その2 ひきこもりの原因は不明です


 孫の僕が言うのもなんだけれど、わが祖母はこれが意外と思慮深く芯の一本通った強い女性ひとである。


「あら、漣ちゃん。来てくれたの」


 学校帰りの制服姿のまま門をくぐった僕を、祖母は上品な笑みとともに出迎えた。


 中三にもなってちゃん付けで呼ばれることに若干の抵抗を感じつつも、祖父母との良好な関係がもたらす利に完全に目の眩んでいる僕としては嬉しそうな顔をするしかない。

 それはともかく、思っていた以上に祖母が普段通りの様子でちょっと安心した。さしもの祖母ももう少し狼狽えているものと思っていた。


「あ、うん、いや、えっと」


 とはいえなにをどう言えばいいものか、果てしなく分からない。ええい、父め。


「あらあら、まぁまぁ」


 そんな僕を見て、祖母はそれだけでおおよそのあらましを悟ったらしい。つまり、別段心配した僕が自主的にやって来たのではなく、の差し金で来ざるを得なくなって無理っくりにやって来たのだ、と。

 しかし彼女は特になにも言わなかった。その微笑みを深め、シュゥクリームがあると言って僕を中へ誘きいれた。


 祖父母の家は、これがなかなか大きい一戸建てである。よく知らないが先祖が明治からここに住んでいるという。祖父は会社役員とはいえ、もちろん経営者などではないただの勤め人だ。であるのにこれだけの相続を維持しているそのからくりが中学生の僕にはまだ分からない。

 うちの親も都心の高層マンション住まいなのだからそこそこいい暮らしのはずで、できることなら僕だって将来はそういう生活レベルで生きていきたいもんである。だけれども現時点の自分の凡人ぶりを省みるに、おそらく五分五分で無理だろうと察しがついてしまう。

 だから必死こいて努力しているというに、思わぬ邪魔が思わぬところから入ったものだ。


「ほらシュゥクリームは日持ちがしないでしょう? 漣ちゃんが来てくれてよかった」


 祖母はそう言って冷蔵庫から大きなケーキ箱を取り出した。


「お茶はなにがいい? 煎茶、ほうじ茶、抹茶、番茶……」


 選択肢がほんとにお茶ばっかりだった。


「ああ、紅茶もお茶ね。なににする?」


 にっこり聞かれても、できればお茶とかじゃなくてジュースが飲みたかった。しかし事前に知らせるでもなく来てしまったから、普段ジュースなど飲まない祖母は買い置いていなかったのだろう。まさか今から買いに走らせるほど僕は厚顔無恥のワガママお坊ちゃんではない。


「えっと、じゃあ、……紅茶で」

「そうね、シュゥクリームだものね。淹れるから座ってて」


 そう促され、ダイニングの大きな椅子に腰を下ろす。南向きの掃き出し窓から暖かな日が燦々と降りそそいでいる。この家は、建物自体はとても古いけれど、ダイニングキッチンは何度かリフォームされているから明るくて綺麗だ。

 てかちょい待って。今またおばあちゃんが開けた冷蔵庫の中にコーラのおっきいペットボトル見えたよ。そうか、おばあちゃんも普通にコーラ飲むのか。そっち出してほしかった。むうん。


 優美なティーカップの紅茶を二つ持ってきた祖母は、シュークリームを皿に出してくれた。


「たくさんあるから、好きなだけ食べてね」

「うん、ありがとう」


 銀座の店のラベルのついた大きな箱には、確かにたくさんのシュークリームが入っている。なんでこんなにあるんだろう。

 祖母は少し迷ってから、自分の皿にもシュークリームを一つ取り出した。


「さっきね、おじいちゃんの会社の方がお見舞いに来てくださって、持ってきてくださったのよ」


 なるほど。僕の疑問をこれまた察した祖母が説明してくれた。おばあちゃんは先んじて気を回してくれるから話しやすくて好きだ。まぁそうして育てられた結果が父だと考えると、それはそれでどうかとも思うが。


