三十一

 兄と別れた後。

 氷室から戻った香流は、はやる心を抑えて自室へと急いでいた。

 真殿にはああ言われたが、何も備えずにはいられない。

 せめて、何があってもすぐに動けるよう、準備をと考えながら、愛用のハタキを肩に担いだまま庭を歩いていると、


「香流様」


「!?」


 突然どこかから声をかけられ、がくっと反射的に足が止まった。

 はて、どこからと、聞きなれた声の主を探して首を回す香流。

 すると少し先の広縁に、首根っこを掴まれた阿由利と、掴んでいる苑枝が並んで立っているのが見えた。

 阿由利は「香流様ぁ」と、八の字眉でこちらに手を伸ばしている。

 どうにも奇妙なそのたたずまいに虚を突かれた香流は、


「……えーっとぉ…… 何を、」


 なさってるのですかね? と聞きかけて、苑枝がふんと鼻息も荒く阿由利を見下ろしたのに、首を傾げた。

 苑枝は子猫をそうするように阿由利を振ると、


「こうでもしていないと、すぐにあなた様めがけて走りだしかねないので、捕まえているのですよ」


と、面倒くさそうにため息を吐いた。


「だってぇ……」


 やり玉に挙がっている阿由利は、顔を弱弱しくしかめて弁明を呟く。


「すぐ近くに控えておりませんと、不安になるんですぅうう」


 またこの人は厄介に巻き込まれそうなので、と。


「いや…… そうそう面倒など起こりませんよ、阿由利殿」


 大分過保護になっているなぁと他人事のように思いながら、香流は二人に近づいた。

 傍に寄ると阿由利を寄越した苑枝が、「あとで、お願いしたいことがございます」と重々しく言い渡してくる。


「お願いですか?」


 はて何だろうと首を傾げると、苑枝は簡単なことだと前置いて、勤め後に炊事場に向かうよう香流に伝えた。


「当主様が昼まで、裏山の鍛錬場に籠るそうで。 そこに昼食を届けて差し上げてほしいのですよ」


 苑枝曰く。

 右治代家には敷地内の道場とは別に、裏の山中に当主のために整備された鍛錬場があるのだそうだ。

 銀正は今日の午後から城で用があるため、早めに食事を届けてほしいのだという。


「朝の務めと習い事は?」


 午前の用はどうすればと聞くと、「早めに切り上げてください。 習い事は休みとします」と苑枝は頷いた。


「それは、私もついて行って構いませんか?」


 二人の会話を聞いていた阿由利が、香流の袖を握りしめて言う。

 とりあえず香流に引っ付いていたいらしいが、苑枝はそれに「だめです」と首を振り、香流の耳元に顔を近づけた。


「当主様は、あなた様になにか用がある様子ですよ」


 だから一人で言ってくださいと苑枝は香流に耳打ちし、離れていく。


「(用?)」


 なんでしょう。

 疑問を浮かべた香流は、首を捻りながらそれでも分かったと頷いた。

 苑枝はそれを確認すると、いい加減になさいと阿由利を引きはがして、一呼吸。

 しかつめらしく、ぱんぱんと手を叩いた。


「さぁさ、朝の勤めを始めますよ。 今日も今日とて、く終わらせましょう」






 *






 昼も近くなった頃。

 朝勤めを終えた香流は、掃除用具の片付けにいそしんでいた。

 見かけ上、淡々とした様子は平素と変わりない。

 だが実際のところ、その心中は今朝方兄が寄越した知らせがぐるぐると渦巻いて、嵐の前の荒海のように心の水面がひどく波立っていた。

 それでも平常心を保っていたのは別れ際、兄に『お前にはお前の役目があるだろう』ときつく釘を刺されていたためである。

 あの釘は、『外のことはこちらに任せておけ』という兄の厳命だ。

