飛び込んできた声に、体のこわばりが解けた。

 ふっと、息が漏れる。

 動悸を落ち着けるように胸をおさえて、そうして、香流はその人を見た。


「母上」


 右治代忠守白主銀正。

 白銀の若者が、廊下の先に立っていた。

 その後ろには、なぜか苑枝も控えている。


「…………」


 沈黙は続いた。

 この家の当主は厳しい顔で母親をにらんだまま、じっと出方を探っているようだった。

 一方の弓鶴の方は、あの能面のような顔で、視線すら合わせない。

 場には、ひどく居心地の悪い流れが渦巻いている。

 それを、香流はいぶかしむ目で眺めていた。


「(なん、でしょう。 確執…… あるいは、決裂のような、埋めがたいもの?)」


 それらを、この親子からは感じとれる。

 我が子を『あれ』と呼んではばからない母親と、その母親が香流に接触することを忌避する息子。

 穏当な間柄とは言い難い。

 なにか、香流のあずかり知らぬ事情でもあるのだろうか。


「(苑枝殿も、奥方には近づくなとおっしゃっておられた。 あの方には、なにか問題がある……?)」


 そこまで考えて、くらりと、めまいが視界を揺らす。

 まずいと額を覆った先で、歪む世界に、銀正が口を開いた。


「母上。 苑枝から、話は全て聞きました。 …………何故、私の許嫁に無理な話を押し付けたりなさるのです」


 ああ、苑枝殿が耳に入れたのか。

 だから一緒に……

 ぼやけた頭で考えながら、香流は目を閉じる。


「この方は、中央から正式にたくされた方。 母上の気まぐれに巻き込んでよい人ではありませぬ」


「…………」


「母上、聞いていらっしゃるのですか? …………母上、」


 銀正が呼び掛けている。

 その声はなんだか苦しげで、どこか取り残されて、行き場に惑う姿が思い浮かんだ。

 頭がふわふわとする。

 目をなんとかこじ開けて、香流は銀正の様子を見定めようとする。

 




「母上!」


「!」


 



