第21話 魔力猫たちと図書迷宮

「マチアス、クラリス!」


 火で炙り、塩をまぶした魚をたらふく食べ、魔力猫たちが夕食後のゆったりした時間を過ごしていると、一匹の黒猫がその輪の中に飛び込んできた。黒猫姿で人語を喋ってはいるものの、魔力猫たちは彼が自分たちと同じ存在ではないということは十分理解している。だからと言って決して遠巻きにしているわけでもなく、昨夜里長のオレリアによって催された、彼の歓迎パーティですっかり打ち解けていた。


「どうしたのよヴェスター。あなたもさっきお魚いっぱい食べて、満腹でしょう。そう騒がないでゆっくりしましょうよ」


 白猫のクラリスは毛づくろいを一旦止め、ヴェスターへのんびり声をかけた。彼女とは打って変わり、ヴェスターはそわそわしていて落ち着かない様子だ。


「今はのんびりするのやめて。それより、僕は発見したんだ」


「何をです?」


 マチアスが興味深そうに訊くと、「うーんとね、言葉より見た方がわかりやすいかなあ。できるかどうかはわかんないけど」とぼやいて、ちらりと自分の後方を伺う。そこには灰色の毛並みをしたアーデスがいる。アーデスは頼もしげに「やってごらんなさい」とヴェスターへ何事かを促す。するとマチアスやクラリス以外の魔力猫たちも興味を惹かれたのか、何事かと身を起こしてヴェスターとアーデスの方を見つめた。アーデスは、中央に炊かれた焚き火を受けて煌々と輝く同胞たちの瞳を見返し、こう告げる。


「みなさん、今宵は彼が、素敵な魔法を見せてくれるそうですよ」


 魔法という言葉に無関係ではない魔力猫たちの興味が、一気に跳ね上がった。皆、ヴェスターの正体は知っている。シーグリッド・エルヴェスタムが作り出した異次元の大図書館にして自我の芽生えた魔力。それがヴェスターだ。そんな奇跡的な存在のヴェスターが、一体どんな魔法を披露してくれるのか、皆ワクワクし始めたのである。普段、食後はのんびりゴロゴロするのが信条の彼らも、たまには食後の余興も良いだろうと口々に囁き合い、「なんだろう」とヴェスターへ目を向ける。


 ヴェスターはすっかり緊張してしまったようで、「えっと、もう、アーデス余計なこと言わないで。うまくいくかわかんないから、とりあえず最初にマチアスとクラリスに見せようと思ってたのに」と顔を赤くする。


「おーい、早くやってくれよ。焦らされるのは好きじゃねえんだ」


 大柄なトラ柄の魔力猫に野次を飛ばされ、ヴェスターは「もう、わかったよ」と口を尖らせた。トラ柄の魔力猫はマタタビ酒でも飲んだのか、もうすっかり出来上がっているようで、「待ってましたあ、あはははは」となぜかゲラゲラ笑って太ったお腹を前足で撫でている。その姿に妙に見覚えがあると思ったら、いつか王都で見た、酔いつぶれて店先で座り込んで飛び出た腹をさするおっさんそのものだった。


「それじゃあ行くよ、みんな」


 ヴェスターがそう宣言した頃には、大勢の魔力猫が集まってきていた。何か始まるということで、遠い場所でゴロゴロしていた他の仲間たちも呼ばれてやってきたのだろう。その中には親の尾にじゃれつく年頃の子猫たちの姿もある。子猫たちのまん丸の瞳が一番好奇心旺盛に見えた。


 ヴェスターは多少緊張しながらも、「えい」と気合を入れた。それからグンと四つ足で地面を踏ん張ったまま背筋を伸ばした。するとたちまちその体は硬い鱗を持った巨大な竜へ変貌する。


「おおお」と悲鳴の入り混じった歓声をあげる魔力猫たちの前で、黒竜の姿になったヴェスターにまた変化が現れる。体を覆う鱗の一枚一枚がキラキラと輝いたかと思うと、その巨体は煌めく星々の大河と化した。入れ替わりに竜の姿はどこにも見えなくなる。だが、ヴェスターが消えたわけではない。彼は今、本来の魔力の塊という姿に戻ったのだ。夜空を彩る天の川が、突然地上に落っこちてきたような姿をした美しい魔力は、魔力猫たちの周囲を自在に駆け巡る。


「お星様だあ」


 一匹の子猫が懸命に後ろ足で立ち上がり、それをふわふわの前足で捉えようとした。しかし、あと少しで触れそうだった星が消え、代わりに白い光が子猫の小さな体を包み込んだ。ビックリして「お母さん!」と叫び終わると、子猫はいつの間にか見知らぬ場所に立っていた。他の魔力猫たちとともに。


