本幕

 まだ、日の南中せぬ朝方の事だ。

 山奥の茅葺かやぶき屋敷。

 その濡れ縁で、着物姿の娘が、水桶に手を突っ込んでいた。

 廊下の雑巾がけに勤しんでいた娘は、不意に年端の行かぬ小間使いの少女に袖を引かれる。

 曰く、この家の当主である父から、呼び出しがあったとのこと。

 朝の務めを切り上げて顔を出すようにとの口伝に、当主の娘は水のついた手を払ってたすきを解いた。

 察するに、何やらまた、面倒を言いつけられるらしい。

 毎度のことと諦めの境地にあるゆえ、淡々と少女の頭を撫でて了承を返す。

 寄り来るは雷雲か、疾風はやてか。

 騒動の予見に目を細め、娘はそっと遠く、山の峰を眺めるのだった。





「この島国『嘉元かげん国』には、大小二十四の国元がある。 現政権のある中心国を……挙手!」


「はい! おうの国、秀峰しゅうほうです」


「よろしい。 では過去政権を持ち、現在も中央に次ぐ大国とされる歴三国を」


「はい! 東から阿須真あすま奈積なつみ美弥みやです」


「正解! しかし、ここまでは幼子でも分かる常識だ」


 教書を持って目の前をゆっくり行き来する教え役に、子供たちの目が注がれている。

 ここは、里の子供たちが学業を修める学童塾。

 里の子は皆例外なく、五つになったらここで学業に励む。


「香ちゃん、香ちゃん」


「? なんですか?」


 袖を引く幼女に目を向けると、まだあどけない疑問顔が、こてんと首を傾げる。


「香ちゃんは、さっきの三つの国を知ってる? 行ったことがある?」


「知ってはいますよ。 これからの勉強に沢山出てきますからね。 でも、行ったことはありません。 特に美弥は一番遠いですから。 多分、先生も行ったことはないと……」


「そこ、卒業生に教えを乞うのは、話のあとになさい」


 あまり脱線してはおしゃべりだとたしなめられ、二人はひゃっと口をつぐんだ。

 低学年の授業には、卒業後の者が手伝いにつくのが通例だ。

 だが、まだ入塾したばかりの子たちは、こうして疑問をすぐに口にしてしまう。

 勢い話が流れていくのはよくあることで、そのために、教え役の目は厳しい。

 まぁ、授業が終わりさえすればいくらでも話をしてくれる好人物ではあるのだが。

 「怒られたー」とはにかむ幼女にうんと返し、香ちゃんと呼ばれた娘は傾聴に戻った。

 教示の声が再び教室に落ちる。


 うららかな午後。


 鳥のさえずりとともに皆が次のページをめくった、その時。

 障子の向こうの縁側を、何かが騒がしく走る音が響き渡った。


「我が子ぉおおお!」


 とんでもない大音量と共に、静寂が破られる。

 すぱーんと開かれる障子。

 あまりの力業に溝から飛び出て、縁側へばたんと倒れた。

 大人から子供まで、もう慣れきったような顔が、そろって『またか』とそちらを見る。


「我が子! 我が子はいるか?」


 男がいた。

 年の頃は、四十がらみか。

 ごうごうとした髭は黒々しく、楽しげな両目はぎょろりと大きい。

 動きやすい野袴のばかまをきっちりと着込んだ上背は見上げるほどの、荒々しい大男がそこに立っていた。

 突然乱入してきた男はせわしなく教室を眺めると、「香ちゃん」と呼ばれていた娘を見つけてぱっと笑う。


「おお! 見つけたぞ、我が子!」


「父よ、お声が過ぎます、お静かに」


「お館、教義中です、お静かに」


 娘が騒がしいのをとがめれば、教え役の注意も重なる。

 横の幼女がけらけらと男を指さし、教室中にも忍び笑いが広がった。

 しかし男は一切気にした風もなく、子供たちが笑うのと同じようにニカッと返すと、どすどすと教室に入り込んできた。


「我が子よ。 今朝方、使いをっただろう。 何故、呼んだに来ぬ?」


 心底不思議。

 少しばかり傷ついたといった顔で、娘の父は身をかがめてきいてくる。

 それにはぁ、と溜息を交え、娘は「お言葉ですが」と視線を返した。


「指定された刻限に部屋にらなんだのは、父上です。 私も塾の手伝いという仕事があります。 暇ではありません」


「我が子ながら、辛辣ぅううう!」


 ひゃ、は、は、は、は!

