第27話 魔女来りて

 街の上空を、不吉な鎌に腰掛けた黒装束の少女が横切っていくのを、ウィリデの街の人は誰も気づかなかった。もし気づいたとしても、はるか上空を燕のような勢いで飛んでいく黒い物体の正体まで、わかった者はいなかったであろう。


 だが、街はずれの果樹園で一人遊んでいた男の子は、その正体を間近で見た。


「坊や、ウィリデの街の郊外の森と言えばあれかしら」


 目の前に突然降り立った黒衣の少女を一目見た少年は、ぽかんと口を開けた。一瞬、死神でもやってきたのかと思って目を瞬くが、相手が自分よりずっと年上の可憐な少女であることに気がつく。


「えっと、あの」


 しばらく意味のない言葉を発してから、少年は少女が指差す先の森を見て頷いた。


「そうだよ。郊外の森といえば、あの森以外にないよ」


「そう、ありがとう」


「お姉さん、観光客?」


 踵を返しかけた少女を、思いがけず少年は呼びとめていた。見たこともないくらい綺麗な顔をした彼女を、もう少し見ていたくなったのだ。それと、どうしてそんなに大きな鎌を持っているのかも気になっていた。


「ええ、そんなところ」


 少女はそれしか言わなかったので、これ以上会話を続けようもなかった。少年は黙したまま、少女の持つ大きな鎌を見上げる。銀色の刃の部分以外は黒い光沢を放つその巨大な武器の柄には、一輪の赤い薔薇が蔓を這わせているのが見えた。


「……その鎌、何に使うの」


 やっと絞り出したその問いには、少女は答えてくれなかった。


「お前は、知らなくて良いことだ」


 にわかに口調が変わった少女に、少年は少し自分が怯えたことに気がつく。 

 そんな少年をしばし見下ろしてから、少女はさっと振り返って、森へ続く小道へ歩き出してしまった。少年は呆然とした顔で、その黒い後ろ姿を見送った。


 森へ足を踏み入れた少女——コルキアは、整備された遊歩道を見て立ち止まった。遊歩道にはキラキラと瞬く木漏れ日がそそがれ、脇には小さな青い花がポツポツと咲いている。他に観光客の姿はなかったが、普段からそれなりに人の出入りはあるのだろう。遊歩道の邪魔にならない程度に下草が刈られ、明るい茶色の土が敷き詰められた道の上には塵一つない。それらを一瞥してから、コルキアは再び歩き出した。


 木々の密集度はそれほどではなく、暖かな陽光は木々の枝や葉を透かして森の中を陽気に照らし、進んで行くコルキアの黒い髪やドレスにすら柔らかな色を灯した。それでもこの穏やかで陽気な森には、巨大な鎌を持った全身黒ずくめの少女はひどく異質なものに映った。そしてその異質なものは、森の住人にすぐに気づかれる。コルキアがたった今通り過ぎた木の上には、葉を隠れ蓑に潜む白い雌猫がいた。彼女はその青い双眸で招かれざる客の背中をじっと見つめた後、音も立てずに隣の木の枝に飛び移って、姿を消す。


 そんなことは露知らず、コルキアは森の奥へ進んでいく。だが、行けども行けども魔力猫の里らしき場所にはたどり着かない。とうとう遊歩道を外れて道なき道を行き始めてもそれは同じこと。


 諦めたのか、コルキアは立ち止まり、上を見上げて長く息を吐いた。頭上から溢れる陽光に目を眇めてから、おもむろに腰にくくりつけた四角い鞄の蓋を開けた。そこからは、古びた革張りの本が現れる。


 そばの木に鎌を立てかけ、自由になった両手でその本を鞄から引っ張り出すと、コルキアは何の躊躇もなく本を開いた。その本の中には、この国のものではない言語で綴られた文章がぎっしりと詰まっている。コルキアはその赤き双眸で、羊皮紙に書きつけられた古い言葉を見、ページを捲った。それを、繰り返す。やがて、目眩が起こるような膨大な文字の羅列の果てに、複数の歯車が噛み合った精緻な絵が現れた。それに目を見張ったコルキアだったが、そこでパタンと本を閉じてしまった。


「やはり、無闇に触らんほうがいいか」


 呟くと、コルキアは鎌を立てかけた木の根元に腰を下ろした。座ると、黒いドレスの裾が黒薔薇のような様相をなして新緑の草の上に広がる。それから、華奢な背を背後の木の幹に預け、コルキアは目を閉じた。うたた寝でもしているのかと思えるほどには長い時間をそうしていた。それから、不意に、ひどく物悲しい声音でまた独り言を発した。


「これも全ては悲願のため」


 目を開くと同時、自嘲めいた笑みが彼女の無表情な面に広がる。

 それからおもむろに右手を伸ばして、横に立てかけてあった鎌の柄に触れる。緩慢な動作で立ち上がって、ドレスについた塵を払い、彼女はーー。


「私を愛せ」


 その一言と共に、巨大な鎌の切っ先を、その身に自ら突き立てた。





「長っ、森に魔女が」


 魔力猫の里で、クラリスの短い報告を受けたオレリアは、別段慌てる素振りも見せなかった。それも当然。魔力猫の加護なしに、何者もこの里へ入ることはできぬからだ。たとえそれが邪法に通づる魔女であっても同じこと。


