二十九

 いつの間にか止めていた息を吐いて、銀正は文を書箱しょそうの上に置いた。

 一年以上前。

 右治代の当主として会照寺からこの家に入って、数日経った頃。

 仕事場にと庵の整理をしていた銀正は、戸棚の隠し底からこれを見つけた。

 中にあったのは、前代当主――――つまり、銀正の兄が過去に外部とやり取りした偽造文書の写しと、その紙上でボロが出ない様、綿密に組まれた見せかけの美弥の情報のまとめ。

 そして、この文だった。

 初めてこの文に目を通した時、銀正は全身の力を剥ぎ取られるような無力感を覚えた。

 書き手――――会ったこともない兄の言葉は、銀正が置かれている現状を鋭く明白にして、一片の希望も抱かせなかったからだ。

 明命の監視下に置かれている不自由も、外部と連絡を取れない無力も、周囲に助力を乞うこともできない孤立も。

 万事八方塞がりだという現実を明確に指摘して、銀正を大いにひるませたのだ。


 だから一度、銀正は何もかも諦めようとした。


 それを踏みとどまることができたのは、ひとえに自分を救って死んでいった師に、少しでも恥じない足掻きを見せたいという意地があったからに過ぎない。

 だから銀正はこの一年、ずっと耐えた。

 目の前で、歯を食いしばって耐え続けた。

 おかげで明命たちは銀正への監視を少しずつだが緩め、厳重な警戒に隙ができ始めている。

 その策と並行して、銀正は兄の助言通り、文書の情報操作にも手を尽くした。

 それは言うは容易たやすいが、行うには多分に骨の折れる作業だった。

 決して検閲にかかることなく、それでいて、読みこみさえすれば違和感を覚える程度の情報の齟齬そごを織り交ぜてある文書の作成。

 この一年、慣れない仕事を覚える中で、少しずつ取り組んできたものだった。

 おかげでその策は兄の読み通り、見事に五老格の重い腰を上げさせることに成功した。


「(まさか、それが嫁を取れという通達とは思わなんだが)」


 ふっと、悄然とした笑みが零れる。

 香流との縁談は、銀正にとっても想定外の事態だった。

 一年に及ぶ地道な情報操作によって、美弥に流入する間者は少しずつ増え、ついには五老格が動くまでになった。

 だが、事もあろうに五老格が突き付けてきたのは、推挙する娘と銀正との婚姻。

 これには銀正も慌てた。

 ただでさえ危険なこの国に、外の無関係な娘を巻き込むわけにはいかない。

 しかし、てっきり反故ほごにすることを主張するだろうと予想していた明命側は、なぜかこの話を承諾し、香流はこの国の土を踏むこととなった。

 だから香流を迎えた当初、銀正は彼女をどうにか国に帰そう、話を破談にしようと、頭を悩ませた。


 婚儀を婚約式に差し替えたのも、そのためだ。


 結婚との話で嫁いできた香流自身には無礼なことだったが、銀正はもうこれ以上、この国に関わって傷つく者を出したくはなかったのだ。

 だからわざと香流を遠ざけ、彼女から国元に帰ると言い出させようとした。


「(まぁ、それも、不発に終わったが……)」


 香流は、銀正の想像を超えて力強い娘だった。

 あの人と出会い、あの人と言葉を交わし、あの人の目で射抜かれて。

 銀正はその一瞬一瞬で、己の中の何かが激しく揺さぶられるのを感じていた。

 ただ、巻き込んではいけない。

 近づけてはいけないと、遠ざけるだけの人だったはずなのに。

 あの人はただ只管ひたすら銀正を真っ直ぐに見つめ、決して折れることなく向き合い続けた。

 確かに最初、あの人は銀正にとって期待外れの訪れ人だった。

 だがこの出会いは、長い孤独に心折れかけていた銀正を絶望の淵からすくい上げ、再び前を向く力を与えてくれた。


 あの人だからと、思った。


 出会ったのがあの人であったから、自分は再びこの文を開く覚悟を得たと、銀正は思っていた。


「(あなたは、私にとって幸いであった)」


 閉じたまぶたに、美しい背を見る。

 銀正はその姿に心を預け、決然と目を開いた。

 時が近づいていた。

 この国を破滅に導く時が。

 銀正は懐に入れていたもう一つの文を取り出し、それを開いた。

 それは、今日の昼間に届いたばかりの通達だった。

 美弥守護家当主宛に記されたそれには、五老格直筆の証である朱印が押されていた。




『美弥狩司衆守護家御当主 殿


 この度、数月前に御家とこちらの推挙した娘との間で交わされた婚姻において、約定が正しく遂行されていることを確認するため、狩司衆五老格の名のもとに、使者を貴国に使わせることをここにお知らせする。

