「香流様、水を替えて参ります。 その間に少しでもお休みくださいね! でなければ、私が苑枝様にお叱りを受けるのですからっ」


 仕事がひと段落着いた頃。

 桶を持った阿由利が、広縁から声をかけてくれる。

 道具の始末のために庭先へ降りていた香流は、「はい」と頷いてその背を見送った。


「(ああ、充実していますね……)」


 刷毛はけちりを始末して、香流は伸びをする。

 ここ数日の香流は、我が世の自由を謳歌していた。

 実際、弓鶴の方に侍女の立場まで落とされたことを、苑枝などは内心気の毒に思ってくれていたようだが…………香流にしてみれば、あれは願ってもない話だった。

 元々香流にとって、蝶よ花よと持ち上げられる扱いなど、座りの悪いものである。

 香流を敵視する侍女たちは、邪魔者を安穏とした立場から追い落としたくらいに思っていよう。

 だが、逆に弓鶴の方の命令のおかげで、香流は欲しいものを得ることができていた。

 充実した時間と、やりがいと、教養から解放される時間である。


 ……なんと素晴らしい。


 万事良好。

 向かうところ憂いなし。

 香流は図太かった。






 まぁ、ただ、二つばかり。

 役目に時間を取られたせいで、苑枝が花嫁修業の遅れを取り戻そうと詰め込み具合を苛烈にしてきたことと、もう一つ。

 近頃、香流の周りをうろついている気配があるのが気がかりなことを除けば、だが。


「(に関しては、ほとんど策を講じていますからね。 おそらくもう大丈夫でしょう)」


 香流は一人納得して立ち上がると、広い庭を眺めた。

 そして、庭木の向こうに小さくのぞく、一軒の茅葺かやぶきの離れに目を止める。


「そういえば、あそこは……」






「おや、まことにハタキが歩いておる」






 声に、顔を引き締める。

 香流は袖をまとめていたたすきを解きながら、ゆっくりと背後を振り向いた。

 広縁に、人が一人。


「面妖よなぁ」


 冷たい目を歪めて、弓鶴の方が香流を見ていた。

 なぜか供の者は、一人も従えていない。

 不思議に思いながら、香流は手の中の道具を地面に置いた。


「これは、弓鶴の方様。 このような姿で申し訳ありません。 ただいま、お役目の最中でありますれば」


 土の上に控えると、「ふふっ」と冷えた笑いが落とされる。


「妾の言いつけ、しかと果たしているようね、い子。 苑枝から報は受けておるよ」


 袖元からのぞく目が、ゆるりと細まる。

 そして、


「それで、その姿は何事かえ?」


 扇の先で香流を指し、弓鶴の方は問うてきた。





 ここで少し、香流の姿を明示する。





 仕事を終えたばかりの香流は、動きやすい小袖姿に、ほこりを吸い込まないための口布をしていた。

 ここまでなら、下女とそう大差ない装いである。

 だが、一つだけ。

 あからさまに目を引くものを、背中に背負っていた。


 


