第37話 見知らぬ男

「ない」


 コルキアは、光る文字列で構成された繭の無言の答えを、正しく読み取った。それから、「ない」と、もう一度つぶやく。


 大樹にたどり着き、今まで自分が死力を尽くして研究してきてなお得られなかった答えは、かつて英知の殿堂とまで評されたこの魔法の図書館を持ってしても知ることはできなかった。答えを知るためのヒントすらもなかった。その冷たい現実が、じわじわと身と心を蝕んでゆく。


「ここになら、あると」


 コルキアは、肩を小刻みに震わせる。


「ここにならあると、お前は言っただろう、クロヴィス」


 虚空に向かって、コルキアは呼びかける。


「お前がいることは、もうわかっているぞ」


 呼びかけに答えたのは、下卑た笑い声だった。聞く者全てを不愉快にさせるようなその笑い声の持ち主は、気怠げにコルキアの頭上の枝に腰掛けていた。


「私のせいにしないでくださいよ」


 夜会服を着た男。その男は、秀麗な顔に下卑た笑みを張り付かせたままコルキアを見下ろしている。笑い声とは打って変わり、その声音は蠱惑的なほど美しかった。


「図書迷宮になかったのなら、他を探せばいい。それだけのことでしょう」


「他だと?それはどこだ。もう図書迷宮以外は全て探し尽くしたというのに」


 クロヴィスという名の男は、人差し指を立てて、舌を鳴らす。


「コルキア、この世界は広いですよ。このメルス大陸が全てではない」


「別の大陸か」


「ええ、そこになら、きっとあるでしょう」


 コルキアは不快そうに顔を歪め、クロヴィスの元へ歩み寄り、彼の双眸を見上げた。この男の目は、目深にかぶったシルクハットのせいで通常では見えないが、この角度からは、彼の目を見ることができた。コルキアの暗赤色とは違う、鮮やかな赤い色を灯した目が。


「お前はいつだってそう言ってきた。きっとある、どこかにある、あそこにならある、と。死者蘇生の法と、私の呪いを解く法、その二つにつながりそうな情報なら何でも教えてくれた。だが、未だにその情報が当たりだったことは一つとしてない。一体、お前と私はこんな茶番をあと何百年続けるのだ」


「もちろん、見つかるまでですよ」


「お前」 


 険しさを増した眼が、クロヴィスを睨め上げる。


「見つけさせる気がないんじゃないのか」


「ご冗談を」


 膝を叩いて笑ったクロヴィスに、コルキアは鎌を突きつけた。途端、クロヴィスの哄笑がピタリと止む。口に張り付いた下卑た笑みも、すうっと薄くなって消

えた。


「何の真似です」


「これまで、この大陸で調べていないのは数百年前に異国で封じられている図書迷宮だけだと思っていたが、どうも違っていたらしい。お前をまだ、調べていなかった。……図書迷宮、このクロヴィスという名の男は何者だ!」


 それまで静かに喋っていたコルキアの声音が、最後の問いに向かうにつれて苛烈さを増し、やがて弾けた。


 彼女の背後で、不可思議な光の繭から糸が紡ぎ出される。それは、コルキアの体を中心にクルクルと円を描きながら、彼女の全身をすっぽりと包んでしまった。コルキアは、自身の視界を覆い尽くした「糸」を形成している文字列、すなわち文字を目で追う。そこには、「クロヴィス」という名前の人物に関するありとあらゆることが書かれていた。凄まじい情報の洪水に圧倒されながらも、コルキアはその中心で問うた。


「夜会服を着た男、美しい声、品のない笑い方、どこにでも現れてすぐ消える、何百年もの時を生きる、この化け物は一体なんだ」


 次第に、文字の量が減ってきた。関係のない文字列は光の繭内部へスルスルと戻って行き、代わりに別の文章が現れる。いや、文章ですらない。一つの単語だ。それは異国の言葉で綴られていた。それは、このリヴレ王国でも、コルキアの祖国、ミーレンス王国のものでもなかった。


