第29話 魔女の叫び

 コルキアの言った意味がよくわからず、クラリスは困惑する。目の前の魔女のことが心底理解できない。理解したいとも、思わなかったが。だが、森を救う方法はわかった。呪いと聞いて思わず身構えてしまったが、簡単なことだ。この鼻に付く血の匂いを消せばいい。そうすれば、まだ無事な植物たちは助かる。クラリスは、じっとコルキアを見つめた後で、俊敏な動きで踵を返した。だが、次の瞬間にクラリスの頭の上を何かがかすめた。間をおかず、目の前の枯れ木が横一文字に切断される。びっくりして動きを止めたクラリスの背に、冷たい魔女の声が降り注ぐ。


「まだ話は終わっていない。私をお前たちの里まで案内しろ」


「……」


 クラリスは、ゆっくりした動きでコルキアの方を振り返る。


「それで?里に来て何をするつもり」


「図書迷宮を手に入れる」


 クラリスは挑発的に笑った。


「そう、じゃあ案内したげる。せいぜい離されないように気をつけてね!」


 言うや否や、クラリスは風のような勢いで走り出した。森の地形は熟知している。どこにどう木が生えていて、倒木があって、窪みや隆起した地面があるかも知っている。目を閉じて走たって、ぶつかったり転んだりすることはない。だから、白い弾丸となって森を駆けるクラリスを追い続けることなど不可能だ。


「はなから案内したげるつもりなんてないのよっ!」


 勝ち誇った声をあげて、クラリスは枯死した森の中を疾駆する。足の遅い人間なんて、魔力猫の速度には遠く及ばない。しかも、魔力猫の里に加護のない者が入るには、道標の見える者に、決して距離を開けずについていかなければ途中で惑わされて完全に逸れてしまう。コルキアを巻くことなど、クラリスからすれば朝飯前だった。そして、現に今、コルキアの姿はクラリスのそばにない。


「早く里のみんなに知らせて、匂いを除去する対策を練らないと」


 そうやって独り言を呟いた途端、目の前の茂みから灰色の生き物が飛び出してきて、危うくクラリスと正面衝突しかけた。ギリギリで避けなければ本当に危ないところだった。


「どこ見てんのよ!」


 怒鳴ってから、クラリスは気がつく。灰色の生き物は森の獣ではなく、自分と同じ魔力猫、それも、オレリアが戦士と呼ぶ長い時を生まれ変わりながら生きてきた魔力猫であることに。


「アーデスさん!?」


 灰色の魔力猫は、目を丸くして自分を見つめてくるクラリスに駆け寄り、「よかった」と安堵の声をあげた。


「無事でよかった。どこも怪我してはいないですね」


「ええ、でも、そんなことより」


 クラリスはアーデスに向かって、たった今見聞きしたことを早口でまくしたて

た。アーデスは黙ってそれを聞いていたが、クラリスが話し終わって口を閉じると「なんとまあ無茶なことを」と、嗜めてきた。


「コルキアと会って直接会話したなど、危険すぎます」


「いいじゃない。結果的に無事なんだもの」


「あなたの度胸には驚かされますね」


 そう言うアーデスの口の動きが不意に止まった。彼の目は、クラリスの頭を通り越した先の何かに向けられている。


「どうしたの?」


「いえ、あの、あなたのその尾についているものは?」


 アーデスに言われて初めて、クラリスはご自慢の長い尾に何かが巻きついていることに気づいた。


「え?何これ、薔薇?」


 やけに黒ずんだ赤色をした薔薇が一輪、蔓をクラリスの尾に這わして巻きつい

ている。


「やだ、どこでついちゃったんだろう」


 アーデスにも手伝ってもらうと、薔薇はあっさり取れた。


「でも、薔薇なんてこの森にはないはずなんだけど」


 おかしいなと二匹で首をひねっていると、地面に落ちた薔薇が不意に震えた。かと思うと、薔薇の蔓が急激な成長を始めた。骸骨の指のような荊が狂ったように溢れ出す。


「やだ何これ気持ち悪い」


 悲鳴をあげるクラリスの首根っこを、アーデスがとっさに口で引っ張った。そして、荊に包囲される前に、首を振るってクラリスを投げ飛ばす。弧を描いて飛んだクラリスは、空中で身をひねり地面に無事着地した。


「アーデスさん!!」


 すぐアーデスの許へ向かおうとするも、生き物のように蠢く荊によって道が阻まれる。アーデスがいるはずの方向を首を伸ばして見るくらいが精一杯だ。だが、アーデスの姿は見えず、いるはずの場所には荊の繭としか言えない物体が形成されている。アーデスは、きっとあの繭の中に閉じ込められているのだ。そうなることを見越して、さっき自分を投げ飛ばしてくれたのかと、クラリスは愕然とする。


