第9話 開け扉よ風よ吹け
「そうか、お前、邪魔だな」
突然口調が変わったことに困惑するメルの前で、コルキアは両手で大鎌を持ち上げた。それから、三日月のように湾曲する刃の部分を下に向け腰を落とす。メルがハッと目を見張ることしかできなかった一瞬の間に、彼女はその体勢から滑るような動作で刃を滑らせ、メルの体を刻もうとする。しかし、死神のように迫るその残虐な刃を、メルの背後より飛び出た黒い鞭のようなものが寸前で叩き落とした。鎌は重い音を立てて大理石の床にのめり込む。コルキアは悔しげな素振りも見せず、「ほう」と息を吐いてメルの背後を見上げた。つられてメルもコルキアの視線を追う。その先には、太陽の日差しを遮り塔のように地上を見下ろす、黒い竜の姿があった。
首に巻かれていた赤い蝶ネクタイがはらりと落ちる。懐かしい姿に目を丸くするメルの前で、黒竜に変じたヴェスターは、鱗で覆われた前足でメルをそっと包み込む。そして、背中の黒い両翼を羽ばたかせ、宙に舞い上がった。
コルキアはそれを追って駆け出そうとしたが、ヴェスターの翼によって起こされた突風がそれを邪魔する。周囲の木々が、根元からちぎれてしまいそうに身をよじるほどの暴風だ。コルキアは吹き飛ばされないように、床にめり込んだ大鎌の柄にしがみつく他なすすべがない。メルはヴェスターの頑丈な前足で風から守られていることに、少し安堵した。
「このまま逃げるよ」
メルへそう一声かけると、ヴェスターは前進した。しかし、その先はパーティ会場になっている城の庭園だ。案の定、突如上空に出現した黒い影に、会場は騒然となる。踊っていた人々も、演奏者達も、それどころではなくなり悲鳴をあげて逃げ惑う。
「あう、ちょっとまずかったかも」
竜だ怪物だと叫び倒し大混乱に陥る人々を見て、ヴェスターはショックを隠しきれていない。
「そんなに僕の姿怖いのかな」
その時、ヴェスターの体の周囲を、突如巨大な鳥かごが出現して囲みこんだ。
「え、なにこれ!?」
ヴェスターは慌てふためいて、翼を不規則にばたつかせる。メルが後方の地上を見てみると、大鎌を持った黒衣の少女が鎌を持っていない方の手をこちらに向けている。
「あの子の魔法だわ」
メルは、自分たちを囲む黒い鳥かごを見渡し突破口はないかと頭を巡らした。すると幸いな事に、鳥かごを支える格子と格子の間は、メルくらいの人間ならなんとか通り抜けられそうな幅である事に気付いた。
「ヴェスター、猫の姿に戻って。そうしたら逃げられる」
「え?何、どういうこと」
捕まった事に混乱しているのか、ヴェスターはメルの言う意味が瞬時に理解できないようだ。メルが「いいから猫になるのよ」と叫ぶと、ようやく黒竜から黒猫へ姿を変える。メルは猫になったヴェスターを抱きかかえると、格子の隙間からドレスの裾を翻して外へ飛びだした。
「うわ、なに考えてるのメル!?」
外は空中。地上ははるか下。メルではなくヴェスターが悲鳴をあげる。だが、すぐに自分が次にどういう行動をとるべきかに気づき、再び姿を竜へ変じた。そのままメルを背中に乗せて、翼を羽ばたかせ天空へ飛び上がる。メルは必死でヴェスターの首にしがみついた。後ろを振り返ってコルキアの様子を確認する余裕はない。
ヴェスターは一気に高度を上げると、王都の町並みをはるか下に見はるかし、とうとう雲の上を突き抜けた。
「ここまで来れば」
ヴェスターが勝ち誇ったように言ったそばから、メルは「まだよ!」と叫んだ。雲の上に出てから安定した高度になったことで余裕が生まれて後方を見ると、漆黒の鎌に腰をかけ空を飛ぶコルキアの姿が見えたのだ。
「できるだけめちゃくちゃに動いて。相手に予測できないように」