 銀正の糾弾に、じりっと体がしびれた。

 瞬間、はっきりと線を結ぶ視界に、痛々しい頬の傷が引きれているように見える。

 厳しく母親を呼ぶ横顔に、目が吸い寄せられた。

 痛いと、痛みをこらえる子供のようだと思った。

 途方に暮れて立ち尽くす、子供のようだと。


「…………」


 打ち付けるようなその声にも、弓鶴の方は何も返さなかった。

 ただ、冷えた顔をつまらなそうにして、遠いどこかを見遣っていた。

 そうして不自然な沈黙が続いた後、


「黙っておれと、申しておったのになぁ」


 不意に独り言じみた呟きを落とし、弓鶴の方はゆっくりと首を回した。

 その目は決して息子を捕らえることはなく、後ろに控える苑枝だけを視界に収める。


「苑枝」


 呼ばれた筆頭女中は、ぐっと顎を引いて言葉に備えた。


「妾の禁を破った落とし前、いずれつけるものと覚悟しておれよ」


 静かな、それでいて、底冷えするような怒りをたたえた目が、女中を射抜く。

 苑枝は何も言わず、すっと目を落として応えた。

 それに満足したのか、弓鶴の方は打掛をひるがえして三人に背を向ける。

 そのまま広縁を立ち去り、あとに残された者たちは、おかしな静けさの中に立ち尽くした。


「(……ついぞ、目も合わせられなんだな)」


 銀正の呼びかけに、結局一度も反応しなかった母親。

 まるで居ないもののように扱われていた青年を、香流はうかがう。

 白銀の若者は色のない顔で、指先一つ動かさずにそこにいた。

 それでも目だけは、母親の立ち去った先を見つめている。

 どうしようもないような思いが胸を占めて、香流は眉を下げた。


 なぜ、この親子は目も合わせないのだろう。

 なにが、あれほどまでに弓鶴の方を頑なにさせているのだろう。

 どんな苦悩が、この青年を途方に暮れさせているのだろう。

 二人の間にあるのは、いったいどんな距離なのだろう。


 何も事情を知らぬまま、そんなことをつらつらと考えた。

 すると、


「香流様!」


「!」


 広縁から苑枝に声を掛けられ、はっと意識を震わせる。

 見上げれば、気に病んだような顔が、香流に向けられていた。


「大丈夫ですか、香流様。 なにか、御気分が優れぬよう。 弓鶴の方様に、何か言われましたか?」


「あ、いや…… 大丈夫です。 ちょっと立ちくらんだだけで」


 支障はない、そう返すと、苑枝はほっとしたように肩を落とした。

 なんだか、ひどく心配をさせたようだ。

 香流が安心させようと、口を開きかけたとき、


「ぁ、」


 視線に、気づいた。

 静まり返ったような、琥珀の目。

 いつの間にか、銀正がこちらを見ている。

 勢い頭を下げようとすると、身振りで止められた。


 また、何か、香流はこの人の気に障っただろうか。

 あの晩、この人は香流と弓鶴の方との接触を嫌ったように。

 また顔を合わせたことを、咎められるだろうか。

 ぐるぐると考えているうち、銀正の様子に気が付いた苑枝が、そっと頭を下げて、廊下を戻っていく。

 気配が遠くなり、消えたあと、銀正が口を開いた。


「すまなんだ」


「?」


 謝罪。

 なぜ。

 思う前に、言葉は続く。


「もっと早く、御身の苦境に気づいてしかるべきだった。 先の捕りもので仕事が押していたとはいえ…… もう少し家のことを気にかけるべきだった」


 許してくれ。

 向けられる真摯な言葉に、香流は詰まる。

 謝罪など、されるいわれはない。

 実際、香流は好き好んでこの役目を受けているのだ。

 なのに、こんな風に後ろめたいような顔をされるなど…………我が身にすぎる。

 そうして返事にあぐねていると、言葉のないのをどう取ったか、銀正はふっと息をついた。


「やはり、里に帰ることができるよう、私の方から口添えをしようか」


「え?」


 突然の提言に、落としていた視線を上げる。

 香流は、ぼんやりと琥珀の目を見返した。

 蜂蜜の虹彩は、ひたと香流をそこに閉じ込めている。

 そこにあるものが何なのかを香流が見定める前に、銀正は畳みかけるように言い募った。


「此度のことは、こちらの非だ。 あなたに不釣り合いな役目を、無理やり押し付けてしまった。 …………これであなたも、この家に愛想が尽きただろう」


 望まれず嫁ぎ、心無い扱いを受け、挙句に下働きのようなことをさせられて。


「この国に、嫌気がさしただろう」


 琥珀色が、歪む。

 おそらく、苦しみと、懺悔。

 それを悟った時には、遅かった。


「ご、」


 当主。

 そう呼びかける前に、銀正は言葉を吐いた。

 香流を遠ざける言葉を吐いていた。




「これ以上、あなたをこの国に縛っておけない。 この家のために、苦しめることはできない。 だから、」


 だから、


「その身を、国元に返そう。 あなたを、」




 ここから、自由にしよう。





 *





 縁談を受けた者として、最後の償いのつもりだった。

 



 

 国に返すと告げると、その娘は驚いたように目を見開いた。

 それも道理だろう。

 一度嫁に行くと家を出た娘が里に帰れば、それは少なからずその女の名、ひいては生家の名を傷つける。

 それは己も分かってはいたが、此度のことは、政治的思惑も絡む点で事情が異なる。

 五老格と話をつけた自分が訳を話して解消を申し出れば、彼女にも、彼女の家にも汚名とはならないはずだ。

 勿論、里での口さがない噂までは、かばってはやれない。

 だが、これ以上この家に娘を縛り付けることを考えれば、一層ましだと思えた。

 彼女にしてみれば、こちらの事情など知る由もないのだろうが………… 自分には、この人を確かに里に返す義務がある。

 驚きからだんだんと戸惑いへ変化する目を見つめながら、できる限り誠実に言葉を重ねた。


 家の者の悪意に巻き込んでしまったこと。

 それから守ってやれなかったこと。

 これ以上ここにとどまれば、余計な苦痛を受けるだろうこと。

 それらを踏まえ、里に帰るのがその身のためだということ。


 五老格には、自分から話をつける。

 婚約の解消で、あなたが決して惨めになることはないとも、言い添えた。

 だから、何も憂いなどせず、帰りなさい。


 そう言った言葉を、娘は顔を俯けて聞いていた。

 