 だとすれば、今自分がこの国に迫る危機を案じて与えられた仕事を放りだすのは、無責任以外の何物でもない。

 確かに例の飢神のことはひどく気になる。

 だが、兄に言い渡された以上、今の自分にとっては朝勤めこれがなすべきことと、香流は黙々と掃除を終えた道具たちをいたわってやっていたのだ。

 そうして、一通り始末を終えた時。


「とうとう、それとハタキだけになってしまいましたね」


 七つ道具。

 香流が握っている刷毛はけを覗き込み、ちりの始末から帰ってきた阿由利が、ぽつんと呟いた。

 それを顔を上げて迎えた香流は、苦笑しつつ肩を竦める。


「そうですね…… たわしは祭りの日に無くしてしまいましたからね」


 飢神の襲撃騒動で、乙種から阿由利たちを守るために使用したたわし。

 結局あの後、騒動の渦中でどこに行ったか分からなくなってしまっていた。

 だから今香流の手元にある掃除七つ道具は、大ハタキとこの刷毛だけだ。


「苑枝様にお頼み申し上げて、無くしたものを買い揃えに行きますか?」


 阿由利が気を使ってそう提言をくれたが、ふっと笑った香流は、ふるふると首を横に振る。

 無くしたモノたちも、もちろん上等な品ではあった。

 だが、正直このハタキだけあれば、後はそれほど重要というわけでもない。

 この頃は勤めも落ち着いてきたし、専用の物を買い揃えるほどでもないだろうと考えて、香流は大丈夫だと微笑んで立ち上がった。

 その勢いで、ふと空を見る。

 日は南中前。

 そろそろ、苑枝が指定した時間である。

 銀正も昼から用があると、苑枝も言っていた。

 そう考えると早めに動いておいて損はあるまい。


「……丁度いい頃合いでしょうし、炊事場に向かいましょうか?」


 道具を片付けて立ち上がると、阿由利もこくんと頷いてたすきを解く。

 ハタキを背に、刷毛を胸元に。

 香流は外の不安が渦巻く胸中に蓋をして、阿由利と二人、足早に歩きだしたのだった。









「もし、失礼いたします」


 昼の準備にもくもくと湯気が上がる炊事場。

 そこへ訪れると、香流は入り口から下女たちに声をかけた。

 その途端だ。


「まぁ、香流様!」


 急に色めき立った悲鳴が、奥からあがった。

 声の主は、食事の用意をしていた下女たち。

 彼女たちは香流の姿を認めると、我先に、我先にと、わらわら近づいてきた。

 その老いも若きもきらきらと顔を輝かせているのに、香流について来ていた阿由利は、ぎょっと目を瞠る。

 一体何なんだ?

 驚いている阿由利の横で、一手に衆目を集める香流は、丁寧に目礼して用向きを告げた。


「お忙しい所、失礼します。 苑枝殿に頼まれておりました、御当主の弁当を引き取りに参りました」


「あら! それなら今、作っておる所ですよぅ。 ちいとばかしお待ちくだせぇなぁ」


 用を受けた一人が満面の笑みで頷き、奥へと向かっていく。

 しかしそれ以外は皆、仕事をほっぽり出して、香流を囲んで離れない。

 それどころか全員が炊事場の熱気に上気した顔をさらに赤らめ、うっとりしながら香流を見ていた。

 その熱心な眼差しに及び腰になる阿由利は、香流のそばにすり寄って、にこやかなその顔と、下女たちの熱気を見比べた。


「もう! 香流様ったら、今朝は声だけかけてすぐ出て行ってしもうたので、どうしたのかと思っておったのですよ?」


「何か、急ぎの用でもあったんですか?」


「お茶も用意しておったのにぃ」


「先日の話の続き、聞きたかったですよぉ!」


 一部の下女たちが、なにやら不満そうに口を尖らして香流を囲む。

 それに「今朝は、少々急いでおりまして」と香流が申し訳なさそうに眉を落とすと、

 

