幕間

「暴れ姫!」


 遠くから自分のを呼ばれ、十を少し越したばかりの香流は振り返った。

 見れば、山の社へ上がる階段横の木の上に、里の悪ガキどもが登りついて香流を見ている。

 井戸での洗濯帰りだった香流は、桶を片手に少年たちへさらりと視線を流した。


「なにかご用ですか。 生憎今は家事の最中で、忙しいのですが」


 澄ました調子で言えば、悪ガキたちは「澄ましてんじゃねーや、暴れ姫のくせに!」とヤジを飛ばしてくる。

 すると、香流の背後から一緒に洗濯から帰っていた娘たちが、くすくすと肩を揺らして追いついてきた。


「やぁねぇ、あいつら。 この間の試合で姫様に負けたから、いきがってるのよ」


「本当に子どもねぇ」


「気にすることないですわよ、姫様。 さあさ、行きましょう」


 娘たちの揶揄に、悪ガキたちはかっと頬を赤く染める。

 そしてくだんの決勝戦で香流に打ち負かされた大将格が、悔しさに身を震わせながら、香流に指を突き立てて叫んだ。


「やい、暴れ姫! こないだの試合、あんなのは無効だ! あ、あんな、」


「開始一瞬で背後を取られて、後ろから場外に蹴りだされたの?」


「そ、そう、場外に…… って、違う!」


 娘の一人が差し挟んだ茶々に、大将格が憤慨する。

 娘の言う通り、数日前に催された取組の決勝戦は、あっという間にケリがついた。

 一直線に突っ込んでくる大将格の背後に前転宙返りで回り込んだ香流が、勢いそのまま、相手の背中を蹴り飛ばして場外を取ったのだ。

 一瞬の決着に大将格は呆然としていた。

 だが、次には滂沱の涙を流して逃げ去ったので、香流としてもやりすぎたかなぁと思った結末だった。

 やはり相手も納得がいかなかったらしく、「もう一回勝負しろ!」と息巻いている。

 しかし、勝負は勝負。

 一度ケリがついたなら、それを認めるのも武人の器量のうちだ。

 狩士を輩出するこの里の子であるなら、なおのこと。

 香流はずり落ちそうだった桶を抱えなおし、胸を張って大将格を真っ直ぐ見上げた。


「あの試合は立ち合いもあり、決着のついたものだと判断のあった一戦です。 今更意味のない手合わせには応じられません。 結果に納得がいかないなら、次の試合でケリをつけましょう」


 では失礼、と冷静に会話を断ち切り、香流は家へと歩き出した。

 背後では顔を真っ赤にした大将格が、生まれたての仔馬のように震えている。

 その様を一頻ひとしきり笑い、娘たちは香流を追いかけてきた。


(「あんだけ毎回突っかかるんだもの、あいつ、絶対姫様のこと好きよー」「ねー?」「試合だって、勝ったら恋文渡すつもりだったらしいわよー」「うそー!?」「そうなのー!?」)