先ほどの鳥かごの出現を恐れてメルが言うと、ヴェスターは「わかった」と叫ぶ。そして、めちゃくちゃな動きを見せた。上に下に右に左に時折下方の雲の中へ飛び込み身を隠しながら、相手に次の動きを予測させない。メルの予想通り、コルキアは次々と巨大な鳥かごを連発したが、どれも空振りに終わる。その代わり、メルは命が縮む思いを何度もした。ヴェスターのめちゃくちゃな動きは、当然メルにも予測できないので、意地でしがみつくことしかできなかったからだ。右へ行ったそばから急速に左へ曲がった時には、手がヴェスターから離れそうになって悲鳴をあげた。ヴェスターの方も、ずっとこの動きをし続けるのはきついのだろう。次第に動きにキレがなくなってくる。コルキアはその時を待っているのか、鳥かごも途中から出現させなくなってきた。このままではどのみち捕まってしまう。
「メル!僕に考えがある」
苦しそうに息をしながら、ヴェスターが声をあげた。
「僕の一部、魔力を少しメルに貸すから、それでコルキアを吹っ飛ばすんだ」
思わぬ言葉にメルは唖然とするが、「そんなの無理よ」と吹き付けてくる突風に髪もドレスももみくちゃにされながら叫んだ。
「やり方がわからないわ」
「大丈夫、僕が教えるから」
不意に、ヴェスターヘしがみつくメルの左腕に、暖かな何かが流れ込んできた。これが、魔力と呼ばれるものなのだろうか。こんなに温かいものだとは思いもしていなかった。
「メル、いいかい、手のひらをコルキアの方に向けて、こう唱えるんだ。
「な、何語!?」
「いいから早く!いつまでも避けてられない。本当は僕がやればいいんだけど、今ちょっと飛ぶのに必死で余力がない!」
そうは言われたものの、メルにとってはなかなかに至難の業だった。まず、手のひらをコルキアに向けるということは、今必死でしがみついているヴェスターの首から片手を離し、後方を見ながらコルキアの位置を確認するということだ。振り落とされないだけで精一杯なのに、そんなことをすればメルの体はジグザグ飛行を続けるヴェスターの体から落っこちてしまう。そんなメルの不安がわかっているのか、ヴェスターは「大丈夫!」と叫んだ。
「コルキアに、僕の貸した魔力で魔法をぶつけてくれさえすればこっちのものだ。もしメルがその時に落ちちゃっても、ちゃんと助けに行く!」
メルは、ヴェスターを信じることにした。さっき、鳥籠から逃げる時だって、あんな無茶をしたのはヴェスターがすぐに竜の姿になって飛んでくれると信じていたからだ。今回だって、信じられる。
それでも恐怖が消えたわけではない。だが、ここでグズグスしていてはコルキアに捕まる。ええい、頑張れとメルは自分を奮い立たせ、ヴェスターが言った言葉を心の中で復唱した。大丈夫だ。ちゃんと覚えている。
メルは、右腕をしっかりとヴェスターの首に巻きつけ、風の抵抗を減らすために伏せていた上体をわずかに起こし、後ろを振り仰いだ。その瞬間、雲の上を吹き渡る凄まじい力の風がメルの顔にもろにぶつかり、シャーロットが時間をかけて結ってくれた髪はあっという間に台無しになった。
解けた銀髪を青い空に散らし、氷細工のような薄氷色のドレスの裾を竜の黒鱗の上で波打たせ、メルは左腕をヴェスターの首から離した。体が風に持っていかれそうな感覚への恐怖をこらえ、メルは大鎌に腰掛け追いかけてきているコルキアに向かって、手のひらを向けた。
「
その言葉を唱えた途端、メルの頭上に木製の巨大な両開きの扉が現れた。扉は勢いよく開くと、そこから一塊の風を吐き出した。その風は、周囲を吹き荒れる風の流れを全く無視できるほどの威力だった。横殴りの竜巻のような姿になると、扉の向こうから出てきた風はたちまちコルキアを飲み込む。その風が消えると、コルキアはどこかへ飛ばされてしまったのか、姿は忽然と消え失せていた。
「今のが……魔法?」
「うん。そうだよ。まあ、綿密に言えば、図書迷宮の中で吹く風をぎゅっと集めて、形成した扉から一気に解き放ったってところかな」
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