第43話 管理人

「管理人」

 その言葉は、ヴェスターにとって決して冷たい響きのものではなかった。管理人は、要はシーグリッドのことだ。自分を生み出してくれた、母親のような存在。


 彼女、シーグリッド・エルヴェスタムは、大人になっても少女のような愛らしさと純朴さを持った不思議な人だった。少女のようによく笑い、よく歌い、よく踊る人だった。


「この場所では、身分も性別も人種も関係ない。みんなが学べて、みんなが知識を共有できる場所。あなたはそういう場所になるのよ」


 生き物、特に哺乳類でいうと、母の胎内にいるような状態の時だったろうか。その時に、優しい声がくれた祝福。生まれ出でた者への言祝ぎ。それが最初の記憶。


「よし決めたっ。私の苗字を取って……エルヴェスタム・デ・エスタンテ!」


 優しい声は、次に名前を与えてくれた。それが二番目の記憶。彼女から役割と名を与えられ、魔女の本棚エルヴェスタム・デ・エスタンテは生まれた。


 シーグリッドは、ヴェスターに名前と存在意義を与えてくれただけではなかった。我が子を愛しむように、我が子に教えを授けるように、後に図書迷宮と呼ばれるようになる、生まれたばかりの魔法に愛と熱意を注ぎ込んだ。それから幾年も経て、ただ『場所』を形成するだけの空っぽだったその魔法は、彼女の愛と熱意でその器を満たし、人々から叡智の殿堂と称されるほどの図書館へと成長した。


 けれど。


 ヴェスターは今でも覚えていた。彼女の声が、姿が、気配が、途絶えた日のことを。それが「死」であることを、あの日悟った。それを境に、己が抑えられなくなった。己を満たしていた“存在”が、消えていく。その恐怖と凍えるような寒さに、我を失ったのだ。


 管理人を失い、暴走した魔力は、外部から際限なく知識を取り込む怪物と成り果てた。図書館としての役割が一つ、「書物の収集」。本能とも呼ぶべきそれが極端に肥大化した結果だった。

  

 貪るように、奪うように、手折るように、引き千切るように、外部に存在する書物から、書物を書物たらしめる文字を吸い尽くした。己の体内を巡る血液の如き文字を奪われた書物たちは、干からび、空っぽになった。文字を、知識を、収める場所というだけの、肝心の中身がない紙と革でできた“モノ”に。図書迷宮を構成する魔力はそれを見て笑った。自分とは正反対だと。自分の器は美しい叡智で満たされているのに、彼らときたらただの紙くずだと笑った。自分で奪っておきながら、その姿を見て笑った。笑っては奪った。奪っては笑った。残酷に奪い続けた。もうすでに、叡智の殿堂と称されるほどの書物を収めていてもなお奪い続けた。外に存在する書物を全て取り込もうかというほどの勢いで。


 自分は満たされている。どこの本にも、どこの図書館にも負けないくらい。満たされている。図書迷宮を形成する魔力は、肉体を持たぬが故人々には届かぬ声で叫び続けた。


「どれほど文字の羅列を奪おうと、お前は満たされない。なぜなら、お前が本当に欲しいのはそんなものじゃないからだ」


 ある日、シーグリッドの弟子であった魔法使いが、荒ぶる魔力の前でそう言った。


「お前はまるで、母を亡くし、周囲に八つ当たりしながら泣き叫ぶ幼子のようだ。だが、いくら暴れても、母はもう二度とお前の前には現れない。誰の前にもだ。彼女はもう、いないから」


 いない。ない。何もない。気がつくと、外への扉は閉ざされ、図書迷宮は空っぽになっていた。誰にも読まれることのない書物が押し込まれただけの、虚しく悲しい叡智の殿堂。あんなに満たされていると思っていたのに、今の自分の器は空だと、図書迷宮を構成する魔力は気がついた。愛を注いでくれた人を失い、暴れ、結果として、誰からも愛されない、誰からも顧みられない、空虚な存在になってしまったのだと。


 気の遠くなるような年月が流れた。その途上、外への扉が再び開いたことがあった。誰かが、来てくれた。シーグリッドでないことはわかっていたが、この寂しい場所に誰かが来てくれた。その事実に魔力は歓喜した。だが、訪れた者は去った。守られることのなかった約束を残して。