 さっさと家路を急ぐ香流には、後ろの黄色い声が何を話しているのか聞き取れていない。

 それよりもここひと月。

 父や里の男たちが騒いでいる事柄に気を取られ、ずっと気もそぞろだったのだ。



『董慶が、帰ってくるらしい』



 ひと月前の集会で父が言っていたのを漏れ聞いてしまった香流は、その時から心臓が早鐘を打つのを止められないでいた。


「(帰ってくる。 あの方が、董慶様が、五年ぶりに帰っていらっしゃる!)」


 五年前、泣く香流を置いて、里を旅立っていった董慶。

 その人が、ようやく帰ってくると言うのだ。

 もしかしたら、今まさにこの里に向かっているのかもしれない。

 そう思えば、董慶の帰りを待ちわびていた香流は、到底居ても立ってもいられなかった。

 学業や稽古事、家事手伝いの合間を狙っては、香流は決まって里の入り口に生えた一本松によじ登り、遠く道の先に人影がないかとじいっと探した。

 今だって、すぐそこに董慶が近づいているんではないかと思うと、心が急いて仕方がない。


「(お会いしたい、)」


 会いたい、――――会いたい。

 話を、話をしたい。

 ずっと、ずっと、待っていた。


 香流は、ずっとあなたをお待ちしていましたよ、董慶様。



「(董慶様、)」


「姫様!」


「! はい!」


 後ろから強く呼ばれ、香流はびくりと肩をはねさせる。

 勢い振り返れば、早足だった香流にようやく追いついた娘たちが、はあはあ言いながら胸を押さえていた。


「もう! 待ってくださいと何回もお呼びしましたのに」


「ずんずん先に行ってしまわれるのですもの」


「置いて行かれるかと思いました!」


「もしかしてまた、一本松に行こうとなさっていらしたの?」


「董慶様をお待ちになりに」



「……はい」


 娘たちの追及に香流は恥じ入りながらこくんと頷く。

 すでに香流の一本松への熱心な通いつめは里中に知られるところとなっており、皆がその様を微笑ましく見守っている。

 常の香流ならそんな冷静を欠く行動は慎むところだが、こと董慶のこととなると、つい見境がなくなってしまうのだ。

 まごまごと洗濯桶を抱えていると、娘たちはおかしそうにくすくす笑って香流の背を押した。


「本当に、姫様は董慶様がお好きねぇ」


「私たちもうんと小さい頃に遊んでいただいたけれど、姫様の董慶様好きには敵わないわ」


「一体、董慶様のどこがそんなにお好きなの?」


「えーと、」


 改めて問われると、当の香流も言葉に詰まってしまう。

 しかし、この胸にある思慕をじいと見定めれば、自然と言葉は定まってくれた。

 そっと歩みを止め、幼いまなこを閉じる。

 自然と浮かび上がった背に、香流は口元を緩めた。



「……あの方は、私が知る限り、この国で一等秀でた狩士です。 腕を失い、狩士として狩場に立てなくなったとしても、その武人としての芯の美しさは、決して変わることがありません」