 怒りに触れただろうか。

 訳も分からず、困らせただろうか。

 自分は、年頃の娘の機微など分からない。

 分からないからせめて、そのやり場のない思いくらいは受け止めようと、返される思いを待った。

 娘は、何も言わない。

 沈黙は続いて、もしや泣いているのかと心を乱して、それで。




 かすかに震えていた指先が、すっと止まったのを見た。




「帰りません」




 一片の揺らぎも、張りつめるものもない声だった。




「帰るつもりはありません。 私は必要と判断されてここに送り出されました。 それを判断した隠居方のお考えにも、納得しています」




 俯いていた陰の向こうから、強い意志が己を貫く。

 そのびょうとも揺らがぬ光に、目を奪われる。



「お役目も、なんら苦痛ではありません。 私を試すためにこの家の方たちにとって必要なら、どんな苦役も逃げるつもりはありません」



 掴まれる。

 引き込まれる。

 この目は、



「この家にとってみれば、他所よその嫁など不本意でしょうが…… 私は私の責を果たさねばなりません」




 すうっと息をため込んで、娘は前を向いた。

 決然とした顔を、陽光にさらした。





「この身に課せられたものを成し遂げるまで、私はどこへも行きません」




 初めて。

 初めて、仮初の許嫁である娘を、正面から見た。



 その気勢に食われたように、息を呑む。

 まじまじと、己を刺す娘の目に囚われる

 一片の揺らぎもない、静謐な、湖面のよう瞳。

 飲み込まれそうなそれに、一時いっとき意識を奪われ、そうしてはっと口を閉ざし、気まずい思いをしながら顔をそむけた。




 一切弱音を吐かぬ娘だと、苑枝からは聞いていた。

 宴の晩に窺っていた様子も、臆さないところがあるとは思っていた。

 けれど、これほどまでに性根の据わったところがあるとは思わなかった。

 これでは、娘を小さく見積もって逃がそうとした己の方こそが、彼女の決心に対して無礼だ。

 

 しかし、も、己にはできない。

 

 どうすればいい。

 身をさいなむ苦悩に立ち尽くし、手を握る。



 すると、


「御当主」



 先ほどの鋭い声より、幾分柔らかい口調で、娘が己を呼んだ。

 そっと見ると、どこか、気まずげな顔がこちらを見ている。

 そうしてぎこちなく笑うと、娘は頭を下げた。



「申し訳、ありません、御当主。 私の身を案じて言葉をくださったのに、礼儀のない受け答えを申しました。 お許しください」



 謝罪を伝える声に、のどが詰まる。

 謝るな、そう止めようとして、――――娘は顔を上げた。



「こうでも言わねば、届かぬと、臆したのです。 強い、言葉でなければ…… あなたをり動かすほどの言葉でなければ、私の覚悟が伝わらぬと、気がはやってしまったのです」



 困り切ったように顔を緩めるさまが、胸を突いた。

 御当主と繰り返す声に、そこに込められた誠実を知る。



「ありがとうございます。 ここにきて、初めて身を案じていただけた。 それだけでとても嬉しかった」


 危なっかしい自分に忠言をくれた人はあったけれど、この身を案じてもらったのは、あなたが初めてだ。


「御当主、私のような余所者に心を使っていただき、かたじけのうございます」



 ゆっくりと頭を下げる姿を、じっと見ていた。

 その真っ直ぐな様に、心が騒ぐ。

 が、記憶の底で、彼女にかぶさる。

 そして落ちる静寂。



「ぁ、」



 頭を、上げてくれ。

 そんな風に心を尽くすのはやめてくれ。

 自分は、あなたの誠意に足る人間ではない。

 だから。

 そう、言葉をかけようと口を開いたとき。






「ところで、」


「?!」


 不意に顔を上げた娘が、真剣な空気を断ち切る調子で、声を上げた。

 かけようとした言葉が引っ込んで、勢いに飲まれる。

 娘は先ほどの凛とした顔をひそめ、平素の淡々とした様子で足元の棒を拾った。

 それが娘の身の丈はあろうかという大ハタキだと気が付いたときには、流れは完全にあちらに持っていかれていた。


 娘はハタキの柄をそっと撫で、


「御当主。 あと掃除に入っておらぬのは、御当主の離れのみなのですが」


 口元だけをゆるりと細めて、


「如何様に致しましょう?」


 うっそりと笑った。

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