『香流、其方そなた、仕事をなさい』


 唐突に現れたその人は、いとも容易たやすく香流にそう命じて、美しく微笑んだ。






 銀正の着替えを手伝ったことで、侍女たちの反感を買ってしまった香流。

 そこへ折よく現れた弓鶴の方に、侍女たちは泣きついた。


 曰く、

 『客人でもなく、奥方でもない立場のあやふやな者に、御命令とはいえ仕えるのは納得できない』

 『正式にこの家の者ではないのだから、相応の扱いをするべきだ』と。


 確かに、香流の立場は不明瞭なものだ。

 銀正との婚儀もまだであるし、客として短期の滞在者というわけでもない。

 一番それらしいものを挙げるなら、嫁候補として行儀見習いを受けている身――――つまり侍女とそう変わらない立ち位置なのだ。(とはいえ、一介の侍女と狩司衆最高位・五老格の後ろ盾のある香流では、右治代が重んじるべき度合が大違いなのだが…………そこは事情に明るくない侍女たちに完全に舐められているというオチである)

 侍女たちの訴えを面白げに聞いていた弓鶴の方は、目を細くして何事かを考えている様子だった。

 そうしてしかつめらしく扇を閉じると、前述の命を下した。


 ここで脈絡がないと、腑に落ちない人もあるかもしれない。

 香流自身も、一瞬言葉の意味をつかみ損ねた。

 しかしその後には、「ああ、」と思い至って、一人得心した。

 つまり、弓鶴の方は香流に、己の存在を確固のものとしたければ、下の者たちが納得するだけの働きを示せと言っているのだ。

 言い方を変えれば、侍女、あるいは下女の仕事をしろということ。

 曖昧な存在とはいえ、名家に嫁入りに来た娘に言うことではない。

 これを聞いて苑枝は反発したが、弓鶴の方が何かを言う前に、香流自身がそれを制した。


『弓鶴の方様ご当人の決定ならば、つつしんでお役目たまわります。 この香流、粉骨砕身してお勤めいたしましょう』


 居ずまいを正し、丁寧に頭を下げる香流。

 下の者の仕事を請け負うと明言した娘に、その場にいた者たちが目を真ん丸にする。

 唯一、面白そうに笑みを隠さない弓鶴の方に頭を下げたままの香流は――――その下でひっそりとほくそ笑んでいた。







「あ、あなた様に、行っていただくの、は! ははは、離れを含めた、奥座敷の掃除です!」


「…………」


 香流の自室でひっくり返ったような調子で言うのは、香流の部屋に来ていた侍女の阿由利だ。

 あれから苑枝にも仕事をする許可をもらった香流は、晴れて仮初の侍女として、この家に勤めることとなった。

 話がついた後も、苑枝は弓鶴の方の決定に渋っていた。

 だが、当の香流がそれをよしとするのだとなだめすかして、最後には同意を得た。

 ただし、勤めを任せる以上は侍女と同列。

 厳しく指導するから覚悟するように、との念は強く押された。

 それから話はトントン拍子に進み、香流は侍女の一員として、仕事を与えられることとなった。

 後ろ盾のある身だが、なにぶん新参者だ。

 指南役として侍女が一人、香流につくこととなったのだが、



「大丈夫ですか? 阿由利殿。 あまり御気分が優れておらぬような……」


「ひぇっ……」



 上気した頬に手を伸ばすと、阿由利はけ反ってそれをかわした。

 行き場のない手が、宙に浮く。

 虚を突かれて目をぱちりとすると、阿由利は一層顔を赤くする。


「(やはり熱が……?)」


 心配になって近づこうかと思うが、なんだか怯えられているような気もするのでそれもはばかられる。

 しかたなく手を下ろした香流は、精一杯無害な笑みを浮かべてみた。

 まずは、友好的に距離を詰めて行く。

 香流は打算を取った。


「阿由利殿、この度は私のためにお時間を割いてご指導いただけるとのこと、感謝申し上げます。 なにぶん、新参者の身の上。 お手数をかけることと存じますが、どうぞよしなにご教示願います」


 自分でも上出来の口上と物腰に、内心これはと思う。

 あとはあちらの反応だが、


「ひぅ……」


「…………やはり、熱がおありになるのでは、阿由利殿」


 相変わらず赤い顔は変わらない。

 もうこれは指導どころではないなと阿由利に休みを取るのを進めようとしたところで、「こほん」と分かりやすく咳払いが背後でした。


「阿由利殿、いつまでそんな情けないあり様でいるつもりです」


 さっきから多少気配は感じていたのだが、苑枝がふすまの隙間からこちらを見ていた。

 筆頭女中は溜息をつきながら部屋へ上がってくると、固まっている侍女にバシッと活を入れる。


「ほらほら、しゃきっとなさい! お役目の時間はすでに始まっているのですよ。疾く始めなさい、さぁさ!」


「あ、ああ、は、ははは、はい!」


 テキパキと促され、阿由利はぴしっと背を正した。


「こ、これから一緒に行っていただくのは、奥座敷の掃除です。 部屋の割り振りは、御当主様と大奥様の居室以外のすべてです。 き清め、拭き清め、はたき清め、すべてを行っていただきます!」