「あら、いいじゃない。 香流様だってお忙しいのよ、困らせるのはいけないわ」


 別の一団の下女が、艶っぽくさらりとたしなめる。

 そして別のもう一人が、「やだ、そんなことより、」とこれまた輝き甚だしい様子で身を乗り出して香流に迫った。


「聞きましたよ、香流様! なんでも先日の祭りで、大立ち回りを演じたとか」


 どうやら、飢神の騒動のことを言っているらしい。

 どこからその話を聞きつけたのかと二人が思っている間に、鮮度抜群のその話題に、周りにいたほかの女たちもわらわらと食いついた。


「屋敷に来ている狩士の若手が、噂しておりましてな」


「女人とは思えぬご活躍だったと」


「乙種相手に、当主様の助太刀をなさったのですって?」


「当主様に襲い掛かる飢神の爪を防いだと!」


「本当ですか!?」


「すごいです、香流様!」


 思い思いに嬌声を上げる下女たち。

 そんな姦しさに、流石の香流も少々照れつつ、「もうご存じでしたか、女性の噂は早いですね」と頬を掻きながら恥かしげに笑った。


「助太刀したと言っても、乙種の腕を飛ばしたのは御当主ですから。 私など、ほんの少しの隙を作るのに、差し出がましいことをしたにすぎませんよ」


「でも、お助けしたのは事実なのでしょう? なら、」


「それでもすごいですよぉ! 私らだったら、怖くて動けなくなってしまいます」


「きっと、とても凛々しいお姿だったのでしょうねぇ……」


 一目見たかったですと、取り囲む女たちがそろって熱いため息を吐く。

 陶然とした気配に、その中心に立っていた香流は「御当主には敵いませんよ」と呑気なものだ。


 ――――いやいやいやいや。


「ちょっと、香流様」


 眉を顰めた阿由利は、とうとうくいくいと袖を引いて香流を呼んだ。

 その合図に、「はい?」と瞬きする香流。

 きょとんと可愛らしく目をくりくりさせているが、阿由利はまったくもっておもしろくない。

 憮然とした顔つきで香流に耳を寄せるよう合図すると、阿由利は口を尖らせて言った。


「どうしてこんなに下女の方々と親密になられているのですか? なんだか全員、目がきらっきらしていますし! どういう経緯なんですか、これは」


 私聞いてませんよ! と、小姑ばりに詰問する阿由利。

 それに、香流はあははと困った顔で笑った。

 そして、「いや、それが、」と話し始めることには、事は阿由利をかばって侍女たちに宣戦布告した日までさかのぼるのだという。


「あの日から私、氷運びのお役目を言いつかったでしょう? その仕事終わり、氷の搬入報告ついでに、よくこちらでお茶をいただいておりましてね。 その折に皆さんに楽しいお話をしていただいておったのですよ」


