第32話 追想

 夜の帳が下りた暗い部屋。唯一の光源は、暖炉の中でパチパチと爆ぜる炎のみ。その炎のそばで、黒髪の女が力なく横たわった男の体を抱きしめていた。二人ともまだ若い男女だった。十六、七歳ほどの、まだ少年少女と呼んでも良い年頃の二人。本来ならば、何よりも若々しく、きらめいていて、生命力に満ち溢れているはずの若い二人の周囲には、重苦しい死と絶望が立ち込めて、彼らの祝福に満ちた未来を打ち消し、暗く深い呪いの裂け目に二人を繋ぎ止めようとしているようだった。


 少女は、自分の胸元まで抱き寄せた少年の顔を、憂いを帯びた赤い瞳で見つめていた。瞳は、暖炉に灯った炎を映して、血のような色に染まっている。不意にその瞳が揺らぐと共に、少女は少年の顔にかかった髪の一房を掬って、彼の耳にかけた。それから小さな声で、名前を呼んだ。自分の腕の中で目を閉じ、動かない少年の名を。


「アルオン……」


 名を呼ばれても、少年はピクリとも動かなかった。少女は今にも泣きそうな表情で、再び名を呼んだ。顔を彼の胸元に埋め、嗚咽を溢す。


「どうして……どうして」


 くぐもった声が、暗い部屋に響き渡る。


「どうして……」


 さっきまで、この場所に座り語り合っていたのに。雨の中訪ねてきてくれたアルオンと、大好きな本の話をして、そして、互いの思いに気づいたのに。あなたが好きだと、愛していると、ずっと共にいたいと、彼はそう言ってくれたのに。自身の胸を時に熱く、時に痛くさせる感情がなんだったのか、やっとわかったのに。


「アルオン」


 少女は少年の胸部に耳を当て、「嘘だ、嘘だ」と壊れた魔導人形のように同じ言葉を繰り返した。


「嘘だ。何かの……嘘だ」


 心臓が、止まっているなんて。


「ねえ、起きて、起きてよ。どうして……」


 動いてと、少女は獣のような咆哮を上げた。どうして彼の心臓は止まっている、どうして彼は息をしていない、どうして死んだ、健康な若者だったのに、さっきまで元気に喋っていたのに。どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして。


「どうして!!」


 少女の目から涙が溢れた。頬を伝い、涙は少年の顔へ雨のように落ちる。少女の口から、悲鳴の混じった叫び声が上がる。


「なぜだ!!なぜっ、ああああーーー」


 少年の体にすがりついて、少女は泣いた。叫んだ。喚いた。絶叫し、この理不尽な仕打ちを呪った。嗚咽と混じりあった不明瞭な声は、やがて意味を持った言葉を吐き出す。


「あなたが、あなただけが、私の呪いを打ち払ってくれたのに」


 その時、家の戸を激しくノックする音が聞こえてきた。少女はビクッとしたが、少年にすがりついたままその場から動こうとはしない。すると、ノックした主は戸を開けて勝手に入ってきた。闇夜に散らつく冷たく細い雨が、二人の人物と共に外から入ってくる。


 来訪者は、二人とも頭から足元までを覆う長いフード付きマントをかぶっていた。裾からはポタポタと水滴が落ち、古い木板の張られた床の上に水たまりを作る。


 彼らは、泣き叫ぶ少女の許へ行くと、事切れた少年を見下ろした。


 一人が、フードを頭から外した。四十代の、上品そうな男性の顔が顕になる。赤い炎に照らされて、暗い影を落とす彫りの深いその顔は、幽鬼のような蒼白さだった。


「タミン夫人……これは、最悪の事態だ……」


 男の隣で、もう一人の人物もフードをとった。こちらは初老の女性だった。


「コルキア、お前は」


 黒髪の少女の肩を、その女性——タミン夫人は乱暴に掴んだ。反射的に振り向いた少女の顔を、彼女は容赦なく平手で打ち据えた。パン、と弾けた音が響くと同時に、少女は体を床に横たえた。唇を切ったのだろう。赤い血が顎を流れ落ちた。それを拭いもせず、少女は両腕で上半身だけを起こし、血のような赤い目で女性を睨みつけた。夫人はその目にたじろいて、よろめくようにして数歩、後ろへ下がる。


