二十二

 きちり、と喉元につきつけられた刃に、銀正は苦しげに笑った。


「私を脅して、聞き出すおつもりか」


 その眼差しが、どこか諦めや安堵の色を浮かべていて、香流は息を潜める。


「(脅されている人間のする表情ではありませんよ、御当主)」


 まるで救いを見るような目をするのだなと、香流は白刃に映りこむ顔へ目を落とした。

 そして、ゆっくりと首を振る。


「聞かないと、申しましたよ、私は。 しかし、まぁ、ただ暴くためなら、それでもいいでしょう。 どうです? お話になりますか?」


 冷えた声で問えば、銀正は再び苦渋に耐える様子で「駄目だ」と答えた。


「(命に引き替えても言わない、言えない何か、ということか)」


 これは中々大事があるらしいなと、香流は冷静に検分する。

 そして、ここまでくれば致し方あるまいと、策の本命に手をかけた。


「ならば、一つだけはっきりとさせていただく」


 香流は銀正に向けていた刀を引き、すっと居ずまいを正した。

 強い意志を目に宿し、夜気を震わせる声を腹から発する。



 

「御当主。 今から私は、あなたの芯を問う。 あなたの信念を、確かめさせていただく」



「そのために、私もを差し出させていただこう」




 そう言うと、香流は左腕を目前に突き出し、袖から素肌をさらけ出した。




「あなたの最も尊いものを秤にかけるのだ。 私が何も賭けぬは、卑怯」




 言葉と共に、握りしめていた刀の刃を、左腕に立てる。

 銀正は、それに驚愕して目を見開いた。


「香流殿!?」


 泡を喰って駆け寄って来ようとする銀正を、香流は鋭い目で押しとどめた。

 あまりの鬼気に、銀正は気圧されて立ち竦む。

 相手が動きを止めたのを確認すると、香流は「これ以降、」と静かに口火を切った。



「あなたが嘘偽りを言えば、この腕」


「――――切る」



 白く柔い肌に沈み込む凶刃。

 銀正は愕然と舌先を震わせて、何とか言葉を絞り出そうとした。


「無茶を、言わないでくれ」


「覚悟もない申し出とお思いか」


 言うが早いか、香流は手の甲を刃先で切り裂いた。

 傷口から鮮血が飛び散り、砂利にしたたる。

 銀正が声のない悲鳴をあげた。


「やめっ」


 再び駆け寄ってきそうになるのを、ぱっくりと肉の割れた手を向けて遮る。

 とうとう銀正は顔色をなくして、言葉すら失った。

 それでも香流は覚悟を決めた顔で、もう一度腕に刀を当てて眼差しを鋭くする。


「御当主、私をあざむきたいのなら、そうなさればよろしい。 別にあなた御自身が害されるわけでもないのです」


「しょ、正気で申されているのか!? 私があなたが傷つくことを黙って見過ごすとお思いか!」


 いいえ。

 あなたはきっと苦しむ。

 そういう方だろうと、香流は見立てている。

 だからこの腕をかける意味があるのだと、胸の内に答えた。

 銀正はしばらく硬直していたかと思うと、「なぜ、そこまでする」と声を絞り出した。


「あなたへの疑いを晴らしたいがために」


 直截に答えれば、銀正はなぜか、泣きだしそうに顔を歪めた。

 その顔が途方に暮れる子供のようで、香流は一瞬覚悟を揺らがせる。

 だが、本懐を見失うなと己を叱咤して、鋭利な眼差しを保って続けた。


「一応、聞いておきます。 ここに至ってもあなたは、昼の騒動についても、城へ行くなという理由も、決して口にする気はないのですね?」


 銀正は答えない。

 ただ、表情だけは雄弁に、『答えることも、香流の腕を見捨てることもできない』と、板挟みの苦しみを如実に表していた。

 銀正は、香流の身が傷つくことを恐れてくれている。

 しかし、それと同じだけ、香流が自分の持つ秘密に関わることを恐れているのだ。

 銀正は、『巻き込みたくないのだ』と言っていた。

 もしもその胸の内に隠した秘密が、のだとしたら、



「(私がこの人の秘密を知ることは、、腕を失うと同程度の危うさがあるのか)」