「会社の人って、おじいちゃんの仕事の方は大丈夫なの? 父さんが心配してたよ」


 ちょうどいいので聞いてみた。この答えを持って帰ってやれば、父は満足するだろう。


「うーん、そうねぇ」


 祖母は存外きれいな指を唇にあてた。

 中学生の孫にどれほど話していいものか、かつその孫を通して話が息子夫婦にどう伝わるものかを見当したのだろう。


「会社は、体調不良でしばらくお休みをいただけることになっているから、心配いらないのよ」


 銀座のシューはふんわり柔らかい。甘すぎないクリームがたっぷり詰められている。

 学校帰りでお腹はぺこぺこだ。いくつでも食べられるけど、家に帰れば夕飯があるからなぁ。


「さっきの会社の方も、まずはゆっくり休んで体を治してくださいって言ってくださったし、しばらくは大丈夫」


 なんかあれだな、突然不登校になったやつの担任と親みたいだな。

 案外大人の世界もそんなものなのだろうか。それとも実は社交辞令というやつなのかもしれない。


 祖母が天井をみやる。たぶん二階の祖父を透かし見ているのだろう。


「どうなるか分からないけれど。でも正直なところ、おじいちゃんがもう働きたくないのなら、別に退職してしまっても困らないのだから、いいんだけれど」


 想定以上に深い事情を含んでいそうな吐露に僕はどぎまぎするしかない。子供にそんな明け透けに話してしまっていいんだろうか。とはいえ、言外に含まれた真意を僕は計り知れないので、祖母の判断は正しいのだ。

 聞いたままを親に伝えれば、僕のミッションはクリアーだろう。父はともかく、母は正確に汲み取るに違いない。


 祖母がシュークリームをつまみ上げ、はぁとため息をついた。


「猶予はあるけれど、それにしたってねぇ。なんでまず相談するとか、してくれなかったんだか」


 ああ、と僕は思う。祖母は困惑しているのでも心配しているのでもなく、実は怒っている。

 なにも言わず突然ひきこもってしまった祖父に。どうしたいにせよ、信用して話してくれなかった祖父に。


「シュゥクリーム、もう一つ食べる?」


 祖母のシュークリームの発音は一種独特でちょっとかわいかった。


「うん、もらう」


 祖母はシュークリームをまた一つ皿にのせてくれた。


 それにしても、僕が知る祖父という人は、到底ひきこもるような人とは思えない。どちらかと言えば祖父は殴り込みにいくタイプで、むしろうちの父のほうがある日突然ひきこもったりしても驚かないのだが。

 一体何があったのだろう。あるいは、孫の冷静な声を聞いたら我に返ってひきこもりが恥ずかしくなり飛び出してきそうな気もした。


「ねぇ、おばあちゃん。僕、おじいちゃんのとこ行ってきても、いい?」


 その申し出に、祖母はちょっとびっくりした顔をした。


「それは、たぶん……いいけど。おじいちゃんがどんな反応するかは、分からないわねぇ」


 どんな反応でも驚かないであげてね、とお願いされた。

 それはもちろん。それに無理もしないと約束し、一緒に行ってくれようとした祖母を押し止める。

 祖母がいれば確かに不測の事態には心強いけれども、でも横にいられたらなんか緊張する。それに、部屋の前まで行くだけで退散したくなるかもしれない。そうなると祖母が一緒じゃ引っ込みがつかなくなる。


 祖母の生暖かい目に見送られ、僕はリビングを出て階段を上がった。祖父の部屋は二階。書斎というか、趣味の部屋というか、そんなようなところだ。


 まだリフォームの手の入っていない、少々古めかしい扉の前に立つ。それは大きく僕の前にそびえ立つようで、僕はそっと中の気配を窺った。

 静かだ。あまり人がいるようには思えない。ひきこもりっていうのは皆こういう感じなのか。なんせ人生初の遭遇なので、よく分からない。


 どうしよう。案の定帰りたくなってきた。なんだって僕はこんなところへ来たんだったか。そうだ、祖父に冷静な孫の声を聞かせてみようと思ったんだった。


 こうして耳をそばだてていても、部屋からはいっこうになんの音もしない。

 意を決して扉をノックする。

 こんッこんッこんッと乾いた音が静寂を破った。


「……じーちゃん……僕、だけど……」


 冷静というか、微妙に弱々しい声が出た。

 特に返事はない。やはりこれはあれか、ひきこもり的シカトか。やっぱ声はかけちゃいけなかったか。

 いや、というか、声が小さすぎて聞こえてないだけのような気もする。弱々しいではなく、蚊の鳴くような声、だったかも。


 おほんおほんと咳払いをはさみ、再度、次は意図的に声を強めてかけてみる。


「おじいちゃん。僕、だけど」


 これで反応がなかったらシカトだ。帰ろう。

 しかしなんと、扉の向こうでなにかが動く音がした。


「漣ちゃん、か?」

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