三十

 氷運びを請け負った、香流の朝は早い。

 まだ日の昇らぬうちから起きだして着物を整え、朝餉あさげも食べずに仕事に向かう。

 今日も今日とて、朝鳥のさえずりもなしに目を覚ました香流は、むくりと布団から起きだした。

 うんと伸びをし、ぼやける目をこする。

 どうにか意識をはっきりさせ、一呼吸。

 さあ、本日も仕事始めだと気合を入れた時だった。


「?」


 なぜだか、視線を感じる。


 それも相当どぎつい。



「(うーん、なんでしょうね)」



 敵意は無さそうなので、はてどこからと呑気に出所を探した香流は次の瞬間――――ぎょっと肩を浮かせた。


「!!?」


 は、わずかに開いた障子の向こうから、じっと香流を見ていた。

 それはもう、ものすんごい血走った隈の深い目で、ガン見していた。


 

 妖怪!!?

 香流が一瞬身構えたのも無理はなかった。



「あああ、阿由利殿!?」



 素っ頓狂に声を裏返らせる香流。



 そう。

 それは見間違いようもなく、阿由利であった。

 広縁に寝そべっているらしき、馴染みの幼い侍女であった。

 阿由利は、どうしてその体制? と疑問甚だしい体勢で、細い障子の隙間から香流をじっと凝視していた。

 正直、どこの怪談だと震えあがりそうな光景である。


「……何をなさっているのですか、阿由利殿?」


 まだ、随分朝も早いのですよ?

 というか、なぜここに?

 ――――というか、というか。


 いつからここに?


 問いただしたいこと山の如しである。

 だが賢明な香流はせり上がってくる疑問をとりあえず飲み込み、相手を刺激しないよう「……とりあえず、お早うございます……?」とひきつった笑いを浮かべてみた。

 すると、妖怪(:阿由利)はずずずと人外並みの身のこなしで立ちあがり、すうと障子を開いて入り込んできた。


「…………」


 怖い。

 言っては何だが、怖すぎる。


 これには流石の香流も薄かけを引き寄せて、盛大に頬を引くつかせた。

 大抵の事態には対応する自信のある香流だが、今回ばかりは下手に動く気になれない。

 そうこう固まっているうちに部屋へ上がり込んできた妖怪(:阿由利)は、畳に這いつくばると、身の毛もよだつ動きでずりずりと這い寄ってきた。


「香流さまぁあああああ……」


「は、はいっ!?(ひぃ!?)」


 そのあまりの奇態に、香流は飛び上がらんばかりに返事をする。

 最早、魑魅魍魎に追い詰められたような心地である。

 そんな香流をよそに、妖怪(:阿由利)はぞりぞりと布団まで寄ってくると、そこで一旦停止。


 それから、




「香流さまああああああ!!」


「は、はいいいいいいい!?」




 大音声だいおんじょうで香流の名を叫び、両手を広げて襲いかかって(?)きた。

 仰天して固まる香流。

 おかげで飛びかかってくる体を受け止めきれず、無抵抗に妖怪(:阿由利)に覆いかぶさられる。

 当然もつれ合った二人は、どしーんと布団に転がることとなった。

 日も昇らない早朝の静寂しじまに、声のない香流の悲鳴がこだまする。

 