「この……悪魔っ!!」


 叫ぶと、夫人は男性の腕を掴み、コルキアという名の少女を見るように促した。


「フェシリアル卿。あなたの息子を殺したのは、この悪魔です」


 男のーーフェシリアル卿の目が、自分の息子の死体のそばでうずくまる、痩せ

っぽちの少女の方へ向けられる。煤でもかぶったような黒い髪をした、惨めな少女へ。


「お前はーー」


「違う!!」


 コルキアはフェシリアル卿の言葉を遮って叫んだ。


「私が殺したんじゃない!!彼は、彼は突然、倒れて、死っ、死ん……だ」


 怯える目をしたコルキアを、フェシリアル卿は冷たい目で見下ろした。


「哀れな娘だ。自分にかけられた本当の呪いも知らないで」


「呪い……?」


 さっき夫人に打たれた方の頬を手で押さえながら、コルキアはよろよろと立ち上がった。


「どういう……意味…?」


 フェシリアル卿は、問いを無視して息子のアルオンのそばに膝まづく。彼の代わりに答えたのは、夫人の方だった。


「お前、呪いについて、先生から何も聞かされてなかったのかい」


「わ、私の呪いは、誰からも愛されない呪いだって。……でも、アルオンには」


 夫人の大きな声が、コルキアの小さな声を遮った。


「お前を愛する者は、すべからく死ぬ!!!それがお前の血と心臓に刻まれた呪いだよ」


 コルキアの顔が、血の気を失った。


「死ぬ……?私を愛した者、すべて……?」


 視線が、アルオンの方へ向けられる。父親のフェシリアル卿が、ちょうど息子の体を抱きかかえたところだった。子供を先に亡くした父親の、暗い闇に閉ざされたような光のない目がコルキアへ再び向けられた。


「私の息子はお前に殺された。お前が無責任にも自分の呪いについて無知だったから。村中から嫌われていたお前が、自分も愛されていいのだと愚かにも付け上がったから。扶養者に死なれ、身寄りをなくしたお前をメイドとして雇ってやった私の行為を踏みにじりおって。お前は生まれてすぐに死ぬべきだった。……あの魔法使いは、なぜこの悪魔のような人の子を育てた」


 コルキアを人の子だと言いながらも、その目と表情に浮かぶは侮蔑の心。醜い怪物を見るような目だった。やがて彼は目を伏せ、「ああ、そうか」と深いため息とともに納得の言葉を零した。


「彼はお前を、愛してしまったのか。愛していたことに、気づいてしまったのか。……だから死んだ」


「先生が……私のせいで?」


 コルキアはフェシリアル卿の顔を見、それからアルオンの横顔を見た。


「彼も、私のせいで。私が……呪われた子だから……?」


 力なく床へ座り込む。コルキアは、さっきまでアルオンを抱きしめていた自分の両腕と、細い指のついた両手を見下ろした。指先が小刻みに震えた。自分の意思による震えではない。コルキアは震える指先を互いに絡み合わせ、震えを抑え込もうとしたが、体は全く言うことを聞いてくれなかった。震えは指先から手首へ、腕へと広がり、やがて身体中が震え始める。寒くてたまらなかった。真冬の中、雪原の中へ薄着一枚で放り出されでもしたようだった。体が凍てつき、震える。心も。


 狭くなってきた視界の端で大きく動く影を捉え、コルキアは顔を上げた。見れば、フェシリアル卿がアルオンを抱えたまま立ち上がるところだった。卿はコルキアに見向きもせずに、タミン夫人を連れて家の出口へ向かう。


「待って、待ってください」


 コルキアは転びそうになりながらも、慌てて二人へ追い縋った。


「私にも彼を弔わせてください。お願いしますっ、どうかっ!」


 フェシリアル卿の濡れそぼったマントの裾ごと、コルキアは彼の足にすがりついた。


「どうか、お願いです」


 フェシリアル卿は立ち止まると、眉間に皺を寄せてコルキアを見下ろした。かと思うと、自分へ縋り付いてくるコルキアを足で乱暴に払いのけた。コルキアは小さな悲鳴をあげて、背中を床に打ち付けた。その頭上に、フェシリアル卿の声が呪いの言葉のように降り落ち、コルキアの心に染み込んでゆく。


「もう二度と私の息子へ近づくな。当然、葬儀に出ることも許さぬ。墓に参ることもだ。汚らわしい呪われ子が私の息子と親しい関係を築いていたなど、フェシリアル家最大の汚点。汚点の源は消え失せろ」


「……汚点」


 コルキアは床に額をつけ、歯を食いしばった。フェシリアル卿は最後にもう一言付け加える。


「喪に服すくらいならば、許してやらんでもない。勝手にやるがいい。だが、決して私の前にその姿を現すな」


 二人の足音が遠のき、やがて扉が閉まる音がした。あとは、外の雨の音が響くのみだった。


 コルキアは額を床につけたまま、浅い呼吸を繰り返した。呼吸はどんどん荒々しくなっていき、獣のような呼吸になった。丸まっていた背中が伸びて、のけぞった。天井を見上げる形になったコルキアの口から漏れるその呼吸は、やがて叫び声へと変わる。叫び声という形容が正しいのかもわからぬような、聞く者をぞっとさせる疳高く耳障りな声。それは、長く尾をひくように闇夜にこだまし、溶けてゆく。