「……なるほど」


 一応、返事は返しておいたが、香流はなんとなく視線を遠くする。

 つまりこれから行うお役目は、この広い右治代家の、これまた広い奥座敷ほとんど全てを、香流一人で磨きあげなくてはならないということだ。


「(丸投げ……ですね、ほとんど)」


 無茶な話を振られるくらいは予想していたのだ。

 ただ、これは予想の範疇はんちゅうを超える。

 まさか、奥座敷ほぼすべてとは―――――炊事をしない侍女たちにとって、日々の掃除は主要な役目の大部分を占めているもの。

 それを人に投げるのだから、ほとんどの役目を放棄しているに等しい。

 そんな無茶、家の主に対して体裁が悪くならないのかと、なぜか香流のほうが侍女たちの心配をしてしまったが、


「(苑枝殿が何も言わない時点で、弓鶴の方のご意向が少なからずあるのでしょう)」


 最早、この荷が勝ちすぎるお役目は決定事項なのだ。

 ならば、自分が言うべき言葉などありはしまい。

 早々に考えるのを投げ出した香流は、さっさと思考を切り替えた。


「それでは、阿由利殿。 早速ですが、掃除のやり方は、私の方で勝手に決めていいのでしょうか?」


「え? えっと、それは……」


 掃除一つとっても、その家にはその家のやり方があるものだ。

 それを確認したくて阿由利に問いかけると、侍女は赤い顔のまま、苑枝を見た。


「……そのあたりは、大奥様から言付ことづかっておりません。 香流様がやりよいように、なさればよいでしょう」


 ただし、最後の確認だけは己が厳しく執り行うゆえと、やはりため息とともに苑枝が答え、香流はにわかにやる気をたぎらせる。

 実際、右治代家にも掃除の手順と言うものはあるのだろう。

 古い家などは特にそういうものと、香流だって知っている。

 それを今回ばかりは無視していいと苑枝が言ってくれたのは、おそらく無茶を課せられた香流をおもんぱかってのこと。


「(ありがたいことです)」


 制限がないなら、家事において香流は水を得た魚だ。


「ああ、ですが、掃除の用具が必要でしょう。それくらいはこちらのものを貸し出して……「いいえ、お気遣いなく」


 苑枝が人を呼ぼうとするのを、短く制する。

 香流は立ち上がり、荷を詰めなおしたままの葛籠つづらに歩み寄った。

 好きにしていいなら、遠慮はせぬのが里の家訓。

 開いた葛籠からを引っ張り出し、香流はくるっと振り向いて前に構えた。


「道具はそろっています。 ご安心下さい、この香流、与えられた役目は、見事果たして見せますれば」


 を、認めた苑枝と阿由利が呆気に取られて口を開ける。


「さあ、早速始めましょう」


 たすきを噛み締め、袖をくくり上げる。

 戦闘開始。

 香流は不敵にほほ笑んだのだった。







 侍女の仕事を押し付けられるにあたって、香流には奥の手があった。

 嫁入りの荷に忍ばせてきた、『掃除七つ道具』である。




『香流様、は一体……?』


 仕事始めの日。

 葛籠から取り出したものを見て、苑枝と阿由利は眉をひそめていた。

 それもそのはず。

 香流が取り出してみせたのは、身の丈四~五尺はあろうかという異様に大きなハタキだったのだ。

 それを両手で持った香流は、満面の笑みを浮かべて答えた。


『私の里では、嫁入りにこういった掃除用具を持たせるのが通例なのですよ』


 嘘である。

 実際は、『いびられるぞ、いびられるぞ!』と楽しげな五老格の助言(?)を受けて持ち込んだものだ。

 向こうでは、どんな扱いを受けるか分からない。

 粗末な部屋を与えられるやもしれぬし(的中)、汚れ仕事をさせられるかもしれぬ(的中)。

 アレコレと脅しをかけてきる五老格の言葉を、香流ははじめこそ聞き流していたが、


「(……他所よそのことは分かりませんが、そういうこともあるのか?)」


と、案ずるようになり、一計。

 それなら、対応するための備えが必要だと考えた。


『掃除用具? そんなものを持っていくつもりですか?』


 荷づくりを手伝ってくれた母も、最初は訝しんでいた。

 それでも、香流がなんとか用意してほしいと頼み込んであつらえたのが、


 拭き布、たわし、畳帚ほうきに蜜蝋、大小の刷毛はけに、敷布。


 そして、


 これですと苑枝たちに示したのが、前述のハタキである。