 ――――なんとも名状しがたい、『しっちゃかめっちゃか』さである。










「(い、一体、何事……?)」


 さっぱり状況についていけない香流は、し掛かっている阿由利を抱きしめて、打ち付けた後頭部の痛みをやり過ごした。

 なんだかこの妖怪(:阿由利)さんは、昨日から大分不安定である。

 これはなにか、ご機嫌取りが必要か……? と、好きな菓子あたりで手が打てないかと思案していたところで、



「う、ううう、うぇええええええ~」


「!?」



 急に泣きだす妖怪(:阿由利)。

 「ええええ?」と困惑する香流。


 ものすっごく困惑する香流。


 仕方なしに、小さな体を抱えて起き上がる。

 布団の上に胡坐あぐらをかいて、べしょべしょに泣きっ散らかしている頭を肩に沿わしてみる。

 すると、零れ落ちる涙声が耳元で、


「よ、良かったですぅうううううう 香流様、ご、御無事でぇえええええええ」


と、えぐえぐ嗚咽おえつした。







「(え、ええええ~……?)」


 当惑極まれり。

 しかし、これは。

 なんとか混乱する頭で当たりをつけた香流は、声に出さずに呟く。

 もしかして、


「(昨日の乱心、まだ残ってました? 阿由利殿)」


 弱り切った顔でようしよしと妖怪(阿由利)の背を撫でてやりながら、香流は遠い目をする。

 おそらく、昨日の興奮が冷めやらなかったがために、このような奇行に及んだのだろうが、


「(泣いているうちに事情を問うわけにもいきませんし)」


 さてどうしたものかと思案していると、


「あ、朝起きたら、また香流様がどっか行ってしまったのではと、気が気ではなくってえええええ」


 夜も眠れず、ここまで来てしまいましたああああああ、とむせぶ妖怪(阿由利)。


「(あ、言ってくださいましたね)」


 即解決。

 だから目元にくっきり隈で、あのおどろどろしい顔つきだったのだなぁと、二度遠くを見る。


「(これはお役目遅刻ですかねぇ……)」


 ようやく事態に合点がいった香流は、ふうとため息をついて、妖怪(阿由利)あやしに徹することにした。

 そろそろ夜着の肩口がびっちゃびちゃである。

 冷たい。

 ――――まぁ、実際はちょっとぬるい。

 これは朝一で洗濯決定か。

 もうなるようになされいと色々諦めた香流は、香流様香流様と繰り返されるぐずりに、はいはいと応じた。

 西の自室に、まだ朝の光は届かない。

 だが確実に目は覚めた香流は、脱力した一日を始めるのだった。







「まったく、朝も早うから部屋まで押し掛けるなどと…… 常識を考えなさい、常識を」


 ようやく阿由利が泣き止んだ頃。

 二人は阿由利を探しに来た苑枝に見つかり、(なぜか香流までも)大目玉を食らうこととなった。

 別の意味で泣きが入りそうな阿由利との間に入ってやりつつ、香流は「まあまあ」と場をなだめる。


「阿由利殿に心配をかけさせた私にも非はありますゆえ。 勘弁してさし上げてください」


 ほら、反省もなさっているので! と、とり成せば、不満顔だった苑枝も「そうやって甘やかすのも、あなた様の悪い所ですよ」と言いつつ矛先を収めてくれた。

 脇に引っ付いて離れない阿由利は、「うえええええ」と涙声で唸って、濡れまくった顔を香流に擦りつけている。


「(あ、なんだか横っ腹がひんやりしてきましたね……)」


 眉を下げた笑みを浮かべながら、香流は目を閉じる。

 そして瞬間、「お勤め!」と仕事を思い出して顔を上げた。


「いけません、すっかり仕事始めの時間を過ぎてしまいました」


 これは急がねばと(阿由利付きで)立ち上がった香流は、ひとつ大切なことを思い出して、


「あの、苑枝殿」


と、目をみはっている苑枝に凛々しい顔を向けた。


「私のですが、そろそろ返していただいても構いませんか?」


 前々日の祭りから、苑枝に取り上げられてしまっている大ハタキ。

 それを返却してもらえないだろうかと、期待を込めた顔で香流は苑枝を見る。

 言われた方はげんなりとした様子で、嫌そうな目を寄越よこす。


「……香流様。 あなた、まだを持ち歩くおつもりですか?」


 渋い顔で帰ってくる問いに香流は勿論と頷き、


「あれはとても大切なものなので。 なるたけ肌身離さずにおりたいのですよ」


と、大真面目に答えた。

 いつの間にか泣き止んだ阿由利とそろって苑枝はあきれた表情を浮かべ、顔を見合わせる。


 いい加減、風呂やかわやにまでハタキを背負って歩き回るのはどうかと思いますがと、屋敷の者に陰で歩くハタキ女と言われているのを知っている二人は、重々しく嘆息した。

 そんな二人の心中などいざ知らず、当の歩くハタキ女(仮称)は「どうか!」と熱心に身を乗り出して頷くのだった。