「誰にでも分け隔てなく、己の強さを笠に着ることなく、常に自然体で、ただ一狩士としてあろうとする」


「山吹き抜ける一陣の風のように涼やかなその有様は、他の者が目指そうとしても至るに難しく、とても稀有な生き様だと、私には思われるのです」



 董慶は元々、香流の里でも指折りの狩士だった。

 それが昔、自身の比肩を庇ったがために腕を失い、狩士として狩場に立てなくなった。

 以降、改めて研鑽を積みなおすという決意と共に仏門に入り、精神の鍛錬と片腕での戦い方の習得に励むようになったのだ。

 香流は幼いころから、そんな董慶の後姿を見て育った。

 人は誰しも、強くなればおごりもするし、一度道を絶たれれば、立ち直れなくなる者もあるほど弱い生き物だ。

 けれど董慶の生き様にはそんなブレは一片もなく、あったとしても、それを人に気取らせないほどの芯の強さを持っていた。

 幼い香流は董慶をして、狩士とは、人とは、こうあることが強さなのだと知った。

 その有様こそが、香流にとっての指針。

 生きる教え。

 遠く臨む、目指すべき光だった。



「私にとってあの方は、人とは斯様かように美しくあれと己に示して見せるべき、最たる方なのです」



 山から吹き下ろす風が髪をさらい、その毛先をくって、香流は遠い空を臨んだ。

 五年、ずっと待ちわびていた。

 自分の成長した姿を、董慶に見定めてほしかった。

 あなたを追いかけ、日々を努めてきたのだと、胸を張って言いたかった。

 そしてあの大好きな笑顔で自身を認めてもらえたら、どんなに嬉しいだろう。

 どんなに、幸福だろう。


「私は、あの方に認めてもらうために、今日まで生きて参りましたから」


 昼日中の日下に、香流は艶めく髪をなびかせ笑う。

 その満ち足りた気配に、娘たちはたまらずほうと息をついた。

 年を重ねるごとに母親の美しさと父親の凛々しさ。

 その両方に生き写しになる自分たちの姫に、とろんと見惚れてしまう。

 しかし、そんな娘たちの有様など気にもとめず、香流は「それに、」と急に口を尖らせた。


「もしもあの方が帰っていらしたら、一番に、その訳を聞かねばなりません」


 先ほどまでの洗練とした面差しとは打って変わって、幼子のようにすねた顔をする香流。

 とろけていた娘たちはぱちくりと瞬きをし、次の瞬間には可笑しそうに笑い声をあげた。


「あら! 姫様は、董慶様が弟子を取ったことにお怒りなのね?」


「いきなりな話でしたものねぇ」


「ずっと弟子は取らないとおっしゃってらしたのに」


「なのに御自分を差し置いて他所の子を弟子にしたのを、すねてらっしゃるんでしょう?」



「……だって、腕を失った以上、狩士としては未熟者に成り下がったと、御自分で後進の指導はしないと申しておりましたのに…… まさか里の外でいきなり弟子を見つけたから定住すると文を寄越すなんて……」


 こんな裏切りはないと、香流は足元の小石を蹴る。

 その挙動があんまり子供っぽいので、娘たちも一層笑いが止まらなかった。



 五年前、香流の父の勧めで、武者修行に旅立った董慶。

 元々は、五年間各国を巡って力をつけるというのが目的のはずだった。

 それなのに、だ。

 あろうことか董慶は最初の目的地であった美弥に着いた途端、そこで知り合ったを見どころありと見定め弟子にすると決めてしまい、いきなり美弥に定住することを文にしたため里に送ってきたのた。

 これを聞いて仰天した昔の香流は、あまりのことに憤慨した。

 そして同時に、董慶に見いだされた少年をひどくうらやんだ。

 見も知らぬ相手を、心の底から羨ましいと思った。



 そうして今日この日まで毎日、遠い地の慕わしい人と羨望耐えない少年のことを、ずっと考えていた。



 どうして、董慶はその少年を選んだのだろう。

 あの董慶が心動かされた少年とは、どんな人なのだろう。


「(いつか、会うことができるだろうか)」


 思いが、形を変えたのは、いつ頃だっただろうか。

 当初は嫉妬に怒っていた香流も、過ぎゆく時になだめられ、いつしか少年のことを興味を持って思うようになっていった。

 いつか、出会ってみたい。

 どんな人柄なのか、見定めてみたい。

 そして、空白の五年。

 董慶とどんなふうに過ごしたのかを、聞くことができればいい。

 その指導によって鍛え上げられた太刀筋を、見ることができればいい。

 そんな風に思うようになっていった。

 いつの間にか香流の心は、董慶よりも少年の方へと思いを馳せるようになっていた。





「(董慶様の釈明を聞いたなら、件の少年の名をたずねよう。 そしていつか機会があるなら、その人に会いに行ってみよう)」


 流れる雲を見上げ、香流は目を細める。

 きっと、あの人の選んだ人だ。

 行く末は素晴らしい狩士となるだろうと、まだ見ぬ背を空に思い描き、香流は微笑んだ。




 その時だ。


「香流!」



 鋭く飛んできた声に、香流は俊敏に振り返った。

 さっと周囲に視線を走らせる。

 畦道あぜみちの向こうから、手を振る姿。

 兄の真殿が、真剣な顔つきで手を振っていた。

 その面持ちに、背がざわつくのが分かる。

 真殿は口元に手をやり、声を限りに叫んだ。


「香流、馬だっ! 外から馬が着いたらしい、きっと董慶が帰ったんだ!」


 香流の里は比較的閉じられていて、馬で乗り入れる者はほとんどない。

 兄の知らせにざざっと毛を戦がせた香流は、ゆっくりと桶を置くと、弾かれたように走り出した。


「姫様!?」


「姫様!!」


 娘たちが驚いて声をあげるが、一切構わず足を速める。

 先を行く真殿を追いかけ、香流は無心で走った。

 前へ、前へ。

 早く、早く、早く!