 なお、この通告は必ず履行されるものとして、すでに使者は貴国に向かいつつある。

 来たる蓮の月の朔、使者は貴国に至る算段となっている。

 御家にはこれをよく遇し、嫁入りした娘との面会の場を設けることを期待する。


 嘉元国狩司衆 五老格』




 使者が来る。

 ついに待ち望んだ、外からの公的な使者が来るのだ。

 銀正は文面を眺め、ぐっと腹に力を入れた。

 まさに瓢箪ひょうたんから駒。

 いや、五老格側からすれば、これが本来の目的であったのかもしれない。

 婚約によって嫁という手駒を先に放り込み、それを大義名分に本陣が美弥に入る。

 全てが五老格の手の内だとすれば、乾いた笑みが銀正の口の端を干上がらせた。


「(時期も、祭りの直後を狙ったのだろうな)」


 夏の大祭後は、事後処理やその他雑務で、美弥にも余裕がない。

 後始末の忙しさに殺されている時を狙って、無理を通すつもりなのだろう。

 それに、祭りが過ぎれば美弥に公的な大事はしばらくない。

 行事などを理由に美弥側がのらりくらりと要求をかわせないようにという狙いもあるはず。

 つくづく老獪ろうかいな方々だと、銀正は疲れた様子で目を細めた。


「(朔か…… あと二日。 使者はすぐそこまで来ている)」


 提示された予定を確認して、琥珀の目は色を濃くした。

 事を急がねばならない。

 これが、自分と美弥に残された最後の機会。

 これを逃せば、美弥の闇はより深まってゆくだろう。

 なんとしても、この機を逃すわけにはいかなかった。


「(香流殿)」


 胸の内に名を呼び、余韻に息を吐く。


 あの人と共にあるのも、だ。


 それは最早予感ではなく、策を動かすことを決意した銀正の決定だった。


「(申し訳ない、香流殿。 この国の、私の身勝手のために、あなたをずっと政治の駒にしてしまった。 あなたは私に真摯な目をくれたのに、私は何も返せぬまま、)」


 例えそれしか美弥を救う道がないのだとしても、香流という大切な人を巻き込むことを、銀正は直前まで迷った。

 しかし、一呼吸の内に決意を確固たるものとすると、銀正は額に当てた拳に目をつむって腹を決める。


「恨んでくれ、香流殿」


 どうか私を愚者とそしり、全てを過去として忘れ、あなたは先を生きてくれ。

 あなたさえ無事であるのなら、私はもう何も望むことはないのだから。


「(あなたにすべてを託す)」


 香流を巻き込む。

 そして一番重要な役目を彼女に託す。

 それが、銀正の決めた道だった。

 美弥に破滅を呼ぶ道だった。







「当主様」


 不意に呼ばれ、顔を上げる。

 見れば障子の影に苑枝が控え、頭を下げていた。


「苑枝か」


 どうしたと促せば、筆頭女中は面を上げ、伝鳥ですと知らせを上げた。


「城から、本日届いた外からの連絡について報告をするよう、いつも通りお達しがありました。 明日、昼以降とのご指定です」


「承知した。 了承の返信をいつも通り頼む。 ――――それと、苑枝」


 銀正は一瞬ためて苑枝を呼び止め、確かめるように頼みごとをした。


「以前から頼んでいたものだが、私が報を送ったら、すぐに対応してくれ」


「存じております」


 苑枝は淀みなく頷き、すでに準備はできていると如才なく答えた。

 それに銀正はほっと息を吐き、憂いを払う。

 これで、幾分安心して策を進めることができる。

 打てる手は打ったと、銀正は眉間に力を入れた。



 苑枝は当主の様子に用は終わっただろうと腰を上げかけた。

 その動きに一拍遅れて気づいた銀正は、「そうだ」と慌てた声を投げかけた。


「すまん、苑枝。 忘れぬうちにもう一つ頼みたいのだが、」