 コルキアはしばしその文字列を見つめ、指先でそっとなぞった。





「コルキアは今頃、落胆しているかしら」


 大樹に繋がる長い階段を、メルはヴェスターを抱きかかえて登っていた。メルもヴェスターも、互いに満身創痍だった。ヴェスターの助言で止血の処置は施したものの、相変わらず傷口がじくじくと痛む。ヴェスターは外傷こそないものの、ぐったりとしていた。無理もないだろう。街のランドマークでもある時計塔が崩壊する勢いで叩きつけられたのだから。


「だろうね。あそこまでして僕を求めていたんだ。ないと分かれば……」


 その先は言わず、ヴェスターは別のことを言った。


「ねえ、自分で歩くよ。メル。メルも怪我してるんだから」


「いい」


 頑なにそう言ったきり、メルはヴェスターの体を離さなかった。こういうときのメルは大抵何を言っても耳を貸さないのは、これまでの付き合いで何となくわかってきていた。ヴェスターもそれ以上は言わない。


 しばらく無言が続いた。その間もメルは止まらず、黙々と階段を登り続ける。やがて、メルは「私ね」と唐突に切り出した。


「今回のこの騒動に関わることで、ヴェスターにまだ話してないことがあるの」


「なんだい」


「コルキアと出会う直前。パーティで、こんな声が聞こえたの。黒い少女に気をつけるがいい。って。男の人の、綺麗な声だったわ。あれがなんだったのかいまだにわからないけど、あの言葉のせいで、私はコルキアを余計に恐ろしく感じた」


「……その声は、それっきり聞こえてないの?」


「ええ、聞こえてないわ。幻聴だったのかとも思ったけれど、妙に予言めいていたし。あれはなんだったんだろうって、ずっと引っかかってるの。ヴェスターは、何か心当たりとかない?」


「ない。でも、もしかするとこの一件には、第三者の意思が介在しているのかもしれない」


 メルの腕に顔をもたせかけたまま、ヴェスターは続けた。


「コルキアは、誰かに図書迷宮に行けば呪いを解く方法と死者を蘇らせる方法がわかるだろうと言われ、ここに来たというようなことを言っていた」


「彼女には、協力者がいるのかしら」


「協力者と言えるかはわからないけれど、少なくとも情報の提供者はいるんだろう」


 しばし言葉を途切らせ、ヴェスターはゆっくりした動作で自分を抱えるメルの顔を見上げた。


「ごめん、これじゃあ、メルの聞いた「声」の正体に繋がらないね」


「構わないわ。あれはなんだったんだろう、ってそれだけだから」


 でも、あの声を聞かなければ、状況が少しは違っていたのではないだろうかと、メルは心の内で密かに思った。あの予言めいた言葉が、最終的にメルのコルキアに対する印象を決める後押しになった。すなわち、この少女は恐ろしい存在だという印象を、決定的にメルに与えたのだ。もちろん、ヴェスターの警戒ぶりにも影響は受けていただろうが、最終的にメルに恐怖を抱かせたのは、あの声だった。あの声がなければ、もう少し冷静に、彼女と会話ができていただろうか。


 だが、今更考えてももう遅い。暴力と恐怖と血の果てに、彼女は図書迷宮にたどり着いた。今頃、あの大樹の樹冠の中で、調べものをしている最中だろう。いや、もう終えているかもしれない。唯一の希望であった図書迷宮にも、自分の探し求めるものはないことを知れば、今までの徒労は全て無駄だったのだと、彼女は打ちひしがれているのだろうか。


 そんなことを考えながら階段を上るうちに、メルは大樹の根元にまでたどり着いていた。幹に張り付いている幅の狭い階段を懐かしい気持ちで登り、さらに上を目指す。そして、あの光の繭のある樹冠部に辿り着いた。そこには、コルキアと、見知らぬ男が一人、いた。

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