第42話 君でないと

 病室の窓の外は、淡い橙色に染まっていた。ほの紅い絵の具を、水分を多く含んだ絵筆に垂らし、群青色のキャンパスに無造作にさっと引いたような、そんな具合だった。


 メルは一人、ぼんやりとそれを眺めていた。祖母とシャーロットは昼過ぎにはもう帰ってしまい、話し相手もいない。特段人と話すのが好きという性分でもなかったが、そろそろ開院時間も差し迫ってきた静かな病院は、なんとなく寂しい気持ちにさせる。


 メルは小さく息を吐いてから、できるだけ体を動かさないよう注意を払って、枕もとの机に手を伸ばす。そこには、祖母が暇つぶしにでもと家から持ってきてくれた大衆小説が数冊、平積みになって置かれている。メルは、迷うそぶりもなく、一番上に積まれている小説を手に取った。メルが贔屓にしている女流作家、ノエル・ステリーの新作小説だ。


 仕事でよく扱う古びた革張りの書物とは違い、大衆小説は軽くて小ぶり、手になじみやすい。慣れた手つきで表紙をめくり、栞を挟んでいた箇所から読み始める。

 

 そうしてしばらくの間、病室に紙を繰る音が響いた。だが、しばらく経つと別の音も混じり始めた。病室の外から、足音が近づいてくる。看護師が見回りにきたのだろうかと、メルが顔を上げると同時、ノックする音がした。「どうぞ」とメルが告げると、続いて病室の戸が開く。その先にいたのは、銀縁の眼鏡をかけた見知らぬ青年だった。だが、明るいブロンドの髪はどことなく見覚えがある気がした。


 彼は、パリッとした白シャツに深い灰色の洋袴とブーツを合わせ、上等そうなジャケットを羽織っている。良いところの坊ちゃんが、服の雰囲気だけ庶民に似せてみた格好、という風な印象をメルは抱いた。ついでに、なぜか右手に大きな

バスケットを持っているのが気にかかった。


「失礼します。メル・アボットさんで、お間違いないですか?」


 青年は柔らかな声音で、メルが口を開くよりも早く切り出してきた。メルは生来の人見知りを発揮しかけたが、なんとか「はい」とだけ答える。その時、青年がもったバスケットが大きく揺れ動き、中から黒い毛玉がひょっこり顔をのぞかせた。


「ヴェスター!?」


 緑の瞳をした黒猫の登場に、メルは怪我の具合も忘れて大きく身を乗り出した。


「そうだよ、メル。ビックリした?」


 えへへとイタズラっ子のように笑いながら、ヴェスターはバスケットから飛び出して、メルの横たわるベッドの上へよじ登った。


「我慢できなくて、彼に連れてきてもらったんだ。ステイシーじゃ、病院に動物の同伴は許されてないからとかなんとか言って、到底無理そうだったから。僕、動物じゃなくて魔力なんだけどな」


「彼……?」


 メルはヴェスターから見知らぬ青年へと視線を移した。


「あれ?メルわからない?知ってる人だよ」


 知り合いの中で銀縁の眼鏡をかけた人はミス・ヘインズだけなのだが、とメルは困惑する。


「えっと、失礼ですがどな……」


 言いかけるメルを遮るようにして、ヴェスターが「ちょっと待った」と強く声を上げる。


「メル、ほらよく見て、この顔、見たことない?」


 メルは不躾なのは重々承知で、ヴェスターと共に青年の顔を凝視する。青年はさすがに恥ずかしくなったのか、苦笑しながら眼鏡をさっと外した。露わになった素顔を見て、メルは「あっ」と声をあげて取り乱した。


「ミシェル王子!?どういうこと!?」


 自分でもおかしくなるほど上ずった声をあげ、メルはヴェスターに問い詰める。


「だから、ミシェルに頼んで僕が隠れたバスケットを病院まで運んでもらったんだよ」


「いや、だから、なんでそこで王子が出てくるの?」


 しかも気安く「ミシェル」だなんて。相手は王族なのに。しかも次期王位継承者の。


「あれ、ステイシーとかシャーロットから聞いてなかった?ミシェルが王様にとりなしてくれたんだよ。僕の再封印を」


 そうだった、とメルは昼間の話を思い出す。王子はヴェスターのことをいたく気に入ったとかなんとかと、祖母が話していた。いや、それでもなぜミシェル王子自身がわざわざヴェスターの頼みを聞いてやっているのだろう。そんなもの従者にやらせておけば済むことのように思えるのだが。


 メルの困惑は口に出さずとも伝わったのか、王子は「驚かせてすみません」と、一庶民に過ぎないメルに向かって丁寧な言葉遣いで告げる。


「ヴェスターからあなたの話を聞いて、ぜひ会ってみたかったのです。それで今

日、意識が戻ったと聞き、お見舞いも兼ねて、ヴェスターと共にやってまいりました。もう直ぐ病院が閉まるような遅い時刻に、すみません」


「いえ、お構いなく」


 王族に対する適切な態度など知らぬメルは、とりあえず仕事の調子で受け答えを交わすが、緊張のため口調はいつもよりもはるかに硬い。


「あなたがよろしければ、少しお話をしても?」


「はい、もちろんです」


 メルの了承を受け、ミシェル王子はベッド横の椅子に座った。ちなみにその椅子は、昼間シャーロットが腰掛けていた椅子である。自分が座った椅子に王子も座ったと聞いたら、シャーロットは嬉しさと興奮の混じった悲鳴をあげてひっくり返るかもしれないなどと、緊張しているのになぜかそんな考えが脳裏に浮かんできて大いに困る。


