第19話 ラーシュ・グルーバー

 翌朝、少し疲れの残る体を引きずりながら、メルは出勤した。シャーロットが寝坊して遅刻してこないか心配していたが、彼女もとろんと眠そうな顔をしながらも、きちんと出勤してきた。シャーロットはメルと顔を合わせた途端、「もう一日休みが欲しかったわ……」と願望を言ってきた。メルも正直同じ気持ちである。


 その後、各々の仕事をするため二人は別れた。メルの午前の仕事は、いつも通り本棚の整理や本の返却だ。台車を押して本棚の間を駆けずりまわり、可動式の木製梯子に登っては本を棚へ並べてゆく。いつもなら、そんなメルの後ろをヴェスターが付いて回っているはずである。ヴェスターと一緒に過ごすようになってからそれほど時間は経っていないというのに、すっかり日常になってしまっていたことに今更気がつく。ヴェスターがいないことにしばし寂しさを感じながら、メルは淡々と業務をこなしていく。


「あれ、今日はあの黒猫ちゃんはいないんだね」


 たまたま通り掛かった、一つ年上の先輩司書・ラーシュ・グルーバーに声をかけられた。生まれつきの猫っ毛なのだろう。頭の上でくるくるしている暗い金色の髪が一房、寝癖のように上へ跳ね上がっている。それがどことなく間の抜けた子犬を思わせるが、彼自身は決して間抜けではなく優秀な図書館司書だ。跳ね上がった癖っ毛が与えるのほほんとした印象と違い、涼しげな目元は知的な青年といった風情をたたえている。ちなみに本人の性格そのものは、髪の与える印象通りである。


「ええ、その、しばらく私の家に、住み着くつもりみたいです」


 ラーシュは、ヴェスターの正体を知らない。いつの間にか図書館を出入りするようになった猫でやけにメルに懐いているという認識しかないだろう。他の司書も同様で、正体を知っている図書館関係者はメル、シャーロット、館長だけだ。なので、メルはとっさに思いついた言葉で適当にごまかした。まさか魔力猫の里にいますなんて言えない。いや、どうせ冗談と思われるから言っても良かったかもしれないが。


 ラーシュは当然メルの言葉を信じ、「そうなんだ」と中性的な顔をほころばせた。


「具合でも悪くなっちゃったのかと思ったよ」


「心配しないでください。元気ですから」


 それからラーシュは、じっとメルの顔を見つめ、こめかみを揉み、またメルを見た。


「どうしました?」


 首をかしげると、「いや、やっぱり、アボットさんだよね」と不可解なことを言ってきたので、メルは「もちろんそうですが」と答えた。するとラーシュは胸の前でぱたぱたと手を振り、「いやそうじゃなくて」と否定した。


「新聞だよ。一昨日の号外と昨日の朝刊の一面を飾っていた、あの黒い竜の写真。竜の手に捕まえられていたの、アボットさんだよね」


 その言葉に、メルの顔はさっと青ざめた。新聞に載っていることをすっかり忘れていた。道理で今朝の事務室で、周囲の注目を浴びている気がしたわけである。


「あ、あれは、その……えっと」


 何かうまい言い訳を言わねばと頭を振り絞るが、何も出てこない。するとラーシュが「やっぱりアボットさんだったんだね」と嬉しそうに言った。「え」と固まったメルの前で、「すごいよねえ」となぜか感心している。


「大空を駆ける竜、そのかいなに抱かれた少女。まるで魔力が豊潤だった時代の、古い物語の挿絵のような光景。僕もパーティに行っていれば……」


 ラーシュはあからさまにがっかりする。


「生で見られたかもしれないのに。それに、竜に攫われたのが僕になっていた可能性も」


 別に攫われたわけではないのだが。一体、記者たちはあの出来事をどう解釈したのだろう。メルはラーシュへ尋ねた。


「あの、ちゃんとまだ新聞を読んでなくて、その、記事には何て書いてあったんですか」


 ラーシュは暗記しているのか、そらで答えた。


「昨日の朝刊での見出しはこう。『王子の誕生パーティに竜現る。少女を誘拐か!?』。内容の方は、竜がまだ絶滅していない証拠となる大事件だと主張する人々と、最新の幻灯機、もしくは大仕掛けのカラクリ人形や凧を使ったパフォーマンスだったのではないかと主張する人々で意見が真っ二つ。それ以外にも、集団幻覚とかそもそも竜じゃないとか様々な憶測が飛び交っていると、王都の混乱ぶりを伝えていたよ。記事では、なんらかのパフォーマンス説を推してたけどね」


「グルーバーさんは、どっちだと思ってるんですか」


「あれは本物の竜だと言いたいけど」


 ラーシュはメルを見つめて言った。


「アボットさんは、今こうして僕の前にいる。本当に竜に攫われていたら、今ここにはいないはずだ。だから、あれはパフォーマンスだったと思うことにしてる。けど」


 ラーシュは難しそうな顔で腕を組んだ


「本当にパフォーマンスなら、民衆の混乱を避けるためにすぐにでも、『今のは最新の幻灯機を使ったパフォーマンスでした』とか言って、すぐに主催者側から発表があるはずだ。なのにそれがない。不自然だ。図書迷宮なんてとんでもない存在が実在することも最近知ったし、やはり本物という説も捨てきれない。それに、図書迷宮に囚われていた人たちが、黒い竜を見たとも言っていた。ひょっとしてその竜が、図書迷宮から出てきてしまったのかな……」


 正解である。だが、そんなこと知るよしもないラーシュはうーんと呻いて頭を掻いた。それから、困ったように眉を八の字に下げてメルへ助けを求める。


「本当はどっちなんだい?あれはパフォーマンス?それとも本物?」


 メルは少し間をおいてから、こう答えた。


「さあ、どっちなんですかね。世の中には、うやむやにしておいた方が良いことも、あるのかもしれません」


 真実を伝えて良いのか、そしてそれを自分で勝手に判断して良いのかがわからず、メルはそう述べることしかできなかった。ラーシュはメルの返答について、一瞬困惑した表情を浮かべてから、納得したように「そうか」と頷いた。


「何でもかんでも解き明かそうとするのは、野暮ってものだね。神秘のベールを剥がしてしまえば、不思議なことが何も無くなってしまいそうだ」


 ラーシュが追求することを諦めてくれたようで、メルはホッとする。だが、同時に図書迷宮に囚われていた人々が、今回の事件を見てどう思ったのかが気にかかった。彼らには、図書館側から図書迷宮のことは他言無用にするようにと要請してある。詳しくは知らないが、国のさる機関から口止め料も渡されているらしい。子供の方は、喋っても冗談か嘘だろうと思われるとして注意だけに留めてある。言いふらすことは多分ないと思いたいが、彼らが新聞を見て、図書迷宮にいた竜ではないかと疑うことは可能性としては十分にある。彼らがそう思ったからといってどうなるわけでもないのだが、メルは改めて今回の事件は図書迷宮よりも厄介そうだと思った。何せ思い切り人の目に触れてしまっているのだから。

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