 真っ白な頭に、ただ懐かしい笑顔だけを思い浮かべ、走り続けた。

 そうしてついに見えてきた一本松の下に大人たちがたむろしているのを捉え、思い余って涙を浮かべた。


「董慶様!」


 慕わしい名を呼び、人だかりに駆け込んでゆく。

 先に着いていた真殿に引き入れられ、輪の中心に体をねじ込んだ香流は、そこにいた墨色衣装の老婆に飛びついた。


「おばぁ様!」


 香流の祖母である老婆が、ゆっくりと振り返る。

 尼のような装いのその人は、何か白いものを抱えていた。

 背後にいる馬の背には人はなく、旅装束の男が一人、その横に佇んでいるだけ。

 董慶の姿は見当たらず、香流は辺りをきょろきょろと見回した。


「おばぁ様、董慶様は? 董慶様はまだ戻ってはおらぬのですか?」


「…………」


 香流の問いかけに、大人たちの間へ、沈黙が落ちる。

 しかし、その気配を悟れぬほどには冷静を欠いていた香流は、どこかに探し人の姿はないかと辺りを見回すのをやめない。

 旅装束の男は痛ましげな表情を浮かべ、力なく俯いた。

 そんな重苦しい静けさにようやく意識を取り戻した香流は、「え?」と怪訝な顔をする。

 そして取りすがっていた祖母の顔をゆっくりと見上げ、


「おばぁ様……?」


と、小さな声を零した。

 祖母は俯いた顔に湖面のような静けさをたたえ、香流を見ていた。


「香流」


 しゃがれた声で孫を呼び、老婆は皴のある手で艶やかな黒髪を撫でる。

 そして抱えていた白い包みを差し出し、香流にいだかせた。




「董慶が帰ったよ」




 告げられた言葉に、幼い目が大きく見開かれる。

 意味が、分からなかった。


「どこです? どこに董慶様が……」


 どこにも、見当たらないのに。

 あの人はいないのに。

 どうして、そんなことを言うんです?

 立ち竦む香流に、老婆はそっと手を差し出す。

 そして香流が抱えた白い包みを優しく撫で、孫の頬を両手で包んだ。


「董慶は、確かに帰りました。 ほら、ここに」


 あなたの手の中に。

 山から吹き下ろす風が、香流の背を過り、吹き抜けていく。

 声にならない疑問をその中に溶かし、香流はゆっくりと視線を落とした。

 手の中の、ずっしりと重い《何か》。

 真っ白な上等の布に覆われた、それ。

 中に何かがあると分かっているのに、香流の内側は、それを知りたくないと叫んでいた。

 縫い留められたかのように包みから剥がせない視界に、祖母の手が伸びてくる。

 その年老いた手が丁寧に布を解き、《何か》を里へ迎え入れようとする。


「(やめて、)」


 心がむせぶ。


「(やめて、どうか)」


 知りたくないと、慟哭する。


 だって、


 今までもこんな風に、里の狩士たちが小さくなって帰ってきたことがあった。

 小さく、丁寧に布に包まれ、故郷の土に還って行った。



「(嘘だと、誰か、)」



 こんなことは嘘だと、言って欲しい。

 けれども香流を囲む誰もが、何も、言ってはくれず。

 とうとう綺麗に解かれた布が、香流に事実を突きつけた。



「ああ、」



 舌を滑り落ちた絶望は、何の味も香流には残してくれなかった。


 抱えていたそれを、それだけを見つめ、香流は崩れ落ちる。





 は、いつかの昔、香流の頭を撫でてくれた、懐かしい人のものだった。

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