「ヴェスターはどうしている?」


「マチアスと一緒にいたかと」


「里の中にいるね?」


「はい、それはもちろん」


 それ以上質問はなかったので、クラリスは再び見張りに戻ろうとした。それを止めるように、オレリアが指示を投げる。


「クラリス。皆にしばらく里を出ぬよう触れを」


「はい」


 見張りに戻るのはやめて、クラリスは里中を駆け巡って長の言葉を伝えて回った。だが、クラリスが一匹の魔力猫に伝えれば、そこから伝言ゲームのように里中に拡散されてゆくので、忙しいのは前半だけである。一応、聴き漏らしたものがいないか見回っていると、倒木の上で話し込んでいるヴェスター、マチアス、アーデスを見かけたので、輪に飛び込ませてもらった。挨拶代わりにマチアスとアーデスと鼻を突き合わせてから話しかける。


「長の触れ、ちゃんと回ってきた?」


「ああ、聞いたよクラリス。アーデス様から教えてもらった」


 マチアスが答え、クラリスは「そう」と頷く。それからクラリスは、物憂げな表情を浮かべるヴェスターへ声をかけた。


「大丈夫よ、ヴェスター。この里には誰にも手出しできないから」


 だが、ヴェスターは「うん……」と喉を低く震わせただけで、心ここにあらずといった風情だ。心なしか毛艶も悪く見える。


「まあどうしちゃったのヴェスター」


 クラリスが驚いて声を上げると、アーデスが代わりに答えてくれた。


「なぜこの場所がわかったのかと、考えておられるのです」


「それは……そうよね」


 クラリスは言葉を濁した。マチアスは手遊びに倒木に爪を突き立てて研ぎ始める。落ち着かない気持ちを切り替えようとしているのだろう。


「ヴェスターがここにいることを知っているのは、我々魔力猫以外だとステイシー様、メル様、シャーロット様だけ……。この中の誰かが魔女に教えてしまったとか?」


「まさか」


 クラリスはマチアスの推測に間を置かずに否定する。


「教えるわけないじゃない」


 ふん、と鼻であしらわれたマチアスは、困った様にクラリスを見上げた。その沈黙の抗議を無視して、クラリスは毛づくろいを始める。


「とにかく、ここは安全。それでいいじゃない。わからないことを考えたって仕方がないわ、ねえヴェスター」


「クラリス……」


 ずっと黙っていたヴェスターが、不意に口を開いた。


「僕は、僕は不安だよ。コルキアはきっと、強引な手段で誰かからこの場所を聞き出したんだ……そうに、違いない」


 その時、けたたましい鳴き声と共に、鳥の群れがいっせいに木々から飛び立つ音が里中を震わせた。会話どころでなくなり、クラリスたちはびっくりして蒼穹へとたった今飛び出したコマドリやムクドリ、烏の群れを目で追う。鳥達があそこまで騒ぐのは、明らかに異様な事態だ。


「なななっ、何ですなんです!?」


 全身の毛を逆立て、情けないほどに背中を丸く縮こめたマチアスが悲鳴をあげるのと、アーデスが無言でどこかへ走り去るのは同時だった。クラリスとヴェスターは、声もなく鳥たちの知らせた異変に緊張を走らせる。


「ちょっと、何黙ってるんです!?今の何!?」


「マチアスうるさい」


 ぴしゃりとはねつけるように言うと、クラリスは「里の中央へ行きましょう」とヴェスターをせっついた。それでも反応してくれないので、子猫を運ぶ時の要領で強引に首根っこを噛んで急き立てる。半ば引きずるようにヴェスターを連れてクラリスが歩き出すと、マチアスもそのあとへ続いた。


 里の中央。その目印は、オレリアがよく根城にしているオークの巨木だ。緊急事態のあったときは、皆ここに集まることになっている。先ほどすごい速度で走り去ったアーデスは、オークの巨木のある場所と正反対に向かって行ったのでそこにはいないはずだ。


 クラリス達が着いた頃には、すでに里の魔力猫のほぼ全員が集まっていた。ざっと二百匹はいるだろうか。皆落ち着きなく互いに言葉を交わし、体をすり寄せ合っては鳥達の消えた空を見上げている。


 クラリスは手当たり次第に魔力猫達に何が起こったのか知らないか尋ね廻ったが、誰も今の状況を把握している者はいなかった。真っ先に鳥達の騒ぎの原因を突き止めに行ったであろう、アーデスの帰りが待ち遠しい。


「もう、何だってのよ」


 クラリスは口を尖らせる。ヴェスターから目を離さないよう注意しながら、暇つぶしに自分なりにこの状況を整理しようと試みる。そうすると自然と思い起こされるのは、先ほど自分の目で見たコルキアの存在だ。きっと鳥達を驚かせたのはコルキアだろうと考えると合点が行く。というかそれしか考えられない。


「あんな陰気な娘に緊張を強いられるなんて、ばっかみたい。魔女が何だってのよ。それに、見ればあいつ使い魔もいないみたいじゃない。そんなんで魔女と名乗るってのも馬鹿らしいわ」


 周りの目も気にせずに虚空に毒を吐いていると、やがてアーデスが戻ってきた。その顔は、いつも落ち着いた彼には珍しくひどく慌てていた。


「長!!」


 猫たちの目を一斉に浴びながら、アーデスは巨木の枝にその身を横たえているであろうオレリアに向かって声を張り上げた。


「森の木々が枯れ始めています。コルキアが妙な魔法を使っている!!」

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