 楽しげに高笑いで答える辺り、反省もしていなければ、落ち込んでもいまい。

 娘は視線を遠くにやって、また溜息をつく。


「……学業中です、お静かに。 それで、お話の件ですか?」


 話を戻してやると、「ああ! 要事だ!」と、威勢のいい返事。

 ばっと身を起こした父は、両手を広げて破顔した。


「喜べ香流! お前の嫁ぎ先が決まった!」


「……はぁ?」


 庭先できじが鳴いた。





 まったくもって簡素な輿こし入れだった。

 三つの国を過ぎ、山間の道をゆく花嫁行列。

 十二の騎馬に、私物と嫁入り道具の入った葛籠つづらが四つ。

 少ない。

 常識的に考えても少なすぎる。

 娘の不憫ふびんを嘆いた香流の父は、「これではあんまりだ!」と騒いだが、母共々黙らせて最低限度にまとめたためにこうなった。

 旅は長い。

 道中の用の物も持って行かねばならぬし、余計な荷は抱え込めない。

 そもそも、目的地が遠い。

 香流の里がある国から、五つの国を越えた先だ。

 華の国・美弥みや

 その昔、いにしえの政権があった国である。

 馬に揺られながら、香流は父の能天気な顔を思い出していた。


『香流。 お前の嫁ぎ先は、美弥の『狩司衆かりつかしゅう』守護家・右治代うじしろの今代当主・右治代 忠守ただもり殿だ!』


『美弥の……?』


『おお! 名家だぞ! 名家!』


『…………』


 なるほど、相手は分かった。

 ただ、それ以上は父の大声では話にならず、香流は縁をまとめたらしい元凶へ、すぐさま連絡を取った。

 父も兄も、家系の男たちが皆属する、狩司衆。

 その最上位たるは、役を退いたかつての名狩猟者五人。

 通称・五老格ごろうかく

 老境に暇を持て余した、古狸どもだ。

 歴国の狩司衆筆頭を務めてきた中央の隠居たちは、手紙では面倒だからと香流を中央へ召喚してこう言った。




『香流、お前も今年十九。 行き遅れもいい所だ』


『親御方も行く末を案じておられるだろう?』


『あちらはよわい二十二。 年もそう離れていないよ』


『右治代は大きな家だ。 玉の輿だぞぉう? よかったなぁ』


 わっはっはっ!




