継ぎ、現在に至る。

 その間、全く人の変わってしまった弓鶴が、昔日を思い出したように苑枝の目を見ることはなく。

 一年前に家を継いだ銀正を苑枝が支えるようになってからは、銀正を無下にする弓鶴とは一層溝は深まり、今日があるのだと。

 そう言い結んで、苑枝はじっと香流を見つめた。




「これが、私が存じているこの家の…… いえ、弓鶴様と、耀角様の、昔日の記憶です」

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