第7話 黒衣の少女

 メルは、ダンスに興じる人々の群れから遠ざかり、ひたすら庭を突っ切って歩いた。万が一にもダンスに誘われたら最悪だ。踊りなど簡単なものでもできる気がしないし、そもそも見知らぬ男性と手を取り合って踊ると考えただけでもぞっとする。


 広大な庭の隅目指してひたすら歩いていくと、城の居館部分に沿って回廊が伸びていることに気がついた。回廊の角を曲がりその先を覗いてみると、木製のベンチがある。しばらくあそこで休んでいようと、メルは回廊の先へ進んだ。


 ベンチに座ってホッと一息ついたメルは、周囲に人がいないのを確認してから、さっきから足を締め付けている幅広のヒールを脱いだ。締め付けから解放され、メルは足の指を思う存分伸ばす。


 一緒に連れてきたヴェスターはというと、大あくびをしていた。それからうーんと伸びをして、ベンチの上で丸くなる。


「疲れた?」


 メルが尋ねると、ヴェスターは「ちょっとね」と答えた。


「ずいぶんはしゃいだから。そういえば、シャーロットはあのままでいいの?なんか男の人に連れていかれちゃったけど」


「シャーロットなら大丈夫よ。ダンスが終わる頃合いを見計らって、後で合流しましょう」


 言いながら、メルは少し耳を澄ました。ずいぶん会場から離れたかと思ったが、楽団の奏でる陽気な音楽は回廊のベンチに座るメルの耳にも小さくはあるがちゃんと聞こえてきた。音楽が止まったらまた戻ればいい。


 メルは背中をベンチに預けると、空を見上げた。いつの間にか綿飴みたいな雲が空に浮かんでいる。王城で暮らす小鳥たちの囀りがその景色に音を加え、穏やかな時が流れる。さっきまでいたパーティ会場のさざめきは、耳にかすかに聞こえてくるのみ。まるで夢でも見ていたような気分だ。


 その時、メルが来た方向から、回廊の床を打ち鳴らす靴音が聞こえてきた。ちらりとみると、黒いドレスを着た女性がこちらへ歩いて来るのが見えた。メルは、慌てて脱いだ靴を履く。こんな行儀が悪いの誰かにを見られたら恥ずかしい。


 居住まいを正して、メルは空を見上げ、それから隣で丸くなって休んでいるヴェスターを眺めた。そっと手を伸ばして、一定のリズムで上下する柔らかな体をそっと撫でてやる。その間も、こちらへ近づいてくる足音は止まらない。声の届く位置まで来たら、何か挨拶をすべきだろうか。メルは思案した。挨拶するとして、こういう時は何と言うのが自然だろう。「こんにちは」「ご機嫌よう」、それとも「今日は良い日和ですね」? 無難に「こんにちは」にしておこう。けれど、挨拶のタイミングはいつにすればいい。声の届く距離と言っても、いろいろある。メルはこういうのが苦手だった。挨拶のタイミングを見計らいすぎて、結局妙な空気になってしまうことが経験上よくある。


 歩いてくる女性の方へ顔を向けると。もうかなり距離が縮んでいた。明らかに向こうもメルの存在に気づいている。その証拠に目があった気がして、メルは反射的に小さな会釈をした。向こうもわずかに頭を下げて、会釈の仕草をする。


「あ、あの」


 何か挨拶しなければという焦りで、上ずった声をあげたメルだが、相手の異様な服装に目を取られて、言葉は途中で立ち消えになった。


 顔がくっきりわかる位置まで来た女性は、メルと同年か少し歳下に見える少女だった。何より目を引くのは、少女が身につけている真っ黒なドレス。こんな祝いの場に着てくるのに最も選ばれない色のドレスだ。それも、黒の中に白などの他の色がアクセントとして入っているのならまだしも、そのドレスはサテンもフリルもリボンも全てが黒。さらに、靴も髪飾りも髪色さえも、地肌と目以外は全てが黒一色だった。


「……こんにちは」


 少女の姿に気を取られたばかりか、続きの言葉も出てこず気まずい思いでメルが固まっていると、ありがたいことに向こうから先に声をかけてきてくれた。メルは弾かれたように少女の顔を見上げ、「あ、あの、こんにちは」と挨拶の言葉を返す。メルをまっすぐに見返す少女の顔は美しく、こちらに向けられている瞳は暗い赤を灯している。


 少女はメルの目の前まで近づいてくると、メルの隣で丸くなっているヴェスターの方を見つめた。人形師が己の命を削ってでも作り上げたような美貌を放つ横顔に、メルは目を見張る。なめらかな輪郭、憂いを秘めた大きな目、小さな鼻に可憐な唇。肌は雪をまぶしたように白い。少々病的な色合いとも言える。


「ねえ、この子。撫でてもいいかしら?」


 不意に、少女はメルへ視線を投げ、抑揚のない声で尋ねた。ヴェスターを触りたいのだろう。


「ええ、もちろん。この子が嫌がらなかったらですけど」


 これまで、ヴェスターはメルたち以外の人間から体を触られても、大きく嫌がったことは一度もない。むしろ撫でられるのは大好きだ。だからおそらく大丈夫だろうと思いながらも、メルは一応ヴェスターの方を伺った。さっきまでスヤスヤ寝ていたはずだが、いつの間にかヴェスターは起きていて、黒衣の少女をじっとその緑の双眸を開けて観察している。


 少女は自分を見つめてくる黒猫に向かって、「駄目かしら」とコトリと首を傾げた。すると、いきなりヴェスターが鋭い唸り声をあげた。


「ヴェスター」


 メルは驚いて、ヴェスターを宥めようと毛の逆立つ背中へ手を伸ばす。ヴェスターは少女を睨んだまま、伸ばされたメルの腕を駆け上がり、肩へ乗った。それからシャーッと威嚇音をあげる。


「ごめんなさい。普段はこんなことする子じゃないんですけど」


 言いながら、メルは困惑した目をヴェスターに向けた。一体どうしたというのだろう。こんなに警戒心をあらわにするヴェスターなど見たことがない。


「私、嫌われたみたいね」


 少女はそう言って身を引いたが、目はずっとヴェスターへ向けられている。


「すみません」


 メルが謝ってもどうしようもないのだが、この気まずい雰囲気がいやで何か喋ろうとしたら、謝罪の言葉しか出てこなかった。少女は目を伏せ、「いいのよ」とつぶやく。そして、また目をヴェスターへ向けた。


 いたたまれなくなり、メルは思わずヴェスターへ話しかけた。


「ヴェスター、一体どうしたの。どうしてそんなことするの?」


返答の代わりに、ヴェスターは無言でメルの右肩から左肩へ移動した。そして、メルにしか聞こえない小さな声でそっとささやく。


「メル、こいつは只人ただびとじゃない」


「え……?」


 不意に、今まで忘れていた、いや、芝居の台詞かと思い、ほとんど気にもしていなかった男の声が脳裏に蘇る。


『黒い少女に気をつけるがいい』


 あの深みのある、美しい男の声が。



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