「そんな、いやよ、アーデスさん」


 虚しく叫んでいる間にも、荊は成長を続けていく。繭を中心に、触手のように伸びてゆく無数の荊は陽光を求めて上に伸び、やがて木の高さをも通り越す。そこへ現れたのは、大きな鎌を持った黒装束の少女——コルキア。


「私を巻こうとしても無駄だ」


 地面を這いずっているか細い荊を踏みつけながら、コルキアはクラリスの許へ近づいてくる。


「おとなしく、里へ案内しろ。そして、図書迷宮を私へ差出せ」


 その時、荊の繭から焦げ臭いが匂いが立ち上った。クラリスもコルキアも、揃ってそちらを向く。赤い炎が荊を舐め、燃やし、溶かしてゆく。その中から現れたのは、灰色の魔力猫。


 炎を纏って現れたアーデスは、荊の繭からゆっくりと進み出てくる。


「お前、何度目だ」


 コルキアに睨みつけられたアーデスは、いつもと変わらぬ口調で悠然と答え

る。


「七度目ですよ」


「そうか、七度目と会うのは初めてだ」


「そうですか」


 あくまで穏やかな態度を崩さないアーデスと、彼を睨みつけるコルキア。両者の間に剣呑な空気が立ち込める。


「図書迷宮を私へ差出せ」


「それは出来ぬこと」



 アーデスは首を横に振る。


「長の命令です。何があっても、あなたに図書迷宮を渡してはならないと」


「あの娘はあっさり渡したがな」


 その言葉に、アーデスは歩みを止める。


「あの娘?」


「メル・アボット。己可愛さに、ここに図書迷宮があるという情報を私に渡した女だ」


 アーデスの毛がわずかに逆立つ。それに呼応する様に、なおも荊を燃やし続ける焔の勢いが増す。


「……メル様に、何をなさいました」


「少々、いたぶってやっただけだよ」


 クラリスから見ても、明らかにアーデスは怒っていた。怒ったアーデスを見るのは初めてだ。


「クラリス……、あなたは早く里に戻っていなさい」


 有無を言わせぬ口調に、クラリスは自分がここにいては足手まといであることを知る。


「わかったわ」


 頷くと、クラリスは荊を踏まないよう注意しながら里への道を急ぐ。その背後で、鎌を振るう音と、炎の爆ぜる音が激しく交錯しあった。



 木々が枯れている原因を無事里に持ち帰ったクラリスは、すぐオレリアに報告した。アーデスがコルキアを足止めしていることも漏らさずに伝える。それを受け、迅速にそれぞれの対策が練られていく。


「クラリス!」


 魔力猫たちの間をかき分けて、ヴェスターを連れたマチアスが駆け寄ってきた。


「良かったよ無事で。けれど、アーデスさんは一人で大丈夫なのかな」


「一人じゃないわ。すぐ応援が駆けつけていったもの」


 答えてから、クラリスはマチアスの隣にいるヴェスターへ視線を移す。それから気まずそうに言った。


「あの、ステイシーのお孫さんが、コルキアにこの場所を教えたそうよ」


「……メルが!?」


「本当ですか!?なぜ」


 マチアスも一緒に驚いた顔を見せる。クラリスは言わなければ良かったかと今

更後悔するも、もう後に引けない。


「コルキアに、無理やり聞き出されたんだと思うわ……、その、何をされたのか、わからないけど、多分酷いこと……、ちょっと、ヴェスター!」


 もう遅かった。ヴェスターはさっき森へ血相を変えて駆けて行ったクラリスと同じように、誰の制止も聞かずに飛び出し、周りに魔力猫がいないことを確認してその姿を大きな黒い竜のものに変えた。翼を広げ、蒼穹へ飛び立つ。


「誰か止めて!」


 クラリスとマチアスは悲鳴をあげるが、天空へ飛び立った竜を止める術を魔力猫たちは持たない。竜の翼によって生まれた風が里や森を吹き渡り、魔力猫たちはびっくりして悲鳴をあげる。里の長すらも風で自慢の長い毛をもみくちゃにされながら、ただ見送ることしかできなかった。


「ヴェスター、どこへ行くっ!?」


 それに答える声はない。

 だが、黒竜が定めた進路は北東。その先にあるのは、王都だ。


 それを見たのは魔力猫だけではなかった。コルキアも見ていた。


「図書、迷宮っーー」


 目を剥き、アーデスの魔法を振り払うと、鎌に腰掛け後を追う。手を伸ばし、視界の中で黒き竜をその手に掴む。


「お前さえ、お前さえ手に入れば」


 コルキアは一人叫んだ。痛々しい哀しみを帯びた、その声で。


「私は救われるのだーー、私はっ!!」


 

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