 それで仲良くなりましてと朗らかに言うのに、阿由利はジト目を向けた。

 怪しい。

 仮に今の話が本当だとしても、おそらく全部ではない。

 だって、ただの世話話程度でここまで下女たちがきらっきらするわけがないのである。


「(どうせまた調子よく、下女たちをたぶらかしてらしたのだな)」


 そう一方的に見当をつけたが――――実際ほとんど当たりである。








 まぁ、簡単に話せばこうだ。


 元々この家の下女たちは、自分たちと違って家柄もよく、それゆえに高飛車な態度で接してくる奥座敷の侍女たちを、心よくは思っていなかった。

 だから炊事場での香流が侍女たちに宣戦布告したあの日。

 嫌っていた侍女たちに毅然とした態度で接する香流の姿を見た下女たちは、これはなんと肝の座った嫁様だろうと、内心色めき立った。

 その上、無理な仕事を逃げることなく請け負い、しっかりと重労働をこなす寡黙さにも感銘を受ける。

 しかも、話してみればその人柄は気さくで丁寧。

 益々好感が湧く。

 そして止めに、会話の折々に差し挟まれる、無自覚な口説き文句だ。


『おや。 今日のお着物は、とても綺麗な色味ですね。 初夏にふさわしい涼しげな装いだ。 お似合いです』


『ああ、御髪おぐしが乱れておいでですよ。 ひとつ、私に直させていただけませんか? 決して悪いようには致しません。 まぁ、あなたなら、どんな姿も素敵ですけれどね』


『お怪我をなさったのですね? ――――そんなことを申されますな、私に手当てさせてくださいませ。 痕になると、私が悲しいのです』






 数日で下女全員が陥落したのは言うまでもない。


「(もぉ…… もぉおおお!)」


 大体今の説明通りの想像をした阿由利が、憤懣やるかたないと地団駄踏む。

 まったくこの人は、なんで女人ばかり誑かすんだ。

 少しでも目を離せばこれである。

 本当に、香流様のいい顔しい! と内心憤慨して、阿由利はそっぽを向いた。


 いうなれば、可愛い嫉妬であった。


 そうこうしている間に目的の弁当ができたのか、最初に奥へ向かった下女が包みを持って近づいてきた。


「はいはい、お待たせしました。 ごめんなさいねぇ、お待たせして。 水筒も用意しておりますので、一緒に持って行ってくだせぇ」


「いえいえ、ご苦労様です。 はい、確かに引き受けました。 ――――いつもおいしい食事、ありがとうございます」


「いーえー! そう言っていただけるだけで勿体ないことですよぅ」


 からからと気風よく笑う下女に優しく微笑み、「では行ってきますね」と香流は目礼して外へ出た。

 そばの阿由利も、渋々ながら付き従う。

 そろって裏門を目指す二人を、下女たちは満面の笑みで送り出した。


「お気をつけて~」


「次の朝勤めの後も、お茶を用意しておりますゆえ」


「またお話しいたしましょうね!」


 口々に見送る声を背に、香流は手を振りながら微笑む。

 彼女たちを見ていると里の奥方たちを思い出すなぁ…… なんて、平和なことを考えながら。

 横をついてくる阿由利は、まだぶつぶつと不満げなのだが、香流は一向に気づかず手の中のあたたかな包みを胸に抱いて笑った。


「話すと、とても気の良い方々でしょう? 淹れてくださるお茶もおいしくて、つい毎回話し込んでしまって」


 私のような余所者にも寛容とは、心の広い方々ですと、見当違いなことをのたまう香流。

 それに阿由利は、


「そういうところ、本当に罪深いと思いますよ、香流様」


と、呆れた声で答えた。

 この人の無自覚な所が、真、罪深いと首を振る。

 だが無自覚ゆえに言っても仕方ないと、明後日に向かって重くため息ついた。







 そうやって歩いていると、ちょうど裏口の手前。

 二人は広縁に立っていた、数人の侍女たちに行き会った。


「!!」


「おや、」


 その中の一人に見覚えがあった香流は、ひょいと眉を動かして歩みを止める。

 香流を確認してぎくりと動きを止めた侍女たちの中でも、一等顔を引きつらせていたのは、あの炊事場で戦線布告した侍女だった。


「久方ぶりです。 その後、お変わりありませんか?」


 あの日の威圧などすっかり忘れ果てたように香流が手を上げると、侍女たちは薄気味悪そうにしながら目を見交わす。

 そして無言で顔を背けると、足早に奥へ引き上げていってしまった。


「……なにか、気に障るようなことを言いましたかね」


 こてんと首を傾げながら香流が呟くと、横で見ていた阿由利が、鼻を鳴らして目を細めた。


「別に、香流様が気になさることはありません。 どうやらあなた様があの重労働を軽々こなされているのを、まるで熊や鬼のようだと薄気味悪く思っているようで。 今度はあのように怯えているのですよ」


 いい気味ですと意地悪く笑う阿由利。


「それは……」


 なんだが逆に落ち込むんですがと、香流は遠い目をして佇む。

 明らかに人外じみた見方をされているようで、非常に不本意だ。

 しかしあの様子では弁明も聞いてはくれまいと、香流は一旦侍女たちのことは横に置いておくことにした。

 それに、今は使いの最中だ。

 なんとか立て直して裏口に至った二人。

 阿由利とはそこで別れ、香流は一人、阿由利に教えてもらった道を進んで裏の山中に入った。

 氷室へ行くのとは違う道を辿っていくと、そのうち道の先からわずかながら水の落ちる音が聞こえてくる。


「(滝でもあるのですかね)」


 山の際を川が流れているので、そこに向かう流れでもあるのだろう。

 音を頼りに進むと、教えられた通り、道が枝分かれしたところに行き会った。

 それを下るほうに入って少し。

 行く先が茂みで狭くなっているのが見えて、香流は背負ったハタキを担ぎなおした。

 そして抱えた弁当を抱き込んで、身をかがめて細合を通り抜ける。

 するとそこには――――

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