第28話 枯死する森

「なんですって」


 アーデスの知らせに、愛らしい顔は驚愕の色に染まり、続いて大きな青い瞳に燃えたぎるような怒気が孕む。


「信じられない……。森を破壊されるわけにはいかないのよ!」


 叫ぶや否や、クラリスは集団から飛び出していた。


「クラリス!!どこへ行くつもりだ」


 マチアスに呼び止められ、クラリスは振り向きもせずに返事を投げる。


「森よ!樹木医もやってる私に、木々が殺されるのを黙って見てろと言うの!?」


「クラリス!!」


 あっという間に小さくなる白い背中に追いすがろうとしたマチアスは、何者かに横合いから邪魔を入れられた。


「何するんです。止めないでください」


 マチアスの行く手を阻んだのは、先ほど帰ってきたばかりのアーデスだった。普段の落ち着いた物腰に戻ったアーデスは、自分を抜いていこうとするマチアスの行く手をさらに阻んで言い聞かせる。


「クラリスは、どうか私に任せてください。あなたは、ヴェスター殿のそばに」


「っ!」


 今にも崩折れそうになっているヴェスターを、マチアスは思わず振り返った。今の状況で、ヴェスターを一人にさせておくのは危険だ。責任を感じて危険な行動に出られたらたまらない。


「……わかりました。クラリスをお願いします」


 一瞬、互いの目を見交わすと、二匹の魔力猫はそれぞれ反対方向へ分かれた。

マチアスはヴェスターのそばへ、アーデスはクラリスの許へ向かう。


 クラリスは、そんな後方の様子など一切顧みずに、懸命に四肢を動かし森へ一直線に向かっていた。


 魔力猫の里を囲い、地上からも空からも覆い隠してくれる森。だが、森の役割はそれだけではない。一部の森の木々には、魔力猫たちの特殊な魔法で細工が施してある。それら木々は、魔力猫の加護を受けた者とそうでない者を選別し、加護のある者には里への道標を示し、そうでない者には道標を隠す。細工の施された木々は、いわば門番や道案内のような役割を担っているのだ。


 クラリスは、その木々たちが病魔や害虫に侵されないように、他の樹木医と共にいつも森の中を巡回しては木々の健康をチェックして回っている。もしも異状を発見すれば、適切な処置を施し、時には他の樹木に移らないように、または前もって病気の蔓延を防ぐために間引くこともある。それは、細工を施されていない木々や植物に対しても同じ。病魔や害虫によって森が崩壊すれば、魔力猫たちは住処を失うのだから、樹木医の責任は重大だ。樹木医のクラリスにとって、この森は自分たちを守ってくれる守護者であると共に、大切な患者たちなのだ。その森が今、コルキアという異国の魔女によって死に向かっている。木々が全て枯れてしまえば里は隠れ蓑を失い、ヴェスターはもちろん、魔力猫たちも危険にさらされかねない。そしてそれと同じくらい、自分が今まで慈しんできた森の木々が枯らされていることは、クラリスにとっては耐え難い出来事だった。


「絶対に、絶対に許さない」


 コルキアを倒すことはできずとも、せめて木々たちを守ってあげなくては。それが樹木医である自分の責任だと、クラリスは決意を固くする。


 里をとうに抜け、まだ健康そのもの樹木の並ぶ森の中を敏捷に抜けていくクラリスのそばを、森に住む栗鼠や鼠、虫などの小さな生き物たちが、クラリスとは反対方向に向かって走ったり飛んだりして通り過ぎて行った。彼らが来た方向はおおよそわかったので、そちらに向かってクラリスは駆けていく。すると、すぐに健康状態を損ねた木に行き当たった。まだ完全に枯れてはいない。動物に例えれば瀕死と言ったところか。本来緑であるはずの葉は黒や褐色に染まり、幹が見る間に脆く朽ち果てていく。このような急激な速度で木が死に向かっているのは見たことがない。これではもう、手の施しようがなかった。


「なんなの……。一体どんな魔法よ。木を枯らせるなんて……」


 クラリスは、魔法に対して魔力猫の中でも博識な方だという自負があったが、切り倒したり切り刻んだりせずに、木を急激に枯らせる魔法など聞いたことがなかった。だが聞いたことがなくても、目の前で木が枯れてゆくのは紛れもない事実だ。コルキアは、魔力猫の里が容易に踏み入れることができないと悟り、里を守る森ごと破壊する方法に出たのだろう。思いついて実行できるというのが恐ろしい。コルキアを甘く見過ぎていたと、長は今頃悔いているだろうか。


 クラリスはブンブンとその考えに首を振った。魔力猫の里には人間の魔法使いなんかに引けを取らない戦士たちがいる。絶対にこうなることは防ぎたいが、森が枯らされたって、魔力猫は滅びない。ヴェスターだってきっと守れるはずだ。とにかく、今自分にできることは、と、クラリスはとうとう枯れてしまった木の幹や根元、葉を診察しようと懸命に食いついた。自分にできるのは、この妙な魔法の解明だ。どういう仕組みと経路で木を枯らせるのか。原理さえわかれば魔法を解除することだってできるはずだ。


 しばらくしてクラリスは、木の根元から鉄臭い匂いがすることに気がつく。もっと近寄って鼻をひくつかせてみると、予想は確信に変わった。


「これ……血の匂い……?」


 樹木に血液はない。ではこれは一体なんなのだろう。誰の血だろう。やがて、クラリスはこの血の香りになんとも言えない魅力を感じ始めていることに気づいた。いや、血の匂いそのものではなく、見知らぬこの血の持主に恋い焦がれ始めているような。