『地元名産の『走狗鳥そうくどり』の尾羽を使った大ハタキです。 上等なもので、これは祖母から受け継ぎました』


 ハタキは、女が扱うには少々太めの柄に、大きな鳥の尾羽を幾重にもまとめ上げて作られていた。

 これさえあれば、無駄に天井の高い右治代の屋敷の掃除も確実にはかどる。

 おそらく屋根裏だって、お手の物だ。

 自慢の品を手に持ち、香流はうっとりと笑ってハタキを撫でた。


『まさかと思い、こちらにも持ち込んでよかった。 此度のお役目のために、やっと活用してやれます』


 大ハタキと娘という奇妙な光景に、苑枝たちは何も言えず黙り込む。

 そうして、思っていた。

 この嫁御、これを使いたいがばかりに役目を受けたのでは? と。







「香流様…… お一人でこの作業。 あまりにも大事なのでは?」


 足元で台を支えてくれている阿由利が、うんざりとした調子で言う。


「いえ、掃除の基本は上から下へ。 こちらの家では軽くハタキがけで終わらせているようですが、欄間らんまちりもしっかりとっていないと」


 襷に口布姿の香流は、台の上できっぱりと断言する。

 手には七つ道具の刷毛が握られ、風雅な欄間の細部までほこりを払っていた。

 ここは、奥座敷の部屋の一つ。

 手始めに香流は、室内上部の埃落としをすることにしていた。


 奥座敷の掃除は、覚悟していたよりも苦労はなかった。

 元より、右治代家の家人は、銀正と弓鶴の方の二人だけ。

 他の縁者はないらしく、日常的に使われている部屋自体が少ないのだ。

 二方の居室は掃除するよう指定されていないので、必然的に香流たちが掃除を行うのは、あまり利用されない部屋ばかりになる。

 つまり、あまり汚れていない部屋がほとんどということだ。

 ただし、使われない部屋というのも、空気の入れ替えや埃取りなどをしなければ、状態が悪くなるものだ。(香流に与えられた居室がいい例である)

 手抜かりはできない。


「香流様、本当に奥座敷全部を埃落とししていくおつもりですか?」


 何やら心配そうに、阿由利が言う。

 先にある仕事量の多さに、臆しているのだろう。

 香流は集めた塵を紙の上に移しながら、「つらいようでしたら、見ていてくださってもかまいませんよ」とやんわり言ってみた。

 阿由利はそれに、「そ、そんなことは申しておりません!」と横を向く。

 しかし、また弱り切ったような顔を作って、


「ですが、二人でやるには、やることが多すぎるでしょう。 こんな広さ、どうするつもりですか」


 と、弱音をこぼす。

 香流は上を向いたまま、ふふっと笑った。


「(『二人』とは…… 一応阿由利殿も、手を貸してくれるつもりでいらっしゃるのだな)」

 

 顔を合わせた時こそ阿由利は高飛車な侍女だったが、どういうわけか今は香流の仕事もこうして手伝ってくれている。

 なにやら熱を出した(、と香流は思っている)ときから心境の変化があったようだが…………そこはいまいち謎が深いので、頭のすみに置いている状態だ。

 考えている間に作業を終えた香流は、口布をおろして阿由利を振り返った。


「そう心配なさらないでください、阿由利殿。 どんな難事も、大抵なんとかなるものです」


 大真面目で香流がそう言うので、阿由利はうっと詰まったが、それでも気弱な様子を隠さずに肩を落とした。


「そうは言いますが、実際この広さは、」


 やることが多すぎる、と続きそうなのを、香流はにこりとして遮った。


「大丈夫。 私が何とかします。 大仕事も、足元から手を付けていけば、いつか終わりが来ます。 そう途方に暮れることもない」


 それに、と台から降りた香流は、阿由利の手を取って、


「阿由利殿がこんな装いになってまで手伝ってくださるのです。 それだけでも百人力だ」


と、微笑んだ。

 今の阿由利は、常に来ている打掛を脱いで、比較的地味な小袖姿に襷をしている。

 それだけでも香流の手伝いをしてくれる気があるのが分かって、香流は嬉しかったのだ。


「小袖姿も愛らしいですよ、阿由利殿。 ようお似合いだ」


 ちゃんと伝わるように、念を込めて言うと、


「ひぇえ……」


 ぼんと顔を赤くした阿由利が、その場に腰を抜かした。

 突然のことに、香流は驚いてその肩に手を回す。

 阿由利が二度悲鳴を上げたのは、言うまでもない。

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