第36話 再訪
轟音と地揺れと降り注いできた瓦礫から訳も分からず逃げ惑い、むき出しになった鉄骨の陰に隠れてやり過ごしたメルは、自分が生きていることが信じられなかった。
ようやく音と地揺れが収まり、鉄骨の下から這い出ると、時計塔の上から三分の一が消えていた。山となった瓦礫の上に西に傾いてきた太陽の光が降り注ぎ、土埃が硝煙のように上がっている。その瓦礫の山の上に、黒衣の少女と黒猫の姿があった。黒猫の方はぐったりとした様子で横たわっているが、少女の方は鎌を杖代わりにしてどうにか立っているようだった。
メルは、瓦礫の山を登り、黒猫のそばに膝をつくと、ヴェスターの体を抱き上げた。その体が温かいことに安堵し、顔を寄せるようにして抱きしめる。それから、黒衣の少女、コルキアを見上げた。
コルキアは口を開けて、肩で息をしていた。どこも怪我はしていないようだったが、随分と消耗した様相を呈している。杖代わりにしている鎌にすがっていないと、立つこともままならぬ様子だった。
コルキアはメルの存在に気づいたようで、顔を俯かせたままこちらへ視線を向けてきた。心臓がギュッと絞られたような心地がして、メルはヴェスターを抱いたまま後ろへ下がる。それを見たコルキアは、「何もしないさ」と囁いた。
「私は本当に、その猫を、撫でてみたかったんだ」
唐突に切り出された言葉に、メルはうろたえた。コルキアは、何を言っているのだろう。
「猫が、好きだったことなど、久しく忘れていたのに。……もう少しで、夢が叶うかもしれないということに、私の心は少々緩んでいたのだろうな」
「……夢?」
「そう、夢だ。私の、夢」
コルキアの表情は相変わらず乏しかったが、初めて出会った時と、二度目に会った時と比べると、かすかな柔らかさがほんのりと灯っていた。もう、人形のようには見えなかった。この世ならざる者のようにも、見えなかった。今、メルの前にいるのは、自分と同年か少し年下くらいの、生きた人間の少女だった。
「呪いを解く。もう一度、あの人と会う」
それが私の夢なんだと、コルキアは力なく言った。その夢を叶えるためには、図書迷宮が所蔵する書物が必要なのだということも。
「だが、お前たちは私を恐れ、拒絶した」
そう言ったコルキアは、ひどく傷ついているように見えた。
メルは、なんと声をかけたらいいのかわからなかった。代わりに、コルキアと最初に出会った時のことを思い返した。決して、険悪な出会いではなかった。あの時、ヴェスターが警戒していなかったら、どうなっていたのだろう。いや、でも、とメルは目を伏せた。
「あなたは、ヴェスターを悪用するつもりではなかったの」
「悪用……するつもりなどない。私はあくまで、呪いを解く方法と、死んだ者の命を蘇らせる方法を記した書物を、図書迷宮で探したかった。シーグリッドが封じたと言われる、禁忌の魔導書に、その方法が記されていると聞いたから。それだけだ」
「それだけ……」
今ここで初めて、メルはコルキアの目的を知った気がした。王城でコルキアに襲われた時にも聞いたはずなのだが、その時は状況が状況だった。自分を殺そうとしてくる相手の言葉を、どうやっても恐ろしいこと、悪いことのようにしか捉えることができなかった。けれど今は、冷静にその言葉を受け止めることはできた。呪いを解く、死者を蘇らせる。少なくとも、後者は良くないことのように思える。いわゆる禁忌というものだろう。善か悪かでいうと、悪になるのかもしれない。けれどコルキアにとって、それは悪ではない。だから、ヴェスターを悪用するつもりがないという彼女の言い分は、嘘ではないのだろう。
「私たちは、もっと話しをするべきだったのね。思い返してみれば、互いを理解するための言葉があまりに少なかった」
メルは、ヴェスターの丸まった背を撫でながら、言った。
「私も、ヴェスターも、あなたが本題を切り出すより先にあなたを拒絶したわ。そしてあなたは、夢を叶えるために、手荒い手段を取った」
双方ともに比があった、という表現が適切なのかどうかわからず、メルはその先を口には出さなかったが、コルキアも同じことを思ったのか、「そうだな」とだけ言った。それから不意に咳き込み、コルキアは鎌の柄にすがったまま膝をつく。
「怪我、してるの?」
自分も傷だらけというのも忘れ、メルは先ほどから苦しそうにしているコルキアを気遣った。拷問された相手にかける言葉でもないなと思ったが、そう聞かずにはいられないほどに、目前の相手は衰弱していた。
「違う」
こぼれ出る咳を飲み下し、コルキアは否定する。
「魔力を直接体内に取り込んだ代償と、その魔力が暴発したのが原因だ……。これを食べれば、じきに治る」
言いながら、コルキアは腰に巻いた鞄から小瓶を取り出して、中に詰められている乾燥した草のようなものを噛み締めた。
「そんなことよりも」