 ゾッとして、クラリスは血の匂いのする枯れ木から飛び上がるようにして後ずさった。


「気分が悪い」


 それでも、この血の匂いが謎を解く鍵のように思えてならず、見逃す気にはなれなかった。しかも、よくよく周囲の空気を嗅いでいると、枯れ木の根元だけでなく、森の空気全体に血の匂いが含まれていることに気がついた。枯れ木を追い越しさらに進んでいくと、匂いは里から遠ざかるにつれ濃くなっていることがわかる。しかも、匂いが濃くなるにつれ、枯れ木や枯れた植物たちの数がどんどん増している。明らかに因果関係がある。


 クラリスは、己の危険も考えずにどんどん先へ進んでいった。この魔法の原理を明かし、森を救うことに必死だった。


「愛らしいな。魔力猫か」


 気配もなく鼓膜を震わせた声に、枯れ木と血の香りの調査に没頭していたクラリスは、ハッと顔を上げた。目の前には、闇そのもので染め上げたような黒のドレスを着た少女がいる。つい一時間ほど前に目撃した少女だ。あの時は、長から聞かされていたコルキアの服装や得物を聞かされていたので、すぐにコルキアと気がつくことができた。


「あんた、コルキアね」 


 クラリスは一瞬怯んだ心を奮い立たせ、コルキアを睨みつけた。頭を低くして背中を丸め、毛を逆立たせる威嚇の態勢をとる。


「ちょうどいいわ。どんな魔法を使って森の木々を枯らせたのか白状なさい」


 コルキアは答えず、冷ややかな目つきでクラリスを見下ろした。クラリスはその瞳を真っ向から迎え撃つ。相手が自分よりも体の大きな人間でしかも魔女だからといって、必要以上に怯えるつもりはクラリスにはない。


「言いなさいよ。言わなきゃその喉笛引き裂いてやる」


 クラリスは牙をむき出しにする。魔力猫は普通の猫と違い、獣じみた狩猟本能は持たないが、魔法と同じように生まれながらに身体に備わっている牙や爪の扱い方くらいはわかる。


「言いなさいよ!」


 怒りがその小さな猫の体を突き抜け、爆発するような勢いでクラリスは怒鳴

る。すると、コルキアはようやく口を開いた。クラリスとは正反対の、ひどく落ち着いた声だった。


「これは、魔法ではない」


「はあ!?魔法じゃない?じゃあなんだってのよ。あんたお得意の禁忌の魔法ってやつじゃないの!?」


「これは」


 コルキアは胸元を覆っていた黒いフリルを、鎌を持っていない方の手でおもむろにかき分け、肌をさらした。その白い柔肌を見たクラリスは、初めて怯えた表情をコルキアに向けてさらけ出した。


「あんた……その傷……」


 胸元の肌に、たった今できたと言わんばかりの痛々しい裂傷がぱっくり口を開いていた。そこからは血が涙のように流れ落ちている。ふと、コルキアの持つ鎌を見たクラリスは、鎌の刃が血に濡れていることに気づいた。そして、コルキアの立つ地面を中心に、夥しい量の血が土に染み込み草花を血染めにしていることにも今ようやく気がつく。


「自分で、自分を傷つけたの」


 信じられないと、クラリスは威嚇することも忘れコルキアに尋ねる。コルキアは何事もなかったかのように胸元のフリルを正して傷を隠し、言葉を続けた。


「これは呪い。魔法ではない」


「呪い……?」


 魔法と似て非なるものの名前を、クラリスは畏れをもって繰り返した。

 

『呪い』。それは、魔法よりもはるか昔からこの大陸に存在していたという一種の力だ。心持つ者の肉体と精神を犯し、絶望させ、あるいは堕落させ、最悪、命をも蝕む不吉な力。一説によれば、伝説上の怪物、誘惑と禍の体現者カラミシオンがこの世にもたらした力とも言われる。


 魔力猫の魔法に対する造詣は凄まじいが、こと呪いに関してはほとんど素人同然だった。クラリスは緊張した面持ちで、コルキアの恐るべき説明を耳にした。

 

「そう、呪い。……私の血を取り込んだものは、私を好きで好きでたまらなくなる。男女間の愛、友愛、家族愛、無償の愛、形や種類は違えど、皆等しく私のことが好きになる。けれど、好きになってはいけない。私に対して愛を抱いたものは、人間も生き物も植物すらも、皆等しく死に至る」


「何よそれ……」


 呪いについては詳しくないが、そんなわけのわからない呪いがこの世にあってたまるかと、クラリスは吐き捨てたくなる。


「じゃあ何、枯れた木々は、あんたを好きになったってこと?あんたの血を根から吸い上げて?」


「半分正解、半分不正解」


 コルキアは無感動な声と表情でクラリスを見下ろし続ける。


「木の自我は、動物達と比べてひどく茫漠としている。だから、自分の周りの空気に血の匂いが染み込んだだけで呪いは発動する。動物だと、血を飲んだりしな

い限りは発動しない。少し魅力を感じるだけ。それだけ自我が強いから」


 それには心当たりがあった。クラリスはこの女に一瞬でも魅力を感じたことに吐き気を催す。


「とんでもない呪いね。森の木々や植物たちは、あんたに呪われたってわけだ」


「違う」


 コルキアは、緩慢な動作で首を横に振った。胸元の血を想起させる暗赤色の瞳がにわかに震え、無感動な声が微かな哀切を帯びる。


「これは、私にかけられた呪い。呪われているのは、私の方」

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