二十一

 遠く、祭り囃子が聞こえる。

 追い出された料亭の前で立ち尽くす香流の横を、手を取り合う仲睦まじげな親子が通り過ぎていく。

 きっと祭りに向かうのであろうその背中を見送って、香流は歩き出した。

 宵の闇を歩いて、歩いて、歩き続けて。

 そしていつしか行きついた城下の端で、滔々と流れる川縁に佇み、その流れをぼんやりと見つめていた。



「(結局、怒りを買っただけだったか)」



 頬を滴る血をそのままに、香流は夜闇に揺らめく水面に目を落とす。

 目を閉じれば、烈火のごとく怒り狂った弓鶴がいた。

 その目が決して香流が踏み込むことを許さなかった様を、寂寥と共に思いだす。



「(結局、あの人の苦しみを、掻き立てただけだった)」



 知りたいと、ただ願った。

 それが、あの人をさらに苦しめた。

 ただ知りたかっただけだった。

 近づくことで、互いが苦しむかもしれないとしても、その覚悟もできていた。

 しかし、それを望まない弓鶴に強いることは、香流の傲慢だっただろうか。



『この傷は、あの方以外に癒せはせぬ!』



 叫びと共に、弓鶴は誰かを見ていた。

 それが誰なのかは香流には分からなかったが、きっとその人だけが弓鶴の氷を解かし、炎を消し去ることができるのだと思った。



「(弓鶴様には、。 私では代わりになど、なれなかったのだ)」



 弓鶴には、触れてほしい誰かがいた。

 だから、香流ははじき出されてしまった。

 本心を見せてはもらえなかった。



「(……あの人は、どうだろうか)」



 瞼の裏、銀の髪が揺れる。

 その髪先が遠のいていく。

 弓鶴には銀正の心は自分で確かめると啖呵を切ったが、果たしてあの人は香流にすべてを語ってくれるだろうか。

 弓鶴が言うように、本当に昼の騒動に関わりがあるのか。

 あるなら、それは何故なのか。

 あの時、なぜ『来るなと言ったのに』と悲しげな顔をしたのか。

 向き合えば、教えてくれるのだろうか。


 銀正を知りたいと、信を置くに足ると確かめたいと願うのは、香流の勝手でしかない。

 果たして、今の自分に銀正の秘め事を問う資格があるのか。



「(すべては私の勝手でしか、ないものな……)」



 何も知らぬふりをすればいいのだろうか。

 知る事を望まれぬなら、身の程をわきまえて、遠のく背を見送れば。

 そんなこと。



「できるのか、私に?」



 呟きと共に、失笑が漏れる。

 できるはずもない。

 一度あの人の孤独を見た自分に、そんなこと。

 


「できませんよ、御当主」



 今更、あなたの孤独を知って、それを見て見ぬふりなど、できるわけがない。



「どうすればいい」



 握った拳を額に当て、香流は思考する。

 多くを抱え込み、何も語らない背に、自分はどう語りかければいい。



「どうすれば、あなたへの疑心を晴らせる」



 不意に、旅立ちの日の母の顔が思い浮かぶ。

 香流と、呼ぶ声が耳を打つ。



『決して、心を折ってはなりません』



 心、と問い返した香流に、母は頷いた。



『心が折れれば、己の芯も折れてしまう。 それは、自分の心を卑屈や疑心といった弱さに明け渡してしまうと同義。 そうなっては心が曇り、物事をはっきりと見定められなくなってしまう』



 まさに今だと思った。

 今香流は、銀正に真を問う資格があるのかと自らを卑屈に眺め、あの人を信じてもいいのかと疑心に惑おうとしている。

 人の隠し事を暴き立てて、全てを見てからでないと信じられないと、弱さに囚われている。

 心が、曇りかけている。

 これでは、今の香流では、きっと、



「(何者をも見定められない)」



 頬の血を拭う。

 ゆっくりと見開いた先に、母が厳しい目で香流を見ている。

 毅然とした口元が、香流の迷いを払う。



『香流、どんな時も、心は美しく磨いておきなさい。 そして、見定めるのです。 自分の生涯の伴侶となる者を。 その芯の美しさを』



「(……そうだ、何を迷う。 私は、あの人が悪徳の上に人をたばかれるような人だとは、思っていない。 あの人は多くを抱え込むほどに不器用で、小さな嘘一つにしどろもどろになるような人だ。 私が勤めに身を置くことも案じてくれたし、昼間、いの一番に駆けつけてくれたのも、あの人だ)」