「はい、なんでございましょう?」


 落ち着いた様子で受けた苑枝に、あーだとか、うーだとか小さな唸りを零したあと、銀正は恥じらい気味に視線を泳がせて言った。


「明日中に…… 小間物屋を呼んでほしいんだ」


「小間物屋ですか? 何をお求めに?」


 不思議そうに聞き返す苑枝。

 それもそのはず。

 この家に来てからの銀正は、仏門での生活が長かったためか、自発的に何かを買い求めることなどほとんど皆無であったからだ。

 そもそもが商人を家に呼ぶこと自体抵抗があるらしく、身の回りの品を揃えることは、苑枝が全てを一手に引き受けていた。

 そんな控えめな主人が寄越した頼みに青天の霹靂だと苑枝は目を見開き、首を傾げた。


「何か買い揃えに不備がありましたでしょうか? ならば、」


 申し訳ありませんと苑枝が頭を下げようとしたところで、銀正が弾かれたようにそれを押しとどめた。


「いや、違う。 其方そのほうの仕事に不満はない。 ――――ただ、少し」


 言葉をためて、


「髪紐を、買いたいんだ」


 蚊の鳴くような声で、銀正は呟いた。


「髪紐ですか?」


 そんなもの、いくらでもお持ちでしょう。

 長髪を括っている銀正には、使いきれないほどの上等な紐を用意してある。(それを銀正は不満に思っている)

 その全てを用意した当人である苑枝がいぶかしんでいるのを察して、銀正は「いや、私のではない」と首を振った。


「では一体、」


 苑枝は言いかけ、そして次の瞬間、はっと閃いたように口を手で覆った。

 そういえばと、苑枝の記憶が巻き戻る。





 そういえば今朝、常に結んでいた髪を下ろして帰ってきた娘を一人、苑枝は知っている。





「もしや、香流様」


 ぎくう。


 分かりやすく銀正が身じろぎすると、沈黙が落ちた。

 ぶわっと白いうなじが汗を吹く。

 琥珀の目は、気まずげに揺れて、銀正の動揺を如実に表した。

 そして、




 だんっ!


「!?」




 急に床を踏み鳴らして立ち上がった苑枝に、銀正はけ反った。

 廊下に仁王立ちになった苑枝は、きりりと引き締めた顔をどことなく喜色に染め、傲然と言い放った。



「髪紐などとしおらしいことを申してないで、坊ちゃま、」


くしを買いなさい」



 放り投げられた指示を飲み込むのにやっとを要し。

 ようやく理解が追いついた銀正は、すくみ上がってふるふると首を横に振った。


「だ、だめだ」


 弱い拒否に、苑枝のまなじりがきりりと吊り上がる。

 燃える火炎がその背後に見えた気がして、銀正は再び仰け反った。


「何が駄目なもんですか! あなた方はいずれ夫婦になるのですよ! 早め早め手を打っておいて、損はありません! 櫛です、櫛をお渡しになるのです!」


「……い、いや、駄目だ」


「坊ちゃまっ」


 不動明神もくやとばかりに迫ってくる苑枝に抵抗して、銀正は頑なに首を振り続ける。


 


 だから、別れを惜しむ心を、せめても渡しておきたかっただけだった。

 だから、未練にならないようなつまらないものを渡すつもりだった。

 いずれ自分たちの縁のように切れてしまう、紐をと。

 それが櫛となっては、本末転倒だ。

 


 など。



「駄目だと言ったらだめだッ」


「坊ちゃま!」



 精一杯の抵抗で首を振り続ける銀正に、ついに部屋に上がりこんできた苑枝が迫る。

 絶対にダメだと叫ぶ声と、往生なさいと叱る声が、夜の静寂しじまに響く。

 押し合いへし合いの問答は、夜が更けても続いたのだった。

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