第41話 まどろむ
「なあ、あんた。あんたが、最近うちで雇った使用人だな」
コルキアがお屋敷の庭で白いシーツを干していると、ぞんざいな声がどこからか降ってきた。
コルキアは、懸命にシーツを伸ばしていた手を止めて、周囲をキョロキョロ伺い、声の主を探す。すると声の主は、おかしそうに「上だよ、上」と笑いかけてきた。
上、と言われて思い当たるのは、そばに立つ樫の木だけだった。コルキアは顔を上げ、節くれた腕を伸ばしてこちらに影を落とす木を見上げた。その木の太い枝の上に、利発そうな顔をした若い男が寝そべっていた。今年で十六になるコルキアよりも、少し年上といったところか。その男は、木の幹に背中を預け、膝の上に一冊の書物を置いていた。
くしゃくしゃとした黒髪に、猫のような吊り目型の瞳、品の良い輪郭に縁取られたその顔。コルキアは、彼の顔に見覚えのあることに気づいた。育ての親が死に、村はずれの貴族の別荘に雇われた日に一度だけ見た人だ。この屋敷の主人・フェシリアル卿の息子。名はアルオンといったか。療養でこちらの別荘に来ているとのことだったが、木に登っていて大丈夫なのだろうか。
コルキアがバカみたいにぽかんと少年——アルオンを見上げている間に、彼は木の上で伸びをし、左手で本を持ち右手を支えにして、滑らかな動作で地面に降りてきた。コルキアは驚いて後ずさる。コルキアのその動きは、さながら人に不慣れな野生の小動物のようだった。
「なあ、話しかけてるんだけど、俺の声聞こえてる?」
怯えた様子のコルキアに意表を突かれたのか、目を丸くしたアルオンだったが、すぐにまたぞんざいな口調で話しかけてきた。
コルキアは指先でメイド服のフリルをもじもじといじりながら、首をカクカク振ってそれに答える。不意に、アルオンは眉をひそめ、ずい、とコルキアの方へ身を寄せてきた。再び後ずさろうとするコルキアの腕を少々強引に掴み、珍しい生き物でも見るような目をして見つめてくる。それからいきなり、顔に向かって手を伸ばしてきた。コルキアは腕をひねってアルオンから逃れようとするが、さすがに年上の男性の力には及びもしない。とりあえずぎゅっと目を閉じるくらいしか、コルキアにできることはなかった。
何をされるのかと、コルキアは怯える。相手は雇い主の息子だ。逆らうことなどできようはずもない。ひどいことをされても泣き寝入りだ。しかし、事態はコルキアの予想するような展開にはならなかった。目を閉じた暗闇の世界の中、不意に額に暖かく柔らかなものを感じ、コルキアは目を開ける。すると、気難しい顔をしてコルキアの額に手を添えるアルオンの顔がすぐ近くにあった。
「やっぱりな。傷になってる」
アルオンに軽く額の一箇所を撫でられると、チリチリとした鈍い痛みが走った。コルキアはバッと自分の額をかばうように両手を額にかざして後ずさる。いつの間にか、コルキアの腕を掴んでいたアルオンの手は離れていた。
アルオンはため息をつく。
「そんなにビビるなよ。あんたがこの間、村のやつらに石を投げられてるのを見かけたのを思い出したんだよ。なんか、顔に当たってたような気がして……」
アルオンが話している間に、コルキアは樫の木の後ろに回り込んでいた。アルオンは頭をかきながら、幹から飛び出たコルキアの衣装に向かって話しかける。
「なあ、あんたなんでそんなに怯えてるんだ。というか、なんで村のやつらに石投げられてたんだ。罪人の娘か何かか」
コルキアは幹の向こうで頭を左右に振る。しかし、これでは向こうにいるアルオンに伝わらないことに気づいたので、すごすごと出てきた。
「違う」
「じゃあ何で?あんた悪いやつなのか」
持っていた本の角で肩をトントンと叩きながら、アルオンは気だるげに問いかけてくる。
コルキアは「それは……」と歯切れ悪く答えた。
「私が……呪われ子だから。不吉だと、みんな嫌う」
「呪われ子」
アルオンは首をひねる。それから、なぜかぷっと吹き出した。
「なるほどな、村の連中は、自分たちとは違うあんたを怖がってるってわけだ」
自分たちとは違う、その言葉にコルキアは目を伏せ、ほとんど無意識に髪の毛先に触れた。炭でもかぶったようにみっともないと、ある村人から揶揄された大嫌いな真っ黒髪だ。アルオンも黒い髪をしているが、コルキアの黒髪とは全然違っている。そして、髪と同じくらい、いやそれ以上に自分の目も嫌だった。凝結した血のような、暗い赤色をした瞳が。この珍しい身体的特徴が呪われ子の証のように、コルキアには思えてならない。今、アルオンがコルキアの髪や目のことを言っているのではないと理解していたが、みんなと違うと言われれば、真っ先に思い浮かぶのは髪と目の色のことだった。
