第8話 魔女

——黒い少女


 メルは、目の前の無害そうな少女に目をやった。黒髪、黒衣、黒靴、黒の装身具。これほどまでに「黒い少女」という言葉の似合う少女がいるだろうか。


 ゾッとしたメルは、肩の上のヴェスターを抱き寄せてベンチから立ち上がった。


「あ、あなたは……」


 うわ言のように言葉を漏らしたメルを、少女は無感動な瞳で見つめる。


 先ほどまで美しいと思っていた少女の顔立ちが、なぜかひどく恐ろしいもののように思えてきた。整いすぎた顔立ちと何の感情も映さぬ白い面は、魂を与えられた人形ではないかという馬鹿げた妄想を呼び起こし、喪服にも見える黒いドレスは「死」を連想させ、病的なまでに白い肌と華奢な手足はそれこそ死人のそれのように思えてくる。黒と白の中で唯一別の色を見せる、珍しい暗い血の色をした赤い眼さえも、この世ならざる者の証のように思えてならない。


「……あなた、誰」


 ほとんど囁くように発せられたメルの言葉を、少女はしっかり聞き取ったらしい。ゆっくりとまばたきをした後で、こう答えた。その声すらも、不自然な造り物ように響いた。


「私は、コルキア。魔女のコルキア」


 思わぬ単語に、メルは目を見張る。


「魔女……。それって、シーグリッドさんと同じ……?」


 かつて図書迷宮を生み出した女性の名を出して、メルは油断なく構えるヴェスターの横顔を思わず見遣った。だが、ヴェスターは「違う」と不機嫌な声を上げる。コルキアと名乗った少女に聞こえないように喋るのはやめたようだ。


「シーグリッドは魔法という複雑な現象を分析・解明して、学問体系として確立させた偉大な学者だ。彼女のおかげで魔法を研究する者が生まれ、魔法学という学問分野が生まれたんだ。けど目の前のこいつは、シーグリッドの後続となるような魔法学の専門家じゃない。魔法を悪用する悪党だ」


 珍しく断定的に言い切ったヴェスターの言葉を鵜呑みにすべきか迷いながら、メルは困惑した表情でコルキアを見つめる。


「そうなんですか」


 馬鹿正直に尋ねた自分に内心メルは呆れたが、コルキアは「そうね」と一言置いて、わずかに思案するような表情を見せた。


「その黒猫がそう思うのなら、そうなのでは?」


 投げやりな言葉にますます混乱してきたメルは、ヴェスターへ助けを求める。


「ヴェスターはどうしてこの人が魔法を悪用すると思ったの」


 今の所、コルキアは何も悪いことはしていない。ただメルたちの前に現れて、ヴェスターを触りたいと言っただけだ。異様な雰囲気を纏ってはいるが、言動だけ見れば、愛らしい猫を撫でてみたいと願う普通の少女である。


 だがヴェスターは、信じられないといった様子で呻くように答えた。


「メルにはわからないの。こいつが禁忌に触れていることが」


 ヴェスターはメルの肩から飛び降りる。そして、メルを守るようにコルキアとメルの間に割って入った。


「お前、自分の寿命をいじってるな。それにその目の色……。悪魔と約定を結んだか」


 ヴェスターの侮蔑と嫌悪の滲む声に、コルキアはわずかに不快な様子で鼻じらむ。ヴェスターはそれを図星と捉えたか、ますます毛を逆立て言葉を続けた。


「僕の正体を知っているな。だから近づいてきたんだろう。お前のようなものがいつか来ると思っていた。お前のような奴に、シーグリッドから託された書物たちを渡すわけにはいかない」 


「……私は本当に、あなたを撫でてみたかっただけなのよ」


 全く感情のこもらぬ声でそう言われても、それが本音だとはメルにも思えなかった。


「本当よ。私はね、猫が好きなの」


 細い腕が乞うように差し出され、黒いブーツに覆われた足が、一歩前へ踏み出された。このままじっとしていてはいけない。何か本能のようなものに促されたメルは、とっさにヴェスターを抱き上げる。それをちらと見たコルキアは、残念そうに言った。