 *





 結局そのあと、ぐずる阿由利に見送られ、香流は朝の務めに家を出た。

 その折にようやく返してもらった大ハタキを背負い、荷車と共に訪れたここは、右治代の裏山。

 その奥まった山陰にある氷室で、香流は仕事始めの準備をしていた。

 氷を切り出す道具を下ろし、引いてきた車を固定して、氷を積み込む用意を終えて。

 大切なハタキを荷車の横に立てかけた時だ。


「香流」


「はい」


 突然の呼びかけにびくりともせず、香流は淡々と返事をした。

 振り向けば、声の主が近くの木から飛び降りてきたところであった。


「お戻りでしたか、兄様」


 一度国に戻ったと聞いていた兄の出現に、香流はひょいと眉を動かす。

 真殿は暑気に汗一つかいた様子もなく、にやりと笑って近づいてきた。


「報告で聞いていたが、まだこんな力仕事させられてるのか。 名家に嫁入りのはずが、とんだ花嫁修業だなぁ、おい」


「この程度、私には物の数ではないことくらい、兄様だって承知でしょう。 余計な話を差し込まないで、要件を申してください」


 間者の任を受けている間は、美弥に散っている仲間内の接触は、連絡事を伝え合う最低限にとどめるということを事前に決めてある。

 そのため、戻った真殿がこうして顔を見せたのも、何か用があってのことと推察して、香流は冷えた顔で話を促した。

 真殿は妹の素っ気ない対応に肩を竦めて、やれやれと首を振る。


「(だから、なんでそっちが仕方なさそうにするんですか)」


 前にきた真殿の配下も理不尽に溜息でも付きそうな気配を寄越したのを思い出して、香流は面白くない。

 そんなことを思っている間に荷車の横で立ち止まった真殿は、ひょいと眉を上下させて二本立てた指を振って見せた。


「知らせだ、香流。 二つある」


「悪い知らせですか?」


「良いのと悪いのがある。 どちらから聞く?」


「では、順当にいい方から」


 とんとんと兄妹の慣れた速度で応じ合い、真殿が「じゃぁ、一つ目」と、もったいぶるように一呼吸置いた。


「お前と婿殿の婚姻を確かめに、五老格の使者が来ている。 明日には着く予定だ。 右治代にも、もう知らせは行っている」


「……それはいい方に分類するような内容ですか?」


 どうして今更と訝し気に目を細めた香流。

 真殿はくるりと目を回し、不自然に口の端を引き上げて笑った。


「結婚のはずが婚約者止まりのお前にとっては、はたから見ればいい知らせじゃないか?」


 このことで、一気に婚儀まで話が進むかもしれないぞ。

 けたけた肩を揺らす真殿に、香流は腑に落ちないながらも、首を振った。


「あまり、ありがたみのない話ですが…… まぁいいです。 それにしても、随分遅い使者ですね? ――――ああ、だからですか?」


「まぁ、そんなとこだな。 そういうことだから、そのつもりでお前の方も備えておけよ」


 、とおまけのように付け足されたのは気になったが、香流は「それで、悪い方は?」と次を促した。

 どうせ、そろそろ帰りたいと仲間内で文句でも出てるんでしょう?

 そんなことを続けようとして、だから、





「《於土居おどい渦逆かぎゃく》が


「……は?」





 なんの躊躇いもなく放り投げられた知らせに、一瞬香流はその意味を捕らえ損ねた。

 渦逆、渦逆と、何度もその名前を脳裏に繰り返して、ようやく。

 だんだんと震えるような実感が湧いてきて、次の瞬間には鋭く聞き返していた。


「越えた? 渦逆がですって!? 一体なぜ?」


 掴みかからんばかりに叫ぶ妹に、真殿はうんざりと耳の穴を塞ぐ。


「おいおい、そう吼えるなよ。 耳に痛いぜ」


「ふざけていないで、詳しく説明してください! 一体全体、何があったのですか? だってあれは……」



 あれはっ



「あれは我が里の、ではありませんか!」










 特別監視対象。

 その対象は、だ。


 香流の里は、狩士の里。

 それゆえに、里では飢神に関するある特殊な役目を請け負っていた。


「狩司衆規定、『甲種特別監視対象』」


 苦々しく香流が呟いたそれは、狩司衆における飢神――――特に、ある特定の甲種の警戒重要度を示す指標だ。

 この嘉元国には多くの飢神が跋扈ばっこしているが、その全てが容易に灯臓を狩りとらせてくれるわけではない。

 特に最上位の甲種ともなればその力は別格で、狩士が束になってかかっても引き分ける手合いもいるほどだ。

 中でも《特別監視対象》と香流が言ったのは、簡単に言えば、『あまりにも手強すぎて狩り取れないため、平時は警戒監視するに止め、対象が行動を起こせば足止めに徹する』と規定された特別な飢神のことだ。