「…………」

 馬上での回顧かいこを切り、香流は眉を寄せる。


 あの腐れ老いぼれども。

 こちらが貰い手のない身の上なのをいいことに、好き勝手なことを。

 爺だと甘く見たのが悪かったか。

 出てくるとき、耄碌もうろく狸の一喝くらい置き土産にしてやればよかった。


 つらつらと、悪言が脳裏をって行く。

 とはいえ、香流だって愚かではない。

 五老格が絡んだ話だ、裏がないわけも無かろう。

 そのくらいは見当がついていた。

 一介の行き遅れに良い嫁ぎ先を無償で探してやるほど、あの腐れ狸共の人柄がいいわけがないのである。




『それで、わざわざ呼んだのは私を祝うためでもないのでしょう。 ご本意は?』


 うんざりと話を進めれば、十の老猾ろうかいな目が、ぎらりと微笑む。


『お前は賢い子だねぇ。話が早くて助かる、助かる』


流石さすが、言葉が身も蓋もないと男たちを引かせてきただけはある』


『しかし、女子のさかしいのは良し悪しときた』


『男共が敬遠してきたのもうなづける』


『……それは今関係がないでしょう』


 自分の行き遅れを暗に笑われ、香流も冷えた声が出る。

 いい加減、話をしないならここに用はない。

 退席しようと腰を浮かせかければ、唯一笑っていただけの最長老がぱんと扇を閉じた。


『まぁまぁ、そう老体を邪険にするな。 本題に移ろう』


 真面目な声色に不承不承姿勢を正せば、探るような目が飛んできた。


『香流、賢いお前なら察しているだろう。 この婚姻、裏には別の思惑がある』


『美弥は知っての通り、歴三国の一角だ。 ただ、その規模には見合わず、中央の権威が届きにくい』


『美弥自体国力があり、過去に政権を持っていたという矜持きょうじから、中央にも高圧的』


『御上としても、付き合うには神経を使う相手なのだ』


『それは、我ら狩司衆とて同じこと』


『美弥の狩司衆筆頭・右治代家とは、あまり折り合いが良くない』


『そこで、此度こたびの婚姻というわけでな』


『――――つまり、私は中央からの間者なのですね?』


 考えつきたくも無かったが、香流は苦い顔で話を引き取る。

 狸たちは良い顔でにんまりと返してきた。

 いよいよ、ろくでもない話になってきたな。

 額をった香流は、うんざりと目を閉じた。




「香流」


 回想を打ち切る声が、香流を呼ぶ。

 ぼんやりとしていた頭を振って前へ目をやれば、左手前から、同じく馬に乗った兄の真殿まとのが近寄って来た。


「兄さま」


「考え事か? そんなに意識を空にやっていると、馬に落とされるぞ」


「爺共の勝手に頭が痛かったのです。 面倒を押し付けられた身にもなって下さい」


「いい様にあつらえられたからなぁ、お前。 まぁ、見方を変えれば、これ以上の縁はない。 素直に喜んでいたらどうだ?」


「後ろ暗い話を嬉々としてされて、そう喜べるものですか」


「だよなぁ」


 父譲りの大声で呵々大笑かかたいしょうする兄に、香流は溜息をつく。

 しかし、そうやって悲嘆にくれるのを、夕時の闇は待ってくれなかった。


「香流。 我が身を憐れむのも構わんがな。 も、そろそろお出ましだ」

 

 先ほどまでの屈託ない笑みから、獣を思わせる様な獰猛な顔に切り替え、真殿が刀のさやを握る。

 はっと顔を上げると、道はとうげへと差し掛かっていた。

 時、すでに夕暮れ。

 赤く染まる上り坂の先に、一つの影が佇んでいた。

 それは、野犬のように四足で構え、香流たちを見下ろしている。

 狼か? と、何も知らぬ人間なら見当を誤っただろう。

 だが、この国にそんな間違いをする者は、生まれたての赤子以外いない。


「出たか。 前の里でも、再三止められたからなぁ」


 来るだろうと思っていたと騎馬たちを止め、真殿が馬を降りる。

 獣じみた影は、唸り声でそれに応えた。

 鼓膜を嫌な具合に引っかく、おぞましい声だった。

 全身の皮膚が泡立ち、言いようのない居たたまれなさを掻き立てられる。

 そんな唸り。

 黒々した影を、真殿は手をひらめかせて、挑発する。


「いつまでも畜生のフリをするな、『爪無し』。 皮の下に引っ込めたその醜い面、見せてみろ」


 瞬間、獣をかたっていたそれは、沈黙した。

 声を潜め、墨を含んだように重たい毛足を逆立てる。


 ぶち、ぶちぶちぶちぶち、――――ぎょろっ


 気色の悪い音と共に、その背にいくつもの目がぷつぷつと見開かれる。

 円を描く眼球。

 中心に、ぬらり、暗い穴が開かれた。


 ギ、ギギギ、ギキシャァアアア!


 この世のモノとも思えぬ咆哮と共に、穴からいくつもの不規則な牙が生まれる。

 骨格を破り、皮を破り。

 異形となったそれは、ぬめつく唾液を滴らせた。

 

 ぁぉ、おオお、オ


「兄さま!」


 まずい。

 香流は鋭く声を上げようとした。

 しかし、真殿は妹の叫びを手で制する。

 同時に、歪な異形が大音声だいおんじょうの遠吠えを発した。


 オオオオオオオ!