 香流に祭りに来るなと言った時も、なぜ来たのかと言った時も、あの人の顔は苦しげだった。

 その感情が何によるものかまでは分からないが、心が汚れ切った者があのような苦悩に耐える顔をするだろうか。



「(仮にあの人が後ろ暗いことに手を染めていたとしても、その心までもが曇り切っているとは、私には到底思えない)」



 確かに、全ては香流の憶測だ。

 銀正を疑いきれないがための、一方的な見方でしかない。

 だから、と一つ。

 香流は策を立てることにした。

 銀正への信頼の度合いが負へ傾きかけたものを、全くの水平へ戻すための策だ。



「(弓鶴様が投げ込まれた揺さぶりのために、私は平衡を欠きそうになっている。 だが、私はあなたを疑いたくない。 何も言わないあなたにも非はある。 一つ、付き合っていただきますよ)」


 

 そう、腹を決めた時だ。

 不意に上がった河原の砂利が踏みしめられる音と、背後から近づいてくる気配に、香流は思考から浮かび上がった。

 何かが自分に迫っていると思い至り、振り向いたと同時。

 強い力が、腕を取る。


「!?」


 荒らいだ息づかいが、頬を通り抜ける。

 とられた腕を引き寄せられ、香流はたたらを踏んで振り向いた。

 仄かな町灯りを背に、その人は琥珀の目を苦しげにして、香流を見つめていた。


「御、当主」


 銀正が、頬を上気させ、肩で息をしながら、そこにいた。

 茫然と見つめ返せば、銀正はぐっと唾を飲んで、熱い息とともに「探した」と呟いた。


「探した、とは…… まだ、祭りの後始末があったのでしょう」


 狩司衆は、夜まで仕事が詰まっていたはずであるし、頭目である銀正も、その中で役目があったはずだ。

 なのに、どうしてここにいる。

 戸惑う香流に、銀正は焦燥した様子で「必要な役目だけ終えて出てきたんだ」と言った。


「あなたが懇意にしている侍女に、あなたが母に呼び出されたと聞いた」


「ぁ、」


 誤魔化すなんて器用なこともできず、香流は口ごもった。

 それに琥珀の目が歪む。

 真だったようだなと苦々しい声が言って、手を離された。


「何か、言われたか?」


「……いえ、」


「嘘だな。 言ってくれ、私はあなたを母の道楽から守る責務がある」


 その言葉に、香流は目元を震わせる。

 なぜと、思った。

 何も言わないあなたが、人には言うことを求めるのかと、反発が鎌首をもたげるのを感じた。

 だがそれも一瞬で、香流はその衝動を、一呼吸の内に飼いならした。


「(言って欲しいと相手に願わずにはいられないのは、私も、この人も変わらないのだな)」


 人は、相手を知らなければ、判断できない。

 それは、己も銀正も同じで、どうしようもないことなのだと、香流は寂しく笑った。

 それなら、自身を差し置いて問うてくるこの人に無闇に怒ることも、聞きたいのだと身勝手を思う己を卑下することもすまい。

 私たちはきっと同じだけ身勝手に、互いを見ている。


「(私たちは、同じだけ、きっと未熟なのだ)」


 ならば、なにを臆する。

 未熟であるなら、傷つけることも、傷つけられることも、ありうること。

 いや、そうしあわなければ、人は先へは進めないのだ。


「(私は、傷つけることを恐れた。 よりうまくやらねばと、心急かした。 だが、それは人を傷つけたくないと思うが故の保身だ)」


 傷つく覚悟も、傷をつける覚悟もあるかと、香流は己に聞いた。

 心はその鏡面を晴らし、そこに、白銀の髪が揺れるのを映した。

 香流の無知を許し、一人で抱え込もうとする背中を映した。


「(私は、あなたが心許すには、まだ足らぬ存在やもしれぬ。 だが、全てを諦める前に一つだけ、試させてほしい)」


 決然と上げた視線の先に、香流は銀正を見る。

 目が合ったと同時、銀正は痛ましそうに顔を歪めた。


「その、傷……」


 香流が弓鶴につけられた傷に気づき、息を潜める。

 母かと疑う目に、香流は乾いてしまった傷に触れて、そっと笑った。


「私が無神経にお心を乱し、お怒りを買っただけです」


 銀正は何事かを堪えるように、「何があった……?」と香流に聞いた。


「特段、何も。 ただ、人を惑わす薬で遊ばれただけですよ」


 それを言った途端だった。




「アレを嗅いだのか!?」




 銀正は血相を変えて香流の肩を掴んだ。

 その様があまりにも異様で、香流は内心洞察を鋭くする。


 かもしれない。


 香流は話題を泳がせることにした。


「御当主も、その異国の技を御存じで?」


 素知らぬ顔で問えば、銀正はさっと熱を引く。


「母から、何か聞いたか?」


「多くを聞いたわけではありませんが、渡来の技を修めた法師殿がいらっしゃると。 弓鶴様はその方と懇意なのだと聞きました」


 その方が、私に会いたいとおっしゃっている、とも言い添えれば、一気に銀正は顔色をなくした。


「明命が、あなたに?」


「ああ、明命様と、仰っていましたね」


 肯定は、銀正のようだった。


「……駄目だ」


 形のいい唇が、白く震える。


「駄目だ、頼む、約束してくれ。 例え母や国主様の命だとしても、城にだけは近づかないでくれ!」



 