 身の丈はあろうかという大ハタキを、香流は背負っていたのだ。

 悪戯が見つかった幼子のように、背後のハタキをかばう。

 奥方の方から目を逸らして、香流はぽつり。



「…………掃除時ですから」




 嘘である。



 ここ二、三日。

 香流は食事時も、かわやも、寝る時ですら、この大ハタキを肌身離さず持ち歩いている。

 ハタキと一心同体といっても過言ではない奇行を見せているのである。

 なぜ、このような出で立ちをしているのか。

 話は数日前にさかのぼる。





 *





『あら……?』


 その日も掃除に勤しんでいた香流は、異変に気が付いた。

 掃除をしていたのとは別の部屋に置いておいた、蜜蝋と拭き布が見当たらないのである。

 おかしい、確かにここに置いてあったと思ったのに。

 どこか別のところと思い違いしていたのだろうか。

 しかし、そのあとどこを探しても、七つ道具は見つからなかった。

 それから二日後。


『またない……』


 今度は、敷き布と畳ほうきが見当たらなくなった。

 阿由利に手を貸してくれと呼ばれていた、ほんの少しの間のことだ。


『これは……』


 流石にここで、香流も察した。

 誰かが香流の道具を持ち去っている。

 それも、おそらくだが、悪意を持って。

 邪推は良くない。

 それは母に昔から言われていたことであったが、


『(おそらく、侍女のどなたかでしょうね)』


 ため息とともに、見当をつける。

 なぜなら苑枝と阿由利以外で、掃除場所の近くにあった気配は、奥座敷に出入りできる女人――――つまり、侍女たちのものだけだったからだ。


『(嫌がらせ…… というやつでしょうか)』


 香流の予測は、ほぼ的を射ていいた。

 役目を得て数日。

 右治代の侍女たちは、全く音を上げる気配を見せない香流に苛立っていたのである。

 侍女たちの敵意自体は、苑枝からも事前にそれとなく忠告も受けていた。

 指導は徹底しているつもりだが、一応気を付けるようにとの話だった。

 だから香流も、また嫌味くらいは言われるかなぁと、言う程度に考えていたのだが……

 まさか、いい年の成人がこんな子供じみたことをするとは、思いもよらなかった。


『(これは自衛しなければなりませんね)』


 己の落ち度を反省し、香流は残った『たわし』と、『刷毛』と、『大ハタキ』。

 これらを常時持ち歩くことにしたのだ。

 中でもハタキは、祖母から譲り受けたもの。

 決して無くすわけにはいかない。

 では、どうする。

 考えた末、香流は一つの解決策に至った。


『これは肌身離さず、ずっと背中に背負っているほかありませんね』




 こうして世にも奇妙な、歩く『大ハタキ』女が完成したのである。




 *




「随分噂になっておるよ。 あの小娘は、どこかおかしいんじゃぁないかとね」


 さも楽し気に、弓鶴の方は肩を揺らす。

 香流は恐縮して頭を下げた。

 背負っていたハタキを下ろして、脇に置く。


「お見苦しい姿をお見せしました。 お許しを」


「よい。 下々の噂など、一片の価値もない。 好きな姿でおるとよい」


 唄うような許しに、香流は目を丸くする。

 良家の嫁になろうとしている娘が、おかしな行動をとるな。

 それくらいのことは言われるだろうと腹をくくっていたのに、弓鶴の方は香流の姿などどこ吹く風で気にした様子もない。

 むしろ、心底面白がっているようにすら見える。


「……お小言をいただくかと思っておりました」


 正直に心中をこぼすと、


「誰ぞが、侍女どもに入れ知恵をしておるようだからのぅ。 其方そなたも心休まることがあるまい」


と、訳知り顔で受け入れられた。

 少し、意外に思う。

 どうやら己の不作法も、お咎めなしらしい。


「それは、」


 お気遣いを。

 言いかけて、しかし、香流ははたと思い当たった。


 誰ぞが?


 目の前に、分かりやすく餌をぶら下げられたようだった。

 ゆっくりと視線を上げ、広縁の上の人を見る。

 扇に浮かぶ目が、歪む。


「誰が、知恵を出しておるのかのぅ」


 ああ、遊ばれている。

 そう思った。

 誰がなんて、そんな言い方、分かっていなければするまいに。

 この人は、まるで子供みたいだ。

 いや、子供を演じるたちの悪い大人のように、言葉をもてあそぶ。

 香流に、手の中の羽虫に、己の悪意を気づいてほしがるみたいに、ひけらかして見せる。



「のぅ、香流?」



 声が、てつく。

 凍てついて何者も寄せ付けないのに、絡みつくように香流の足元を捕らえる。


「其方は役目を楽しんでおるようだけれど、もう、幾日目だ? 幾日、其方はこの勤めを続けている?」


「それ、は、」


 なぜだろう。

 体が、しびれるような気がする。

 奥方の目が、声が、肌を泡立たせるような。


「ようくお考え? 香流。 どうしては、其方を気にかけようとしない?」


 『あれ』。 この人が、『あれ』と呼ぶ人。

 銀の髪、琥珀の目をした人。

 香流を帰れと拒絶した人。


「あれは年若いとはいえ、この家の主。 その声で一つ命じれば、其方をこの役目から解くこともできる」


 なのに、ねぇ、どうしてだろう?


「あれは、どうしてこんなにもなごう、己の許嫁を捨て置くのだろう?」


 思考が歪む。

 指先が意思とは関係なく震え、いやな汗が肌を伝った。

 おかしい。

 何かがおかしい。


「お、大奥、様」


 舌が固い。

 声が、上手く発せられない。

 弓鶴の方が、こちらに向かって扇を差し向ける。

 能面のような顔が、香流を見ている。


「誰も、其方など気にかけていない。 苑枝も、あの侍女も、真に其方の力にはなりはしない」


 温度がない、感情のすべてが死に絶えたような表情。

 すべてを切り捨てるような顔。

 汗が止まらない。

 まるで臆したかのように、体が恐怖に食い荒らされているような。

 奥方の言葉に、恐れを抱いているようなのに。

 なのに、なぜだろう。


「ここの者は、心底誰も、其方に手を差し伸べたりはしない」


 凍てついた声は、すべてを凍りつかせる。

 なのに、私は、


「其方は一人。 この空虚な家に、一人きり」


 私は、


「誰も真には、其方をいつくしんではくれない」


 奥方さま、


「ずっとずっと、一人きり」


 あなたは、


「ああ、なんて、」


 どうして、


「なんて、憐れな子……」





「それは母上が、私に伝えぬよう、皆に口止めしておられたからでしょう」

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