「そう、逃げるのね」


 その言葉とともに、目の前の黒衣の少女の右腕が虚空に投げ出され、手中に奇怪な文字が並んだ円形の紋章が顕現する。そこに手を突っ込み引きずり出されるのは、黒い鉄の棒。


「メルっ、逃げて」


 ヴェスターが叫んだのと、メルが動いたのはほぼ同時だった。


 鉄の棒の正体を見る前に、メルは靴を脱ぎ捨て回廊の奥へ逃げ出していた。そんなメルを尻目に、少女は右腕を振り抜いた。同時に、虚空に浮かんだ紋章が消える。折れそうなほど細い腕の先に握られるのは、巨大な漆黒の鎌。それを軽々と持ち上げ、少女は逃げたメルへ向かって鎌を横一文字に薙いだ。


「メル、飛んでっ」


 黒衣の少女の動きを見ていたヴェスターの叫び声に、メルは慌てて走りながら地面を蹴る。すると、地面から離れた足の下を目に見えない何かが飛んで行き、伸びた回廊のはるか先にある木の幹が平行に割れた。支えを失った上部の幹と樹冠が枝を割る音を響かせ、地面へどうと倒れる。


「嘘、何あれ」


「メル、ああっ、まずい!」


 いきなり、足元の地面が吹っ飛んだ。メルはヴェスターの体を抱きしめたまま、前方へもんどりうって転ぶ。気付けば体のあちこちに強い衝撃が走り、硬く冷たい大理石の床にうつ伏せになって倒れていた。とっさに腕を立てて体を起こすと、その下でヴェスターは「きゅう」と声をあげて伸びている。


「やだ大変」


 自分がうつ伏せで倒れこんでしまったために、胸の前で抱いていたヴェスターを押しつぶしてしまったのだ。あたふたと伸びてしまったヴェスターに声をかけていると、カンッと大理石の床を叩く金属音が背後から響き、メルはギクリと背筋を伸ばす。その背へ、少女の割には低く、無感動な声が投げかけられた。


「ねえ、あなたを殺すつもりはないのよ。その猫を、私に渡してさえくれればだけれど」


 メルは背を向けたまま、顔だけを黒衣の少女——コルキアへ向けた。コルキアは華奢な体躯に似合わぬ長身の大鎌を床につけ、壊れた人形のように首を傾げてこちらを見つめている。


「ヴェスターを手に入れて、どうするつもり」


 必死で震える声を押さえつけてメルが鋭く詰問すると、コルキアは「そんなの決まっているじゃない」と不思議そうに言った。


「その猫、図書迷宮には、莫大な叡智が詰め込まれてる。その中には当然、魔法体系や魔法の発動の術式、方法を記した魔導書だってあるわ。特に」


 コルキアは、スッと目を細める。


「シーグリッドが封じた禁忌の魔導書。この世のありとあらゆる魔導書を読んだけれど、未だに禁忌とされている魔導書には会ったことがないの。当然、よね。もう図書迷宮にしか残されていないもの。魔女がそれを欲しがるのは、当然のことでしょう」


 コルキアは一呼吸おくと、枯れ枝のように細い指先を自身の左胸にあてがった。


「それを使って、私は心臓に刻まれた枷を外し、死の国の扉を開いて、あの人を迎えるの。そうすれば、素敵な素敵なハッピーエンド。何も、悪いことはしないわ。ね?」


 同意を求められても、メルは頷くことはできなかった。目の前の人物はたった今メルたちに不思議な鎌で攻撃を仕掛けてきたのだ。殺すつもりはないと言ったがどこまで本当か。ヴェスターの助言がなければ、今頃メルの両足は切断されて、辺りに血の海を作っていたところだ。そんな人物に何も悪いことはしないと言われても、信用できるわけがない。おまけに、「心臓に刻まれた枷」だとか「死の国の扉」だとかいう怪しげな言葉を聞いて、不穏なことを想像しないほうが無理というものだ。


 メルは「いいえ」と首を振り答えた。


「あなたが危険な人物ではないと思えない限り、ヴェスターを渡すことはできないわ。お願いだから帰って」

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