 どれほどのものが、この人の向こうにあるのだろうと、香流は静かに思う。

 そして、この人はそれを隠すために、どれほどの思いをしているのだろうと、思った。




「……分かりました。 もう、あなたの秘密のことは、今後一切触れない」


 だから、その代わり、


「その代わり、本命を問わせていただく」




 秘めている何かを知られることを、あなたがそれほど恐れるなら、もう問わない。

 けれど、あなたの芯が美しいかどうかだけは…… それだけは知りたい。

 だから、聞こう。

 何を守るために、あなたは生きているのか。

 あなたの信念を問おう。




「今から、あなたの最も尊いところに触れさせていただく。 そのために私は、」


「この腕かけて問う」


「右治代忠守殿」


「あなたの刀は、この切っ先は、なにを切るためにある」




 人々を守るべき、狩士たるあなたの刀、何のために振るう。

 あなたが隠し事を言えないのなら、




「あなたが守るものは、なんだ」




 そうしなければならないと思わせた、あなたの芯を問おう。

 一体何のために、口を閉ざすのか。


 どうか、




「お聞かせ召されい、白主銀正殿!」





 乾坤一擲。

 挑みかかる声に、瞬間、銀正は意識を覚醒させて叫んだ。





「私が守るのは、この美弥だ!」





 曇りのない目が。

 苦しみと迷いを振り払ったような目が、全霊で香流を見て返す。


「この国に生きる、全ての人だ!」


 取り繕う余裕もない衝動が、銀正の全身を震わせている。


「もう、何も失わないために、私は、」


 守るために、私は。


「私は、今日まで生きてきた……っ」





 遠く、祭りの喧騒にまぎれ、空高く舞い上がる笛の音が響き渡る。

 こみ上がった激情に濡れた目が、香流を捉える。

 惜しげもなく差し出された腕を見て、銀正は澄み渡った想いを叫んだ。



「だから! あなただって、損ないたくないんだ! だからっ…… だから、こんなことはもうやめてくれ……ッ」



 どんっと、腹の底を震わせるような音と共に、花火が夜空を彩る。

 その光に照らされて、秀麗な面差しが闇に浮かび上がった。

 香流の胸の奥にある鏡面が、その姿を映し出す。

 決して偽りのない芯の姿が、浮かび上がる。

 曇りのない眼差しが、駆け抜ける。



 浅く息をついた香流。

 裁定は下ったと、伸ばした腕をゆっくり下した。



「……偽りはないと、お見受けした」



 構えを解き、つかを逆手に握りなおす。

 そして何かを詫びるような色を乗せて、そっと微笑んだ。



「ありがとうございます、御当主。 これで私は、あなたを心曇らせることなく見ることができる」



 疑いを払いのけ、晴れた心眼で信を置くに足る人物かを、再び見定めることができる。


 香流がそういった途端だった。


 硬直が解けたらしき銀正は素早く駆け出すと、その勢いのまま、香流に手を伸ばしてきた。



「!」



 腕は香流の肩を掴み、強い力で引き寄せようとする。

 突然のことに対処できなかった香流の体は、そのまま銀正の方へ倒れこんだ。

 ああ、なんだか先ほどと似ているな。

 そんなことをぼんやり思って、しかし二人の体は触れ合うことなく、ぶつかり合う直前で動きを止めた。

 銀正は香流の肩を掴んだまま一瞬硬直すると、ゆっくりその額を香流の肩に落とした。



「……すまない」



 震える声に、痛みを覚えた。



「……なぜ、あなたが謝るのです。 無理に言わせようとした私が、今のは圧倒的に悪いですよ」



 食いしばった歯の間から絞り出された謝罪に、香流は静かに否と答えた。

 それでも銀正は納得せず、肩を震わせて言葉を零した。



「あなたは、私の潔白を確かめようとしただけだ。 私を疑ったまま、切り捨てることだってできたはずだ。 それなのに、腕一本をかけてまで私に向き合ってくださった。 私のことを、誠実に見ようとしてくださった」