 一人は、もう嫌だった。次に外への扉が開いたとき、魔力は書物に収められた文字のみならず、人をも取り込んだ。閉じ込めた。そうすれば、満たされると思った。戻れると思った。あの人が生きていた頃の自分に。なのに、空っぽだった。人々は怯え、閉じこもり、本を読もうともしない。どうしてだろう。何がいけないのだろう。そんな風に思っていた時、あの子は現れた。銀の髪をした、あの子が。


「あなたは、何者ですか」


 怯えをこらえ、それでも信じようとするような、不思議な目で、あの子は自分を見上げてきた。


 シーグリッドとは正反対だった。彼女は笑わないし、歌わないし、踊らない。


 シーグリッドよりずっとずっと若いのに、少女らしい愛らしさも持ち合わせてはいない。けれど、同じだった。似ていないけれど、同じだった。空っぽだった自分を、もう一度満たしてくれた。


「エルヴェスタム・デ・エスタンテ。とても良い名前だけど、長いわね。……エル

ヴェスタムから少し拝借して……ヴェスターって、呼んでもいい?」


 遠慮がちに、少し不安そうな声で、彼女はそう尋ねた。拒絶する理由などどこにもなかった。名前をくれたあの人を、母のようなあの人を、彼女の影をどこかでずっと追い続けてきた。それが故に孤独となり、空っぽになった自分という器を再び満たそうと手を取ってくれたその人の贈り物を、拒絶する理由など。



「管理人は、メルが一番ふさわしい。もう一度、僕を僕たらしめようとしてくれた、君が。だからどうか、鍵を所有し、管理人になってもらいたい。」


 ポツポツと胸中を漏らしたヴェスターは、メルを見据えてそう締めくくった。


 メルは、ヴェスターの目を彼と同じようにまっすぐに見返した。


「あなたの居場所を、我が身可愛さに吐いてしまったような、そんな弱い私で、本当にいいの?」


「メルは、弱くなんかないよ」


 ヴェスターは身を乗り出した。小さな猫の体で、精一杯主張するように。


「僕を守ろうとするメルの気持ちは本物だって、僕は知ってるもの。そうじゃなきゃ、王城でコルキアに襲われた時、身を挺して僕をかばうはずないもの。そんな怖い思いをしたのに、非力な自分を悔いたり、それでも守りたいって言ったりしないもの、そんなにボロボロになるまで自分の気持ちを踏みにじるような暴力に、耐えたりしないもの……メルは、強い、強いよ」


 ヴェスターの、瞳から、一つ二つと雫が溢れる。それはシーツを濡らす前に、淡い星々のきらめきとなって、宙に霧散する。


「それにさ……自分の身を守りたいって思いと、他の誰かを守りたいって思いは、一緒にあっちゃいけないの?共存できないの?そんなのおかしいよ。だってどっちも、すごく尊くて大切なものだもの」


 いつの間にか、窓の外には夜の帳が降り始めていた。薄い紫色のベールが淡い夕暮れ色を優しく溶かし、黄昏の終わりを告げる。


 それまでずっと言葉を封じ、メルとヴェスターの両者の会話に割って入ることのなかったミシェルが、不意に口を開いた。


「そう。どちらも尊いものだ。皆、自分の身は可愛い。危機に貧すれば、自分の身を守ろうとする。けれど、己を犠牲にしてでも守りたい誰かだっている。その二つの気持ちは、矛盾しているけれど、いつだって人の心に共存しているんだ。ゆえに人は悩む。時には、誰かを救うために、自己犠牲という名の英雄的行動をとれる人もいるけれど、皆がそうではない。そうでないからといって、その人が醜いわけでも弱いわけでもない。相反する気持ちを抱え、迷いながら生きている。そこに強弱や優劣の概念は、きっと必要ないんだよ」


 ミシェルの双眸は、目の前のメルとヴェスターではなく、街並みが広がっているはずの、窓の外へと向けられている。


 いずれ父の後を継ぎ、この国と民を背負う彼は今、何を考えているのだろうかと、メルは目を細めた。それから、足元にいるヴェスターに向かって、両手を差し出した。ヴェスターの前足の下に手を入れて、そっと体を持ち上げる。


「メル?」


 目を丸くするヴェスターを膝の上に乗せ、メルはぎゅっと抱きしめた。


「ヴェスターは、どうしても私じゃなきゃ嫌なのね?」


「うん」


 ヴェスターは幼子のように頷いた。


「メルなら安心して、鍵を託せるから」

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