 監視対象の甲種は各国に確認されており、その国々の狩士の里――――つまり、香流の里も――――それらを監視下に置いて警戒する役目を負っているのである。


「ですが、あれは…… 渦逆は、


 監視対象も、一律ではない。

 その有する危険度によって、重要度は変わってくる。

 香流の里は数体の対象甲種を引き受けているが、於土居おどい山をねぐらにする甲種・渦逆は、




「あれは、この国でと定められた飢神です!」




 『於土居の渦逆』といえば、地元近隣の狩士の間では、知らぬ者のない飢神だ。

 その力は凄まじい上に厄介で、彼是かれこれ数十年、奴は幾多の狩士と渡り合いながら生き永らえている。

 香流の里では奴の参の殻《角》が放つ異能に対抗するため、近年『崩渦ほうか衆』と名付けられた特別な狩士集団を組織して、その足止めに当たっていた。

 その働きは年追うごとに成果を上げ、最近ではほとんど渦逆を縄張りから出さないようにさせることができていた。

 だが、


「その渦逆が、崩渦衆の守る関を越えた? あれが自由になったということですか? 被害は…… 奴は一体、どこへ行ったんです!?」


 まさか、あの凶暴な甲種が人里に下りたのではと己の想像に身の毛を弥立よだたせ、香流はぐっとこぶしを握った。

 そんな妹の心情を知ってか知らずか、真殿は呑気そうな顔で「どこへって……」と立てた人差し指をくるりと回す。

 そして、



「それは、まぁ…… ここへ?」



 空を回っていた指先が、すとんと二人の足元を指した。



「…………は?」



 兄の仕草に呆ける香流。


 は?

 なんだって?

 意味が分からんのですが、それは。


 と、目の色だけで語って見せる。

 そんな打っても響かない妹の様子に「だから、」と腕を組んだ真殿は、あっけらかんと背後の先を視線で示して言った。


「奴は人里なんて脇目も振らずに、真っ直ぐこの国に向かってきているんだよ。 現状絶賛、最短距離の山中を驀進ばくしん中だ。 俺は奴の動向に異変ありと伝鳥を受けて一度戻ったが、それが治まらずにとうとう塒を飛び出したのを足止めしながらこっちに向かってきてたんだ。 道中崩渦衆に加勢していたが、どうにも抑えきれないと判断して、こっちに散ってる配下をまとめて奴を迎え撃とうと、先んじたってわけ」


 了解?

 剽軽ひょうきんに肩を竦める真殿。

 香流はくらりと眩暈めまいがするようで、たたらを踏んだ。


「なんですって……? 奴がここに来る? 正気で申されていますか? それ」


「おう、正気も正気。 現実だ、香流。 直視しろぉ」


 カラカラ笑う真殿に、香流は血管をぶった切る寸前で何とかこらえた。


「(何を呑気な!)」


 ぐうと唇を噛んで鬱憤を逃すが、当の真殿は悪びれもせずにひらり手を振ると、


「じゃぁ、そういうことでな」


と、軽い身のこなしで木に登りついた。

 それに香流は慌てて「兄様っ」と声を上げる。

 まだ話は終わっていない。

 どこへ行くつもりだと非難の気配を向ければ、真殿は枝の上からいつも通りの笑みで振り返って言った。


「そう気をもむな、香流。 どう足掻いても奴はここに来る。 なんとか里連中で止めてみるが…… どうしようもなくなったら、美弥狩司衆にも伝鳥が飛ぶだろう。 だからそこに関して、いざとなったら婿殿によろしく言っといてくれ」


 あれは厄介な手合いだからな。

 そして、ああ、それと、と思い出したように真殿は香流に指を向けて釘を刺した。


「滅多なことは考えるなよ。 お前には、お前の役目がある。 それを重々承知しとけ」


 分かったな?

 それだけ言って、真殿は木々の向こうに消えていった。

 残された香流は、呆然と立ち竦む。

 冷静になろうとするが――――なにぶん、内容が強烈すぎた。


「(が、美弥に来る)」


 くらくらとした眩暈が止まない。

 里の狩士たちの力を信じていないわけではない。

 兄だって、あの余裕だ。

 少なくとも、渦逆を追っている狩士側に、大きな被害は出ていないのだろう。

 だが、


「(近づいているのか……)」


 あの飢神が、この国に近づいている。

 この国最高峰の危険が、そこに近づいてきている。


 そんな。


 知らず、噛み締めた奥歯が、ぎりっと音を立てた。


 事態の緊迫を思い、兄の消えた方を見つめて、香流は息をひそめて立ち尽くしてた。

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