「違う、あなたは私を責めるべきです。 本来、このように問答を行うは、相手の心を踏みにじる行い」


 きっと傷つけると分かっていながら、香流は自分を人質に問いを迫った。

 例えそれが銀正の潔白を証明するためだとしても、銀正は自分を許してはいけないと、香流は思う。

 しかし、銀正は顔を伏せたまま、痛そうに笑ったようだった。



「それを分かって行われたのなら、あなたは酷い悪人だ」


「だが、悪を演じてその非を負う覚悟で私に向き合ったくださったあなたを、私は責められない」



 こんな風に真っ直ぐに向き合われて、背を向け続けることはできない。



「あなたは私を買いかぶりすぎです、御当主」



 苦笑を夜風に乗せて、香流は腕を上げる。

 肩口の頭を撫でようとして、その手が汚れていることに思い至った香流は、ふと迷った後に、片頬を柔らかな銀髪に擦り寄せた。

 そしてそこにある左耳に、そっと目を伏せて囁きを吹き込む。



「あなたの真、聞けて良かった」


 もう一度、あなたを真っ直ぐに見ることができて、嬉しい。

 だって、


「あなたのような人を、疑うのは悲しい」



 柔らかな髪を肌に感じながら、香流は夜空に咲く花火を見上げる。

 星が、瞬いている。

 月も、今宵は仄明く漆黒に浮いていた。

 美しい…… とても美しい夜景だった。

「綺麗ですよ、御当主」

 そう呼びかけようとして、香流は視線を戻した。

 しかし、


「…………」


 呼びかけようとした当の相手が何やら硬直している様子なのに気が付いて、キョトンと瞬きをする。

 心なしか花火に照らされた白い耳も赤く染まっているような気がするし、爆音に紛れて唸っている様な声も聞こえる。


「御当主?」


 どうかしましたか。

 そう声をかけようとして、急に跳ね起きた頭に、ぎょっと香流は目を見開いた。



「あ、……なたはっ」



 勢いよく顔を背けた銀正が、花火に負けない声で叫ぶ。

 その剣幕に押されて、香流はひゆと口をつぐんだ。

 けれどそれきり言葉は続かず、銀正ははくはくと口を動かしたあと、悩ましい表情を浮かべた顔を、がくっと俯けてしまった。

 突然の奇行に訳が分からない香流は、「……御当主?」ともう一度呼びかけようとする。

 しかし、


「やはり、あなたは悪い人だ」


と、銀正が恨めしげに言ったのを聞いて、ぽかんと思考を止めた。


「……申し訳、ありません?」


 とりあえず責められているらしいことは察したので、謝罪してみる。

 だが銀正は「……本当に、始末の悪い人だ」と重ねて言って、項垂うなだれてしまった。

 これはどうやら、大分怒らせたらしい。

 銀正の態度を怒りだと受け取った香流は、おろおろ視線をさ迷わせる。

 その様子を恨めしげに琥珀の目が見て、銀正ははぁと息をついた。

 そして香流が握っている刀を受け取ると、だらだら血の流れている左手をぎょっと確かめ、急いで懐から手ぬぐいを取りだした。

 細いが武骨な手が、丁寧に香流の手を取って、傷口を塞いでいく。



「……どうか、もう、私のために御身を損なうようなことは、しないでくれ」



 布の端を結び終えると、銀正はぽつりと呟いた。

 香流はそれに皮肉気な笑みを返し、小首を傾げる。



「ではあなた様も、御自分を大切になさってくださいね」



 刀を向けたとき、自分が傷つくのはよしとしたでしょう。

 にっこりと返せば、きまり悪げな目が逃げる。

 自覚はあるらしいので、遠慮なく追い打つことにした。



「そうやってご自身を大切になさらないうちは、私も身勝手をしない保証はできかねます。 どうぞ私のためを思うと言うのなら、御自身ばかりを犠牲にしない生き方というものを、少しでも考えてくださいね」