コルキアは咳を抑えこみ、強い意志の宿った瞳で、メルの腕に抱かれたヴェスターを見遣った。
「私を、図書迷宮に連れて行ってくれ。そこに、答えがあるはずとあいつは言ったんだ」
不意に、ヴェスターのまぶたがふるふると震えた。次いで、その眼が開かれる。メルの腕に預けていた顔を上げ、ヴェスターは告げた。
「いいよ。僕に答えがあるのかどうか、自分の目で確かめてみるといい」
※
メルは、一つ、まばたきをしただけだった。だが、たったそれだけで世界は一
変した。
幾本もの巨大な蔓と、それを繋ぐ階段。そして、それらの頂点に君臨する巨人の如き大樹。現実では到底なし得ない光景。瓦礫の山は、どこにもない。
腕の中にいたヴェスターは、いつの間にかメルの隣に座っている。ああ、自分は今、ヴェスターの中にいるのだなと、メルは二度目の訪問となる図書迷宮を感慨深げに見渡してから、変わらず目前に膝をついているコルキアの方へ視線を向けた。コルキアは、カッと目を見開いて、不意に自分の周囲を包み込んだ幻想的な空間を観察しているようだった。
「君は、死者を蘇生する方法と、自分の呪いを解く方法を知りたいんだよね」
確認するようなヴェスターの問いに、コルキアは、枝葉を広げる大樹の方へ顔を向けたまま、「なんだ、聞いていたのか」と横目だけこちらに寄越す。ヴェスターは構わずに続けた。
「答えてしまうと、死者蘇生について書かれた書物はある。けれどそれは、どれもこれも迷信ばかりだ。きっと君が望んでいるような、「本物の」死者蘇生について書かれた書物は存在しないし、そもそも死者を復活させることは、できない。不可能だ。けれど」
ヴェスターは、すっと目を細める。
「呪いを解くことに関して書かれた書物、それもかなり信憑性の高いものが、ここには幾冊かある。その中に、君がその身に受けている呪いも載っているかもしれない。それで」
君がその身に受けている呪いは、一体どんなものなんだいと、ヴェスターは淀みのない口調で尋ねた。
コルキアは、かすかにため息をついた。それから目を閉じて、何かを考えているような、思い出そうとしているかのような、奇妙に長い思索にふけった。ヴェスターは、急かすこともせずに彼女を待った。
そうやって向かい合っていると、やがてコルキアは目を開けた。開かれた双眸は、ほんのいっときだけ、彼女の感情を映し出すかのように思えたが、さざ波一つとして立てなかった。
「これは私の一族に、しばし現れる厄介な呪いだ。だが、内容は至極簡単だよ」
立ち上がると、重い足取りで前へ歩み、コルキアは踊り場の手すりに手をかける。先程の薬草の効果か、咳や息切れは随分マシになっていた。そして、彼女はヴェスターやメルではなく、枝葉を広げる大樹へと視線を向ける。
「『私を愛した者は、必ず死ぬ』」
それが呪いだよと、コルキアは自嘲めいた口ぶりで告げた。
「遠い遠い先祖が、自分の子孫の誰かが呪いに蝕まれるという条件と引き換えに、とある怪物に願いを叶えてもらったのが原因だという。だからそれは、私の一族にしばし発現する。一人、その呪いを持つ者が生まれると、その者が生きている間、呪い子は生まれない。その者が死ぬと、次の呪い子が生まれてくる。そういった法則だ。そして、呪いを受けた者の血液には、呪いの副産物として、いわば惚れ薬のような作用が働いている。つまり、私の血を摂取した者は、私に惚れるんだよ。そして愛情を抱く。そして、その先に待っているのは死だ」
皮膚の表面が、ぞわりと総毛立つ。彼女の身にのしかかるあまりに重い呪いに、メルは口をつぐんだままヴェスターがどう答えるのかを待つことしかできなかった。
ヴェスターは、コルキアをじっと見た後で、自身も大樹の方へ目を向けた。
「自分で確かめてごらん。人に言われるよりも、そっちの方がずっと確かだ」
「大樹に何かあるのか」
「文字が連なって出来た光の繭がある。それに向かって、尋ねるんだ。それがこ
こでの調べ物の仕方だよ」
コルキアはゆっくりと瞬きをして、ヴェスターを見た。魔力を体内に取り込んだという代償の発作は、ほとんど治ったようだった。彼女はそれから、さっと鎌にまたがって、宙へ浮き上がった。
「ここに満ちている魔力、使わせてもらうぞ」
それだけをそっけなく言い残して、コルキアは大樹に向かって上昇して行った。
メルとヴェスターは、遠くなってゆく彼女の背中を見送る。
「ねえ、ヴェスターはもう、わかっているんでしょう」
彼女の小さな背中を眺めるメルの頬を、風が撫でた。銀の髪がさわさわと波打ち、光沢を放つ。
「わかってるよ」
ヴェスターは、空気中に溶けてしまいそうな声で肯定した。顔がかすかに俯く。
「ないよ、彼女の呪いを解く術の書かれた書物は、ここには存在しない」
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