図書迷宮ビブリオラビリンスへようこそ」


 頭上から降ってきた優しい声に子猫が顔を上げると、そこには両翼を折りたたみ、宙に浮いた階段の手すりを後ろ足でがっしり掴んで止まる黒竜の姿があった。黒竜の背後には本棚を内包した木の幹の如く太い蔓がいく本も上へ伸び、収束地点である頂上には魔力猫の里にあるオークの巨木が霞むような大きさの大樹が、城のように聳えている。


 自分たちが、あの伝説の図書迷宮の中にいるとわかった魔力猫たちの間から、どっと歓声が沸き起こった。


 ヴェスターはそんな彼らを心底嬉しそうに眺める。


「ああっ、ヴェスター。なんでもっと早く見せてくれなかったんです!?」


 マチアスが立っていた踊り場から危なげなく手すりに飛び登って尋ねると、ヴェスターは「いやあ」と少し恥ずかしそうに小さく翼を動かした。


「やり方……というか、自分が今どういう状況なのかがよくわかってなくて。けど、アーデスやオレリアに相談したらわかったんだ」


「どういうことです?」


「僕はね、ずっと自分の、つまり、自分が構成しているこの空間の中に閉じこもっていたところを、つい一月くらい前に、メルに連れられて外に出てきたんだ。そしたら今度は、どうやって閉じこもっていたかわからなくなって。というか、本来僕は図書迷宮そのものなんだから、図書迷宮が図書迷宮から出るという矛盾したややこしい事態になってしまって、自分が今どういう状況なのかわからなかったんだよね。それがようやくわかったってことだよ」


ヴェスターは興奮した様子で鼻を膨らませた。


「円に例えるなら、今まで僕は円の中心点にいて、そこから異次元を展開していたんだ。いわば、図書迷宮の核ってことだね。それが、メルと一緒に外へ出ると核ではなくなってしまった。位置が逆になったんだ。中心点が異次元、つまり図書迷宮で、核だった僕は中心点を覆う円周になっていたんだ。その状況が具体的にわかったから、中心点と円周を自由に逆転させることで、また異次元を展開できたり自分のうちに閉じたりできるんじゃないかって仮説が立ったってことだよ。で、今それが立証されたってわけ」


 ヴェスターの長々とした説明に途中で飽きてしまったのか、聞いていたが途中でわからなくなってしまったのか、マチアスは「はあ、なるほど?」と小首を傾げた。


「要は、ヴェスター殿は自在に図書迷宮の中と外を行き来できるようになったということですか」


「うん、まあ、ものすごくざっくり言うとね」


 マチアスはほうほうと頷くと、矢継ぎ早に尋ねた。


「それで、あの、ここにある本を見てもよろしいのですか」


「もちろんだよ。だってここは図書館だよ。貸し出しももちろんできる」


 ヴェスターの言葉にマチアスはいてもたってもいられなくなったようだ。すぐに空中階段の上を飛ぶように走り、本棚に詰め込まれたありったけの本を物色し始めた。他の魔力猫たちも似たようなもので、皆この異次元の図書館を早速楽しんでいた。本を開いて文字を読み、まだ見ぬ素敵な本との出会いを心待ちに本の海を泳いでいく。


 その光景を見たヴェスターは、ひどく懐かしい気持ちに駆られた。在りし日の、自分の、図書迷宮の姿だった。いろんな人々が空中階段を行き交い、思い思いに本棚へ手を伸ばし、蔓の台座に座って本を読みふける、図書館の姿が。そこには人種も種族も身分も関係ない。あらゆる壁が取り払われ、すべての生きとし生けるものが学べる場所。幾万の叡智と、幾億の物語と出会う場所。あの頃はシーグリッドも生きていた。まだヴェスターは、今のように具現化することはできなかったけれど、図書迷宮中を魔力となって包み込みながらその様子を眺めていた。幸せに満ち足りた時間だった。シーグリッドが死に、自分が暴走して、知識を際限なく取り込みつづける怪物になり果ててしまうまでは、この景色が当たり前だった。


 ヴェスターは長い間過ごした孤独の月日を思い返した。自分が封印されたことにも最初は気づかなくて、どうして誰も来ないのかそればかり考えていた。惨めで、寂しくて、恐ろしくて、たった一人で過ごし続けたあの日々。不意に封印が解けた時、エディが来てくれたけれど、彼も去りまた長い間一人になった。けれど今はもう、一人じゃない。


 ヴェスターは友達の顔を一人一人思い浮かべた。エディ、メル、アーサー、シャーロット、ステイシー、マチアス、クラリス、オレリア。館長や、普通の猫と思い込んで可愛がってくれる図書館司書たちや来館客も、友達と呼んでもいいかもしれない。そして今、この場所はかつての姿を取り戻しつつある。寂しさのあまり無理やり連れてきたのではない、正真正銘、この場所を図書館として楽しんでくれる彼らが今、ここにいてくれる。


「メル」


 ヴェスターは、目の前の光景が幻のように消えてしまわぬよう、瞬きもせずに見入った。


「君のおかげだよ。君が僕を外へ連れ出してくれたから、今この光景を眺めていられるんだ」

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