 あなたは、自分のことには大分ぞんざいなようだから。


 舞い上がる笛の音と共に、花火が散る。

 照らし出された白面の顔が、途方に暮れたように香流を見ている。

 それを仕方ない思いで笑い、香流は銀正を視線で祭りに誘った。

 まだ祝いは昇りだしだが、もう時間も遅い。

 帰るべき時が迫っていた。





 *





 仕事もあるだろうに、どうしても送ってゆくと言う銀正に伴われ、香流は右治代家へと帰路についた。

 祭りを共に流し見、喧騒を潜り抜け、静まり返った大屋敷の区画までたどり着いた頃。

 歩きながら冴える月を見上げていた香流に、不意に歩みを止めた銀正は言った。


「……なぜ、あなたは、私を信じようとなさってくださったのか」


 背後になった銀正を振り返り、香流はじっとその目を見返す。



「なぜ、疑いに走り、私を糾弾しなかった」


「なぜ、あのような賭けに出られた」


「私が、あなたが傷つくことに重きを置かないとは思われなかったのか」



 俯きがちの顔は、あの美しい琥珀の目を隠してしまう。

 戸惑いか、苦悩か。

 あの目はそんな色を宿しているのだろうと思いながら、香流はふっと笑った。


「……また、随分多くをお聞きになりたいのですね」


 私の問いには、頑なであらせられたのに。

 苦笑と共に返せば、ばつの悪そうな表情が、そっと顔を背ける。


揶揄からかわれるな…… 私だって、あなたを知りたい」


 あなたという人を知りたい。

 素朴で、裏のない声が、ぽそぽそと言葉を落とす。

 香流はその心地よさに一時耳を寄せて、まぶたを閉じた。


「土産をお願いするまでもなかったですね」


 言った瞬間、銀正はぎくりと肩を揺らす。

 おや、と思うと同時。

 慌てふためいた銀正は白い手で顔を覆い、頭を抱えた。


「……すまない、すっかり忘れていた」


 何を、と聞こうとして、香流は「ああ、」と見当つける。


「買うのを忘れてらしたのですか」


 土産。

 直截に聞けば、項垂れた頭がこくりと動く。

 その様があんまりいじらしくて、香流はくすくすと笑いを零した。


「いいのですよ。 気になさらないで下さい。 本来、物はさして意味がなく、あなた様がどれほど私に思いを巡らせてくださるのかを見てみたかっただけなのです」


 土産を選ぶとき、どれほど相手のことを考えてくれるのか。

 その間だけでも、銀正が自分のことに思いを巡らせてくれればいいと、思ったが故の願いだった。

 狙いは不発だったが、結果的に、銀正は香流に興味を持ってくれるようになった。


「あなたの興味を、私は引けたようだ」


 それは重畳ちょうじょう

 月明かりを背に満足げに笑えば、束の間呆けていた銀正は、何かを恥じるように口元を隠してうつむく。


「……あの剣幕で差し向われて、意識を取られるなと言うほうが無理な話だ」


 小さく呟かれた声に、香流は淡く微笑む。

 そして、「なぜ、信じようとしたか、でしたね」と、言葉を返した。


「私たちが出会ってからの短い期間ではありますが、その間に私はあなた様と相対して、あなた様が心汚れ切ったお人だとは思えなかった」


 たった、それだけ。

 それだけのことだが、香流にとってはそれがすべてだ。

 とても単純な話だが、それでは納得してもらえまいかと、香流は視線を流す。

 香流の答えに、銀正は難しい顔をして言葉を継いだ。


「あのような賭けに出られたのは、」


「私にも、理性はあります。 感性があなたを疑わずとも、理性を納得させるけじめが必要だった」


 この人は、芯まで汚れ切ってはいないと納得させるものが欲しかった。


「切る覚悟はありました」


 それが、命に直結する致命傷だと知っていても。


「ですが、切ることになるだろうとは、思いませんでした」


 月影が、雲に遮られる。

 落ちた暗がりに、銀正は身じろいだ。


「どうして、そこまで、」


 続かなかった言葉を、香流は正確に察した。


「どうあっても、私があなたに寄せるものを疑いたいご様子」


 しょうのない方だな。

 闇の先にある戸惑いに目を細め、香流は小さく俯く。

 その様子をどう取ったか、銀正は慌てた様子で口を開こうとした。

 しかしそれに先んじて、香流はさっと首を横に振る。


「そう慌てられますな、御当主。 不快に思っているわけではありませんよ。 訝しむ思いも、理解できる。 あなた様は、大変自己評価が低い方のようですし」


 私たちの間に積み重ねたものが多くはないのも、また事実。


「では、分かりやすい理由を差し上げましょうか」


 雲が流れる。

 再び顔を出した月に、香流の姿が照らし出された。

 その口元が紡ぎだす言葉に、



「『何があっても、飢神から目を離すな。 確実に狩り取るまで目を背けるな』」



 ――――銀正は立ち竦んだ。


 その言葉が記憶の底から引き寄せる人物を思い、男は息を忘れる。

 そしてそれは香流にとっても同じことで、瞼の裏に浮かぶ懐かしい姿に、胸がきしんでいた。



「懐かしい言葉です。 まさかこの言葉を、聞くことになろうとは思いませんでした」


「さ、と?」


「ええ。 《あの方》は私の里の、先達でした」


 琥珀の目が、驚愕に見開かれる。

 月明かりを照り返す色が女を映し出し、その自分がひどく嬉しげに笑っているのを、香流はしかと見据えていた。


「私は自分で判じたものだけを信じます」


 決然とした声が、そう断じる。


「ですが、《あの方》が選んだ人だと思えば、あなた様を信ずるに足る人だろうと思いたくなったのも、また事実です」


 この国であの方の言葉を知る、

 となれば、あなたこそが、この国で《あの方》が唯一見出した弟子。

 《あの方》が、狩士たる資格があると選んだ人。


「私は、ずっと、あなたに会いたかった」


 愕然と月光を浴びて硬直する銀の男に、香流は手を伸ばす。

 傷を負って手当された手を、いざなうように真っ直ぐ差し出す。

 もしも、土産を忘れたことを悔いてくださるのなら。

 その代わりにと、寂しい笑みで一つの望みを差し渡した。



「どうか、私を連れて行ってはくださいませんか? 《あの方》が――――が最後に過ごした、会照寺という寺まで」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る