 香流は、眼光鋭く遠くを見た。

 視線の先には、錦はためく、この国の中枢。

 身内の間者が、異常だと言ったこの国の中心。

 召し上げられた真人が帰らぬ場所。

 銀正が香流の近づくことを強く禁じる場所。


「(この人が隠そうとする、おそらくあそこか)」


 香流は眉一つ動かさぬ面差しで銀正へと顔を戻す。


「御当主」


 香流は慎重に銀正を呼んだ。

 両肩を掴む手が、ぎくりと揺れる。

 すぐ目の前に上がってきた琥珀の目を捉え、香流は静かにことを始めた。


「なぜ、私を城に寄せたくないのですか」


 銀正の目の奥に、動揺が走る。

 正しく、越えられたくない線を踏んでいるのだと知らせるように揺らぎだす。


「今日も、なぜ、家を出るなと仰られたのです」


「それは、」


「あの昼の騒動。 と、弓鶴様には言われました」


「っ!」


「あなたは、あの騒動が起こることを知っていらしたのか」



 あの騒動は、裏があるような、出来事だったのか?

 だから、



「だから、私に家から出るなと言ったのですか」



 あれはのだと、あなたは知っていたがために。



 香流の追及に、銀正はゆっくりと身を引く。

 近づかせないように、遠のこうとする。


「……頼む、それ以上を口にしないでくれ」


「暴かれれば、困る何かをお持ちですか」


「頼む、頼む……っ もう言わないでくれ。 あなたを巻き込みたくないんだ!」


 銀正の叫びに、香流は目を細めた。

 

 ではなくて?

 後ろめたい何かを暴かれることを恐れるのではなく、


「巻き込みたくないとは、何にですか?」


 慎重に問えば、銀の髪が闇夜に揺れる。


「だめだ、言えない。 言わせないでくれ」


「……あなたは何も言ってくださらない。 言ってくださらないのなら、私はあなたを疑わなければならない」




「町を巻き込み、多くの人を危機に晒した騒動に係わる者として、あなたを疑わねばならなくなる」




 それでも言わないのかと、非難ではなく、最後の確認のために聞く。


「頼む、」


 銀正は、口を閉ざすことを選んだ。

 香流はそっと目を閉じる。

 これで、取るべき道は決まった。


「分かりました、もう聞きません」


 潮引くように言葉を収めた香流に、銀正が戸惑うような顔をする。

 聞くなというから聞かないと言ったのに。

 それはそれで、この人も戸惑うのだと思えば、少しだけ可笑しかった。

 聞くなという主張が、疑われても仕方がないものだと自覚のある証拠だ。

 だから、今から巻き起こす身勝手に、希望をかけることができる。

 香流はふわりと一つ微笑んで、銀正に言った。


「ですが、ただ一つだけ。 私はあなたを試させていただきます」


 え、と秀麗な顔が疑問を形作る前に、香流は身を躍らせていた。

 香流の肩を掴んでいるせいで無防備な銀正の胸に、体ごと飛び込んでいく。

 視界の端に銀正が仰天する様が見えたような気がしたが、すべてを遮断して、事を起こした。


「香流殿!?」


 泡を喰った銀正が、体を引きはがそうとする。

 それに身を委ねるがまま、香流はさっと体を翻した。

 



 その手に、




「!!?」


 琥珀の目が驚愕して、香流の姿を追う。

 刀を奪い去った香流は、河原の砂利の上に仁王立ち、すっとその切っ先を銀正に向けた。


「あなたは、何かを隠している。 私はあなたへの疑いを晴らしたいがために、それを聞きたい」


「だがあなたは言うつもりがないし、私だって引くつもりがない」


「このままでは我らは決して交じり合わぬ」


「先へ進めぬまま、互いの距離だけが開いていく」


「それだけは、私は避けたい」



 だから、この策を、香流は取る。

 月下に光を含んだ白刃が、驚愕する銀正をその身に閉じ込める。

 香流はその写し身を眺め、湖面のような目で、真っ直ぐに銀正を貫いた。

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