 唸り波状は山野を震わせ、谷へと消える。

 びりびりとした音に顔を背けていた香流たちは、次に顔を上げた時、闇の色濃い木立の合間にいくつもの目を見つけた。


 ぐちゅり、ぐちゅり。


 肉を裂き変化する、数多の気味の悪い音。

 呼声に応え、群れと化した異形の大群に、香流たちは囲まれていた。


「兄さま、どうするおつもりですか」


 手綱を握り、兄を責める。

 それでも真殿は楽しげに刀で肩を叩いた。


「どうするもこうするもないさ。 全部切るだけだ。 だってそうだろう? 俺たちは何だ」


 香流を守るように囲む騎馬から、帯刀した男たちが足を下ろす。

 真殿に似て、一本の刀の他に何も持たず、動きやすい衣装に身を包んだ武人たち。

 その背には、一様の紋が描かれていた。


「若ぁ。 旅に飽いていたとはいえ、余計なものを呼ばんで下さいよ」


「あーあ、どうするんです? 日没までに次の里へ入れませんね、これ」


「私、着替え持ってんかったんですよねぇ。 汚れたら若、私の分まで洗って下さいます?」


「そりゃいい、俺のも頼みますよ、若!」


「……おい、お前ら」


 好き勝手軽口を叩く配下たちに、流石の真殿も目を半眼にする。

 隊のかしらをおちょくれたのが余程楽しかったのか、男たちはくすくすと笑って陣形を取った。


「まぁ、この量ならすぐに終わりますよ。 しばしお待ちを、嫁御殿」


「慎ましいとは言え、花嫁行列だ。 汚さぬようにせねばなぁ」


 香流のそばに付いた二人が言い、残りは真殿に従って異形の群れに向き合った。


「さぁ、『飢神きじん』共。 一つ、体慣らしに付き合ってもらおうか」


 真殿がほくそ笑み、最初の異形――――飢神がときの声を上げる。

 群れ立つ木々の合間から飛び出でる、いくつもの影。

 香流は、それを馬上で緊張して見つめた。





『飢神』


 それはこの嘉元国に住まう、人とも獣とも違う、異形の化物。

 大抵が人を恐れる獣と違って、その狙う獲物は並みの血肉ではない。

 人食いのこれらは、一つの道を極めんと己の技を研ぎ澄ませる者――――『業人わざびと』と呼ばれる人間の肉を好んで食らう。

 剣技を極める武士、工技を極める鍛冶や細工師といった匠、芸事の者、僧侶など。

 道を突き詰める者が精神と体に宿してゆく経験――――『れん』という気を宿した肉を捕食する。

 そのために、練を積んだ者は飢神の垂涎すいぜんたる標的となってしまう。

 しかし、それは飢神にとっても悪因である。

 飢神は、業人を食いたいという欲求を押さえられない。

 それが例え、研鑽を積み、己を狩る類の人間だとしても。






「狙う相手が悪かったな、飢神ども。 減っている腹は寂しかろうが、それももう少しの間だ」


 構える真殿が、手を振るう。

 飛び込んでくる飢神たちが、空中で一瞬固まった。

 瞬き一つ。

 その体は形を崩し、ぼたぼたと地に落ちる。

 鋭利なものに切り裂かれた肉片の間から、どくどくと仄かに発光する臓器が転がり出た。


 ぐしゃり、ぐしゃり!


灯臓ひぞう』と呼ばれる飢神の核を踏みつぶし、目に見えぬ速さで飢神を切った狩士かりしたちは返り血を拭う。

 皆が等しく、ぎらついて己の獲物を睨み見ていた。


「貴様らも、腹のき具合で分かるだろう。 この真殿直々に率いる狩司衆、そうそう相手取れる階位ではないぞ。 喜べ、死ぬには華々しい相手だ」


 配下を率い、真殿は声を張る。

 飢神たちはだらだらと垂れる唾液を止められぬまま、怯えたように一歩退いた。

 形勢がどちらに分があるのかは、明らかだ。

 真殿が、飢えた配下の首輪を放つ。

 風のように地を蹴る影が、夕闇に踊った。


「この刀が、貴様らに引導を渡してやる」


 一閃の白刃。

 暗い血飛沫が走る。

 断末魔を上げる飢神の群れ。

 夕日の赤をより深く染める色に、守られる香流は身を固くして息を潜めていた。





 古より、この国には飢神を専門に相手どってきた、飢神狩りの集団がいた。

 各国に根を下ろす武の一門は、国主を守る近衛衆このえしゅうと対を成して、人の里を飢神から守ってきた。

 一本の刀とわずかなよろい

 家紋を背負うのみの身軽な体で隊を成し、極めた剣技を宿す己の血肉をえさに飢神を誘う。

 長き世を化生の者と渡り合ってきた狩人たち。

 彼らはいつの頃からか、人にこう呼ばれるようになっていった――――『狩司衆』と。

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