「改めまして、私は、ミシェル・アルドレッジ・リヴレ。ご存知の通り、第一王子で、次期王位継承者です。あ、あとそれと、私がここに来たことは、どうぞ御内密に」


 そっと品の良い仕草で、ミシェルは唇に人差し指を押し当て微笑を浮かべた。その時だけ、王子というよりかは悪巧みをする優雅な盗賊のような印象に様変わりする。メルは目をパチパチさせながら、「口外は致しません」と頷いた。


 ミシェルは姿勢を正してから、話を続ける。


「あなたのことは、ヴェスターから伺っています。長い孤独に閉ざされ、暴走状態にあった彼を救ったのは、他ならぬあなた自身であり、今回のコルキアの一件についても、危険を顧みずにヴェスターを守ったとか」


「守っただなんて……私はそんな大それたことをしたとは思っていません。それに……」


 メルは目を伏せ、キュッと唇を引き結んだ後、再び視線をミシェルへ向ける。


「王都での騒動は、私の責任です」


 ミシェルは虚をつかれたような顔をしてから、「それは、どういう意味です……?」と聞き返してきた。


「私が、コルキアに教えてしまったんです。ヴェスターの居場所を。己が身の可愛さに……恥ずべきことです」


「それは、あなたの責任ではないと思いますよ」 


 ミシェルはゆっくりと、一音一音を噛んで言い含めるようにメルをなだめた。


「コルキアに拷問を受けたことは、聞き及んでいます。その時に負った怪我で、ここに入院していることも。むしろあなたは被害者で己を責める必要は……」


 ミシェルは、不意に言葉を閉じた。かすかに息を吐いてから、うつむいた姿勢のまま微動だにしないメルを見つめた。


「……そうは言っても、あなたが自分を責めてしまう気持ちは、わからないわけじゃない。僕があなたの立場なら、同じことを思ったはずです。周囲から、自分を責める必要はないと耳にタコができるほど言われたとしても、私は自分を責めてしまう。あなたもきっと、そういう人だ」


 ミシェルが、メルに向かって静かな声で語りかている間、ヴェスターはメルの足元でじっと座っていた。動きといえば、緑の宝玉の如き瞳が、時折瞬きを繰り返す動作だけだ。そうしていると、普通の猫のようだった。けれど、夕日を浴びて黄昏色にぼんやりと染まる黒い毛の輪郭と、知性と理性を秘めた瞳が随分と神秘的なものに見えた。


「だから、僕が今あなたに言うべき言葉に、さっきの慰めの言葉は当てはまらないでしょう。そもそも僕は、それを言うために、ここへ来たわけじゃない。あなたのお見舞いと、……ある意向を伝えるために、ここに来た」


「意向?」


 メルがピクリと顔を上げる。


「そうです」


 一国の王子が、ただの図書館司書にどんな意向を伝えるというのか、メルにはとんと検討もつかなかった。


「と言うか、これはヴェスターの意向と言うべきなんですけどね。ですが、一応彼は、王室ひいては王立図書館が所持しているものですので、ヴェスターとあなたの間のみで勝手にやりとりするのも少々問題だ」


「……あの、話が見えないのですが」


 困惑したメルは、助けを求めるようにさっきからだんまりを決め込んでいるヴェスターへ視線を泳がす。だが、ヴェスターはやっぱり何も言わない。そうこうしていると、ミシェルが鷹揚に告げた。


「あなたには、図書迷宮の管理人になってもらいたい」


 じっとしていたヴェスターが、不意に顔を上げた。メルを見上げるその目に、そっと期待が込められる。その視線に気づかないままま、メルは「管理人」という言葉を受け止めた。


「……それは、具体的に私に何を望んでいるのですか」


「図書迷宮の鍵を所有してもらいたい」


 メルの質問に、ミシェルは即答した。


「かつて、鍵は図書迷宮の生みの親であり、管理人であるシーグリッド・エルヴェスタムの所有下にあった。彼女の死後、鍵は彼女の弟子に譲られる予定だったけれど……あなたもご存知の通り、それどころではなくなった。鍵は封印の道具と化し、当初は王家が、続いて、王立図書館の下で厳重に管理されるようになった。それは今でも続いている。私としては、この現状をわざわざ変える必要はないという考えなのですが」


 ミシェルの顔が、ベッドの上で香箱座りをしているヴェスターへ向けられる。


「他ならぬ彼の意思を、尊重したいと思いまして」


「ヴェスターの」


 二人の視線を受け止め、ヴェスターはようやく口を開いた。


「オレリアに言われたんだ。鍵の持ち主は自分で選べって。一番信頼できる人に。そう考えたら、メルしか思い浮かばなかった。今回の騒動を経ても、その気持ちは変わってない。鍵の持ち主は、メルでないとダメなんだ」


 まっすぐな目をして、ヴェスターは言い切った。

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