「田舎も都会も変わりゃしねえな。どこだってみんな、普通から外れてるもんを怖がって攻撃するんだ。あんたも災難だな」
全然災難だと思ってもいない軽い調子で同意を促されてもと、コルキアは無言で口を真一文字に結ぶ。アルオンは構わずに続けた。
「俺もだよ。貴族の中じゃ変わり種で、同類からは多分見放されてる」
不意に口をつぐみ、アルオンはうつむくコルキアを吊り目に似合わぬ柔らかな眼差しで見つめた。それから鷹揚に口を開く。
「……また来るよ、また話に来る。話し相手がいないから退屈してたんだ。ん」
言葉とともに唐突に差し出されたのは、さっきからずっと彼が持っていた一冊の本だった。コルキアは困惑しながらもそれを受け取る。
「あんたがどんな奴か、知りたいんだ」
そう言ったアルオンの顔を、コルキアは不思議そうに見上げた。
*
まどろみの中で見る夢は、昔の記憶に基づいた夢だった。夢の中の、初めて出会ったアルオンも、実際の彼と同様に、よくわからない人物だった。貴族の息子だというのに、およそ上品とは言えない言葉遣いをして、その辺の田舎者のように木の上に登って、コルキアに話しかけてきた。夢でも現実でも、第一印象は、良いとも悪いとも言えなかった。ただひとつ確かなのは、コルキアにあんな風に話しかけてきた人物は、後にも先にも彼だけだったということだ。
「変な奴だ……。向こうも私を、最初そう思っていたのかもしれないな」
冷たい牢獄の中で、コルキアは目を閉じ、このまどろみにしばし身を任せた。夢の内容は、現実で起こったことと全く同じではなかった。あの時、彼は別れ際に本を渡してなど来なかったはずだ。後々、コルキアに本を貸してくれることはあったが。初めて会った日は、本の貸し借りはなかった。会話の内容も、少し違っていたようにも思える。
「……ど私は君と、どんな会話をしたのだっけ」
力なく声を吐き出し、コルキアは寝返りを打つ。豪奢なフリルのついた漆黒の衣装を着ていても、監獄の冷たい床は容赦なくコルキアの華奢な体を凍えさせる。
「もう……思い出せないのか。私はあなたと……そもそも昔の私は、あんなに大人しかったかな」
彼と初めて会ってから、どれほどの歳月が過ぎたのだろう。少なくとも二百年は経っているはずだった。自分のせいで死なせてしまった生き返らせたい人との思い出が風化しかけていることに、コルキアは今更気づいた。
「忘れたくない……。アルオン、あなたを、忘れたくなんかない」
コルキアは額にかかった前髪を右手で払いのけて、額にそっと触れた。覚えている。飛んできた石につけられた傷に触れた、彼の指のぬくもりと感触は。あの夜、不意に切なげな眼差しで、「愛してる」と言った彼の声だって、覚えている。コルキアは、まだしっかりと覚えている彼との思い出を指折り数え始める。けれど、思い出が指の隙間からこぼれてゆく錯覚に襲われて、すぐにやめた。
「……私は、何をしているのだろう」
虚ろな目で、己の指先を見据える。
本当に、百年以上にもわたり、自分は何をやっていたのか。クロヴィスという外道に唆され、愚かな行為をしていただけではないのか。ただ、人並みの幸せを手に入れたかっただけなのに、 魔女と恐れられ、手足に鎖を巻かれ、陽の光すら届かない檻の中に囚われている、今の自分の様は何だ。
ぎゅっと、固く目を閉じる。悪夢ならいいのにと。
目を開ければ、自分は呪われてなんかなくて、アルオンも死んでいなくて、ただ穏やかな生活が、そこにあればいいのに。
「先生……私はどこに、この気持ちを吐き出せば良いのですか」
孤児だった自分を育ててくれた、今は亡き人物に問いかけてみても、答えは何も帰ってこない。代わりに、癪にさわるあの銀髪の少女の顔が浮かんだ。
あんなにいたぶってやったのに、人を激しく憎むということを知らないような綺麗な目をして、同情してきたあの娘。何もかもが、自分とは違いすぎた。
「お前にだけは、吐き出すものか。メル・アボット……、お前にだけは」
図書迷宮のそばにいたあの少女のことを、図書迷宮以上に、注視してしまっていた自分に、コルキアは気づいてしまった。これまで関わることのなかった、自分と年近い少女がどんな風に暮らしているのか、そこを見てしまった。
羨ましかった。羨ましかったのだ。憎らしいほどに。
そしてそれを憎らしく思う自分が、ひどく惨めで、たまらなかった。
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