第20話 呼び出し
ラーシュが去ってしまうと、メルは再び手を動かし始めた。しばらくして台車が空になったので戻ろうとすると、ヘインズさんと出くわした。セシリア・ヘインズ。メルとシャーロットの直属の上司である。つい最近三十歳の誕生日を迎えたばかりだった気がする。何の祝いの品も言葉もかけていないことに気づいたメルは、気まずくなった。
「ミス・アボット」
ヘインズはメルを見ると、なぜか表情を柔らかくした。
「ちょうど良かった。あなたを探していたんです。館長がお呼びですよ。すぐその台車を戻して、館長室へ行きなさい」
「マクレガン館長が?」
メルは首をひねりながら、ヘインズの指示に従った。台車を戻して館長室まで続く長い廊下を歩きながら、先日の騒動——王城上空に竜が現れた事件についてのことでの話かもしれないと思いつく。本当にうんざりする。館長に対してではない。
果たして、メルの予想は当たっていた。しかし、一から説明する必要はなかった。なんと、メルの祖母ステイシーの手紙によって、話が伝わっていたからである。一体いつの間に書いて投函していたのやら。
「ミセス・ステイシーの手紙には驚かされました。まさかそのような事態になっていたとは」
「本来は私から報告すべきだったところを……。申し訳ありません」
頭を下げるメルを、館長は特別叱るようなことはしなかった。代わりに、館長の座る大きな事務机の前に置かれた革張りのソファへ腰掛けるよう勧められる。前はなかった気がするのだが、来客の対応用に新しく購入したものだろうか。
「手紙でははっきりとした場所は明記されていませんでしたが、ヴェスターは確かに安全な場所にいるのですね?」
館長の問いに、メルは固く「はい」と頷いた。
「安全です。あそこ以上に安全な場所は他にはないと思います」
「それは一体どこなのかということは……、今は聞かないでおきましょう。あまり大勢の者が隠れ場所を知るのも良くない気がしますしね」
館長の言葉にメルはホッとする。ステイシーが魔力猫の里を手紙で明かさなかったのは、きっと
「ミセス・ステイシーのことは信頼しています。そしてあなたのことも。あなたたち二人が安全だというのなら、ヴェスターは確かにコルキアと名乗る魔女には手出しできない安全な場所にいるのでしょう」
館長が言葉を続けている途中で、こんこんとドアをノックする音が響いた。館長がどうぞと言うと、ヘインズが「館長、馬車がもう到着しています」と用件だけを告げ、すぐに下がっていった。すると館長は、メルの前で出かける準備を始め出す。
「どこかへお出かけになられるんですか?」
ずいぶん急だなと思いながら尋ねる。館長は「ええ」と頷き、思わぬことをいった。
「今から、国王へこのことをお伝えしに行くのです」
「このこと……って、ヴェスターのことですか」
印刷された肖像画でしか見たことのない国王の顔を思い浮かべながらメルが目を丸くすると、館長はさも当然と頷く。
「国王には、図書迷宮はもはや有害な存在ではないことを伝え、理解を得ています。ヴェスターを自由にさせても良いとの許可も同時にいただいています。その国王に、今回のことを伝えないのは不忠になりましょう」
メルは面食らった。図書迷宮の再度の封印が取り下げられたのは、メルの事情説明に納得した館長の心遣いのおかげだと思っていたのだが、まさか国王からも許可を得ているとは想像もしていなかった。
館長は鏡を見て帽子の位置を確認しながら話を続ける。
「この件を受けて、国王がどのように判断なさるかはわかりません。もしかしたら、再度封印することを要請するかもしれません」
その言葉にメルは絶句し、ようやっと「どうして」と悲痛な声だけが漏れた。
館長はメルの前を通り過ぎ、ドアノブに手を添える。その動作を途中で止めて、顔だけをこちらに向けた。
「他者の手に渡ってしまうくらいなら、封印してしまって手も足も出させなくしたほうがマシと、あなたは考えてみませんでしたか」
「で、ですが、ヴェスターは今、コルキアに手出しできない場所にいます。館長もそう仰ったではないですか。ですから、わざわざそんなことをする必要は……」
メルの考えに、館長は首を横にふる。
「国王もそのように考えてくださるかは分からぬことです。あの方は合理的な手段を好む御仁。奪われるのを避けるため、より確実な手段を選択する可能性は大いにあります」
館長は少し肩の力を抜いて、「まあ」と息を吐いた。
「私もできうる限り、ヴェスターの安全性が確立されていることをお伝えするつもりです。再び封印して長い間孤独にさせるのはかわいそうだと思うくらいには、私もヴェスターについては好ましく思っているのですよ」
それからメルは、館長に鍵を閉めるので部屋から出るよう促され、それに従った。そして、図書館から出て行く館長の姿を見送った。館長は最後にああ言ってくれたが、それでもヴェスターがまた封印されるかもしれないという不安で、心がいっぱいだった。
午後からの仕事は、館長との会話が思い起こされてろくに手がつかなかった。館長はいつ戻るのだろう、国王はなんと言ったのだろう。そればかりが気になって仕方がない。結局、館長が戻ったのか戻っていないのかも分からぬまま図書館の閉館時間になり仕事が終わっても、メルの気分は塞いだままだった。シャーロットに心配されたが、メルはとてもではないがヴェスターが再封印されるかもしれないということは言えなかった。そんなことを自分が言ってしまえば、それが現実になってしまうかもしれないという強迫観念が邪魔して言うことができなかったのだ。それは祖母のステイシーに対しても同様で、夕飯の食事中も館長にいつの間に手紙を出していたのかという会話が精一杯で、それ以上ヴェスターについて話すことはできなかった。
食後、皿洗いを済ませて自室に戻ったメルは、部屋の窓の外に顔を覗かせる、わずかに欠けた丸い月をしばしぼんやりと眺めた。月を囲う夜の闇はヴェスターの艶やかな黒い毛のようで、自然とその姿を脳裏に思い描く。今頃ヴェスターはどうしているだろう。アーデスやマチアスらの魔力猫達と仲良くしてくれていればいいのだが。それからメルは、明日のことを考えた。もし、館長から話を聞いた国王が、コルキアの手に渡るくらいならば再封印を施すと決定していたら、封印は誰が施すのだろう。それはきっと館長だ。けれど、館長はヴェスターがどこにいるのかは知らない。だから、必然的にヴェスターを迎えに行くのは、メルやシャーロットの役目になる。もしそうなれば、どんな顔をしてヴェスターに会えばいいのだろう。再びヴェスターを孤独の淵に追いやるのは、メルにとってはひどく心苦しいことだった。そうなるかならないかは、おそらく明日、館長に聞いてみればわかるはずだろう。
今夜は眠れなくなりそうだと、メルはため息をついた。
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