 身を裂くような長い夜が終わると、朝が来た。すべてのものを等しく照らす太陽の光。それは、床でうずくまったコルキアの頭上へも、窓を間に挟んで降り注いだ。


「お嬢さん、お嘆きですか」


 やってきたのは、朝だけではなかった。夜会服を着た場違いな姿の男が、扉を開けてするりと、滑り込むようにして中へ入ってきた。風のような、男だった。深く被られたシルクハットのせいで、その顔は見えない。


 コルキアは、思わず魅了されそうなほどに美しい男の声に、重い首を上げていた。


「おや、まあ痛々しい」


 男は随分わざとらしい声をあげてコルキアへ近寄ると、うやうやしく膝をついて彼女の手を取った。コルキアの手は、血で真っ赤に染まっていた。


「死のうとしたんですか。けれど死ねなかった」


 男は胸元から白い手巾を取り出して、傷ついたコルキアの手首へ巻いてやる。


「いけませんね。いけませんね。でも大丈夫、まだ物語が残っているということ」


 自分に言い聞かせているようにも聞こえる調子で、男は軽やかに言葉を続けた。


「ああ、そうだ。むやみやたらと血を流してはいけませんよ。あなたの血は毒です。呪いのせいで人に愛されるわけにはいかなかったあなたの御先祖様たちの無念が、絶望が、流れ込み、口にしたものが待つのは死です」


 コルキアの手首に手巾をしっかり固定して、男は「これでよし」とひらりと立ち上がる。そして、「お嬢さん」と手を差し伸べた。


「改めまして、私はクロヴィス。あなたのしもべです」


「僕……」


 コルキアは、クロヴィスと名乗る怪しい男を見上げる。


「あなたが先生とお呼びする人物。彼のことは尊敬しています。あなたの一族にしばし顕現する未知なる呪いを追求し続けたお方。しかし、彼は志半ばで死んでしまった。その意思を、私が受け継ぎましょう。そして、あなたも」


「私も……?」


「呪いを、解きたくはないですか。人を愛し、愛されたくはないですか」


 クロヴィスの甘美な声が、耳朶を震わす。コルキアはいつの間にか聞き入っていた。


「彼とまた、会いたくはないですか。まだまだ未知の領域の多い魔法を追求すれば、全てが叶うと思いませんか」


 こちらへ差し出されたクロヴィスの手。黒い手袋をはめている。その手を、コルキアは見つめた。


「その望みを叶えたいのならば、私はあなたの力になりましょう。私も魔法使いの端くれ。必ずや、あなたのお役に立てましょう。あなたは私を利用すれば良いのです」


 コルキアは、そっと手を伸ばした。コルキアとクロヴィス。二人の指先が微かに触れ合う。コルキアは一瞬、躊躇するように手をひっこみかけた。しかし、また手を伸ばす。差し出されたクロヴィスの手に、自分の手をそっと置いて、彼の顔を見返した。クロヴィスは満足げに頷く。それからコルキアの手を引いて立ち上がらせた。


「さあ、手始めに」


 クロヴィスはコルキアが身につけている服を見て、「ふうむ」と首を傾げた。

田舎の娘がよく着るような、淡い緑の服は、床の埃や血で汚れきっていた。


「服を着替えないと」


 自室に戻ったコルキアが袖を通したのは、一着だけ持っている黒いワンピースだった。着るのは、育て親の魔法使いの葬儀以来。鏡に映った陰気な顔をした黒衣の少女を、コルキアはひたと見つめてから部屋を出る。


 着替えの済んだコルキアを出迎えたクロヴィスは、どこか嬉しそうだった。


「やあ、とても似合っていますよ」


「他にもいる」


 コルキアはゆっくりとクロヴィスの許へ歩み、告げる。


「黒い服は、これしか持っていない。もっといる。黒い服が」


「なぜ、そんなに黒い服が良いのです」


「彼と会うまで、もう一度会うまで、私は喪に服すから」


 コルキアは黒いワンピースの黒い襟をつまむ。


「黒い衣と共に」


 クロヴィスは「なるほど」と頷く。


「それでは、あなたにより似合う、素敵な素敵な黒のドレスをご用意しておきましょう」


 コルキアは無言でクロヴィスの横を通り抜けて、館の廊下を歩き出しだ。そのあとを、クロヴィスは女王に仕える従者のようにピタリと付き従う。


 歩き出した二人の道。その道の先に、コルキアは未来を見た。黒ではなく、もっと華やかな色をした美しい服を着た自分の隣で笑う、彼の姿。自分も笑っている。そこへ行き着くまでに、どのような苦難が待ち受けているのか、今はまだわからない。それでも、道の先に思い描く未来がある限り、この歩みを止めはしないと、コルキアは胸の内で密かに誓いを立てた。

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