その4 最低限度の文化的生活はしているようです
果たして僕がこの異常事態を信じたのかと言えば、決してそういうわけではない。とはいえ、事ここに至ってなお否定し続けたところでなにが進展するでもない。
とりあえず、信じられないが認めるのはやぶさかでない。といったところ。
そんな僕の手には一巻のトイレットペーパー。その端は、扉下部の隙間からするすると部屋へ吸い込まれていっている。
「いやぁ、助かった。どうせ誰もいないから、立ち(ピー)も野(ピー)も構いやしないが、さすがに尻を拭く紙がないのはなぁ」
祖父が己の趣味のため思うまま整えたその部屋は、冷蔵庫やら簡易水道やら工具やらが備わっていて彼の生存をずいぶん助けているようだが、さすがにトイレットペーパーはなかったらしい。はやティッシュを使いきり、コピー用紙の硬さにおののいていた祖父は、涙が出るほどトイレットペーパーが欲しかったようだ。
なにを頼まれるのかと思いきや、トイレットペーパー。……そういうもんなのか。
ようやく少なくなったトイレットペーパーを巻ごと押し潰し、無理やり隙間に押し込んで仕送りを完了させる。
「というか、なんで隙間から物を送り込めるんだろう、これ……?」
扉を開けても行き来できないのに。隙間から物の行き来ができるって、おかしくないか?
「分からん。が、おそらく空間座標自体は変わっていなくて、従前通りに隣り合った状態なんだろう。ただ空間接続、つまり連続性に偏向が起きているじゃないか。でなければ、そもそも電気も水も電波も声もこっちへ来るわけがない」
さっぱり意味が分からない。なんか小難しく物理を装っているようだけど、それはSFですらない、なんちゃってファンタジー用語だからね。
一体どこで仕入れた、その知識。
「まぁ、ネットで。いろいろ。な〇うとかカク〇ムとか」
オカルトサイトですらないのか。
「だが、この際 理屈の通じない原理なんぞどうでもいい。それより事実の積み重ねだ」
それはそうなのだが。なんともさっぱりとした割り切り具合は、さすが亀の甲より年の功である。つくづくこんな異常事態に巻き込まれたのが僕でなくて良かったと思う。祖父でよかったとも思わないが。
「他になにか欲しいものってある?」
なんて聞いても、扉の隙間は非常に狭い。せいぜいが2,3センチ。某有名少年探偵漫画で密室トリックに使われそうな隙間だ。こんなご都合主義みたいな隙間のある扉が実在していたのだといっそ感心したい。建物が古いからか? ともかく、大したものは通らない。
「そうだな。あとは、やはり少し食糧、保存食があると助かるな」
食糧より先にトイレットペーパー求めたのか、この人。
「一応、よくわからん生物の肉はあるが、いかんせんどうも不味い」
祖父は血抜きがどうのと言う。ネットで調べて見よう見まねでやってはみたものの、やはり読むのとやるのとでは大違い、食べざるを得ないから食べはするが大変難儀する代物、なのだそうだ。
そうか、さっきのあの写真。アレはガチでじいちゃんが狩ったやつだったか。
「それにしても、武器とかどうしたの? 大丈夫なの?」
「ん、登山用のシースナイフがあるからな。あとは、もとは台所だったっぽい廃墟で朽ちた包丁拾えたから、研いでできるだけ細くして。真似するなよ」
そんな警告されるまでもなく真似しない。したくない。そんなナイフもどきでは、近接戦どころか肉薄戦だ。絶対したくない。
確かに祖父は日頃からジムに通って体を鍛えアウトドアを楽しむような人ではあるが、それにしたって自分の歳を考えてほしい。
「あのなぁ、漣ちゃん。60ってのは、実はまだまだ若いんだからな」
うそつけ。それを世間は年寄りの冷や水と言うのだ。
「くっそ。お前、50年後覚えてろよ」
なんか呪いめいた言葉を吐かれた。しかし、50年後。そうか、50年後は僕も65歳なのか。うん、半世紀先とか、まったく想像がつかない。
「ともかくさ、食べ物のことは僕がなんとか考えるから、あんまり無茶はしないでよ」
「ああ、うん。いやでもそれは、考える必要はない」
祖父が言う。
「俺が隙間を通りそうで使い勝手のよさそうな食品を適当に購入して漣ちゃん家へ送るから、悪いけどそれをこっそり持ってきてくれないか」
なるほど。ネットがあるから購入自体は本人にも可能なのか。僕がまたここへ持ってくるのはひと手間だが、しかしこうなった以上そのぐらいを手間だなんだと言ってもいられない。
「わかった。……他になにかある?」
購入の必要なものは祖父にぽちってもらうとしても、今この家にあるものならすぐに差し入れ可能だし、そうするほうが楽である。
扉の向こうで祖父がうーんと呻った。
「……少年ジャ〇プは、通らないよなぁ」
読むの? そっちはヒマなの?
「そんなもの、ネットとかアプリでだって買って読めるでしょ。電子書籍にしてよ」
そうなのか、と感心したらしい祖父の声。仕事柄、パソコンもスマホも使いこなしている風の祖父だが、それでもやはりところどころアナログだ。
「他は? もういい?」
いい加減切り上げたっていいだろう。事態の深刻さに比例してなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた僕はそう思う。
「ああ、そうだな、あと……」
祖父にはまだなにかあるようだ。頼みづらいことなのか、祖父は言いよどむ。
「なに?」
「……
それは、それはとてつもなく大変なお願いだな!
しかし祖父の気持ちもわかる。きっと自分では祖母を納得させられるだけの
下手に騒ぎになって、万が一世間に知れ渡ったらどんなことになるのか。空恐ろしい。
祖母に打ち明けるかどうかは、祖父の判断に任せるとしよう。
「分かった。気休めにもなるかどうか分からないけど、ともかく、そのうちしれっと出てくるよとでも言っとく」
それにしても、果たして祖父は帰ってこられるのだろうか。どうなんだろう。
「頼む。……そっちに帰れたら、漣ちゃんには旨いものでも奢るからな」
無事帰ってきてくれ。
「そういえば、おじいちゃん。会社、仕事は大丈夫なの?」
「あ? 仕事?」
もしかすると祖父も気にしているのではないかと思って聞いてみたが、その反応は思った以上に淡泊だった。
「あー、仕事か。俺一人いない程度、別に問題もないだろう」
替わりなどいくらでもいる、ということだろうか。
祖父がそういう風に考えているというのは、僕にはちょっと意外だった。
「まぁ、ネットもメールもできることだし。必要な案件は送ってもらって処理したり委任したりしてるからな。やってみれば在宅ワークってのも悪くない」
呆れたことに祖父はそんな状況になってもしっかり仕事をしていた。
ちょっと、会社から来たって人、全然まったくゆっくり休んでないよ、うちのじいちゃん。そしてその分のお給料はちゃんともらえるのだろうか、これ。
祖父もたいがいワーカーホリックだ。僕はそういう大人にはなりたくない。
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