第5話 声

 メルたちが馬車を降りると、城の大きな門が三人を待ち構えていた。門は開け放しにされていて、その下をメルたちのように予約した馬車から降りた人々がうきうきとした足取りで潜っていく。彼らは皆王子の誕生日を祝うために、男も女もきらびやかな衣装に身を包んでいた。メルは自分もその一員であることも忘れて、パレードでも見ている気分になる。


 人の流れに従って城の門をくぐると、もうそこは会場である大きな庭園だった。城のお抱え庭師たちによって、綺麗に刈り込まれた丸い木々が整然と並ぶ石畳の道の先には、青い空に元気よくしぶきを上げる大きな噴水。さらにその後方には、王城の主塔が巨人の女神のように美しい姿を惜しげもなく空の下に晒し、女神の背中から生える両翼の如き白い居館が庭をぐるりと囲っている。いつも遠くに見えていた遠い城が目の前に現れて、まるで別世界にでも来ているようだ。


 いよいよ会場の中心までくると、そこはもうお祭り騒ぎだった。白いテーブルクロスの上には贅を尽くした甘い菓子が並び、この日のために呼ばれたらしき大道芸人が奇抜な笛を鳴らしながら歩いていく。美しいドレスで着飾った貴婦人が楽しげに会話し、子供と犬が芝生の上でじゃれつき転び回り、メルやシャーロットと同い年くらいの少女たちがそれを見て楽しそうに笑っている。その隣では青年たちが群がって、ヤンヤヤンヤの大喝采。どうやらポーカーで遊んでいるらしい。不意にその向こうで赤い炎が吹き上がる。大道芸人が口から炎を吹いたのだ。それを見た観客の間からは、わっと悲鳴と歓声が沸き起こる。そこを抜けると、芝生の上に設置された台の上に楽団が座っているのが見えた。提琴ヴァイオリン喇叭トランペット横笛フルート。楽団は、精緻な機械のようにも見える美しい金属製の楽器を手に持ち、本番に向けて音合わせをしている。複数の楽器の音色が絡み合い、幾層にも重なり合ったその音は、なんとも言えない心地よい高揚感を引き出させる。


 さっきからうきうきした気持ちを隠そうともしないシャーロットは、メルの手を取り会場をあちこち歩き回った。時間が経つにつれ人の数も増え、緑の庭は色とりどりの衣装やお菓子で染まっていく。途中図書館の知り合いとも何度かすれ違った。


「想像以上。すごいや」


 メルの腕の中におとなしく抱かれていたヴェスターは、シャーロットに負けず劣らず、いや、それ以上に興奮した様子で感嘆の声をあげた。目を大きく広げ、身を乗り出し、すべてを目に焼き付けようとしているようだ。


「ねえ、そろそろお菓子を食べましょうよ」


 お祭り騒ぎの見物に少々飽きてきた頃、シャーロットがドレスの裾をふわりと翻しながら、長方形のテーブルが連なる一角へメルとヴェスターを連れて行った。テーブルの上には、三段重ねのケーキスタンドがずらっと並んでいる。最下層の段にはふわふわのパンにはさまれたサンドイッチ、中間層にはスコーンやプティング、一番上にはオレンジや林檎を使ったフルーツタルトが所狭しに盛り付けられている。目にも鮮やかで、眺めているだけでも楽しい。一緒に用意されていた陶磁器の皿に盛り付けて食べると、たちまち幸せな気分でいっぱいになる。お城の人たちは、いつもこんなのを食べているのだろうか。


メルがふと足元を見ると、ヴェスターもほおをいっぱいに膨らませてプティングを頬張っていた。すると、そこへ耳の垂れた子犬が走り寄ってきて、ヴェスターにじゃれつきかけた。驚いたヴェスターは大慌てでメルの足を盾にする。自分の足元で始められた愉快な攻防戦にどうしたものかとメルが閉口していると、子犬の飼い主だろう。小さな男の子が子犬を抱き上げ、「かあさん、ペーター見つけた」と叫びながら人ごみの中へ走り去っていった。


 ヴェスターは全身の毛を逆立て、犬と少年が消えていった方向に向けてぺっと舌を突き出す。


「犬って苦手だ。この間も街を歩いてたらちょっかいを出された」


「ヴェスターったら犬怖いのね」


 シャーロットにからかうように言われ、ヴェスターは「違うよ」と抗議の声を上げる。


「苦手なだけだってば」


 それからツンと澄まし顔で言葉を続けた。


「あとシャーロット、口にクリームついてるよ。かっこ悪い」


「なっ!?」


 隣の大皿に乗っている、クリームを挟んだスポンジケーキでも食べたのだろう。シャーロットは慌てて持ってきておいたハンカチで口元を拭い、なんでもなかったように背筋を正した。それを見たメルは、思わず吹き出しそうになり、懸命に笑みを引っ込めようとする。その時、メルの耳元で、唐突に男の声が聞こえた。


「黒い少女に気をつけるがいい」


 深みのある、美しい声だった。


 メルは笑みを引っ込め、弾かれるように自身の左耳に手をあてがった。それから慌てて周囲を見渡したが、どこを見ても人ばかりなので声の主を探すのはほとんど不可能であった。


「メル、どうしたの?」


 突然キョロキョロし始めたメルを不思議に思ったのだろう。シャーロットが首を傾げて尋ねてきた。メルは「声が……」と言いかけたが、見渡していた景色の中で、即興の演劇に人だかりができているのを見て言葉を途切らせた。芝居の台詞の一つが妙に耳についただけかと考え直し、「ううん、なんでもない」と首を横に振る。ちょうどその時、城の門の方から大砲の音が聞こえてきたので、メルの興味はそちらへ向いた。祝砲だろうか。続いて、高らかな喇叭の音が響き渡った。


「きっとミシェル王子の挨拶よ」


 一口サイズの林檎のタルトを手に持ったまま、シャーロットが頰を上気させながらこのパーティーの主役である第一王子の名を言った。


「正直言うと、王子様を見ることが今日の大きな目的なのよね。即位しなきゃ肖像画の印刷も出回らないし。どんな方なのかしら」


「王子様……」


 メルは自分の意見を述べる。


「普通の人とそんなに変わらないんじゃないかしら。王子と言えど同じ人間なんだし」


 すると、シャーロットは何か不満だったのか、「メルったら」と眉尻を上げた。


「本当に浪漫がないわね。こういう時はきっと素敵な殿方よと返すのがセオリーよ」


「そんなに素敵じゃなかったらどうするの」


「そういうのはどうでもいいの。今、こうしてどんな方なんだろうなって、うっとりしながらお姿を想像するのが楽しいんじゃないの。すらっとしているのかしら、透き通るように美しい瞳をしているのかしら、青い目?灰色の目?ああどちらでも素敵だわ。きっと綺麗な衣装を纏っているんだろうなあって」


「じゃあ見ないほうがいいんじゃないかな。夢壊れるかも」


 口を挟んだヴェスターを、すっかり乙女の顔になっていたシャーロットが鬼のような形相で睨みつけた。


「忠告しといたげる。そんなことを私のような女の子に言ったら絶対嫌われるわよ。袋叩きよ」


 よっぽどシャーロットの顔が怖かったのか、ヴェスターはまたメルの後ろに回り込んだ。勝手に理想を高められている王子のことが、だんだん気の毒になってくるメルだった。

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