16 そして。


 気持ちのいい春の風が吹く。

 海月は磨いていたグラスを確認して、微笑んだ。

 

 桐野は、大阪を拠点に活動している。電話やメッセージは頻繁にしているが、会いにこれるのは数か月に一度程度のようだ。

「すまない」

 と謝る桐野に、海月は首を振って微笑んだ。

「いいですよ。わたしはいつでもここにいます。また来れるときにきてくださいね」

 どうにも桐野の方が納得いかないようで、海月を乱暴に抱きしめた。

 

 一応、海月と桐野は秘密裏に付き合うということになった。事務所的にはねこの@しっぽ関連事件が下火になるまでの我慢ということだが、二人で話し合った結果、なるべく公表しない方向でいこうと決めた。今後のためにも、海月の安全のためにも。

 海月自身はどちらでもかまわないのだ。

 桐野の笑顔が脳裏に浮かぶ。

 久しぶりに会った桐野は髪が伸びていて、少しやつれていて、それでも笑顔は全く変わらなかった。

 桐野が、海月を求めていてくれるなら、何でもかまわなかった。

 桐野は音楽の道に夢を持っているし、海月は星草堂を続けていきたい。二人の道が今は交わらなくても、ゆっくり近づいて、折り合いがとれる道を見つけたい。

 海月は、この先まだ長い人生を桐野と生きていきたいのだ。今現在の状況に不満を言ってその未来を壊してしまう可能性を考えれば、わがままを言う気持ちもおこらなくなった。 不思議と、これで満足なのだ。

 この達観した気持ちが、歳を重ねた成果ということだろうか。海月は微笑んだ。

(三十路の恋も、こんな風に年相応に穏やかならいいのかしら。)

 次のグラスを手に取りつつ、海月はまた微笑んだ。

 

 拓人は無事に、大学に合格した。今は東京へ行く準備で忙しそうだった。

 ほたるは、花嫁修業をがんばっていた。拓人のためを思えば苦にならないらしい。やる気を出したほたるは、めきめきと料理の腕が上達していた。

 「うづき」

  母屋からほたるが顔を出す。

 「豚の角煮、できた。また味見しに来て」

 「わかったわ。あとで行きます」

  海月は頷いて、グラス磨きを続けた。

 

 鎮守の巫女姫の座から一時的に解き放たれたみらいは、少女の姿に化身して琥珀とともに星草堂を訪れた。かいがいしく世話を焼く琥珀に、みらいはにこにこと甘えていた。二人の力関係が見てとれるようで、海月は興味深く眺めていた。琥珀は世話を焼くことが大好きだし、みらいは余計な遠慮をせずに上手に世話をやいてもらっている。とてもお似合いの二人だった。

 今日は先ほどまで髪飾りを探しに、美観地区のお店に二人で出かけて行っていた。買って帰った髪飾りを付け替えたり、買ってきた花を生けたりと二人できゃっきゃと楽しそうだ。

 

 桜姫が、小さな座敷童のようなかわいい娘を連れて来店した。聞けば藤姫だという。

 桜姫はこの小さな藤姫を、

「小藤」

 と呼び、らしくもなく甘やかしていた。

 これからアイスを食べさせに行くのだという。

 小藤姫の瞳が時々面白げに輝くので、小藤姫はみたままの年齢ではないことが海月には見て取れた。どうやら桜姫も承知の上で、甘やかしているようなので、そっとしておくことにした。


「酒盛りはここか?」

 壮年の男性が来店した。無造作にまとめた髪は赤茶色で、年齢も若いのか歳をとっているのかわからない。男性はどかりと椅子に腰を下ろした。

「獅子王さん」

 困ったように海月が微笑む。

 獅子王は、桐野のギターを依り代に、人に変化していた。

 ここにいるのも空蝉だ。

 今日は、祝宴があると聞いてわざわざ倉敷の中心部まで出てきたのだった。

「飲み会は、夜からです。もうすぐ閉店するのでもうしばらくお待ちください」

 ちっ、と獅子王は舌打ちした。

 桐野が店の奥から顔を出す。

「おや、僕のひいひいひいひい……おじいさんじゃないですか」

「おう、若造。喧嘩打ってんのか」

「いいえ? 僕の大事なギターをひとつ、お貸ししているんです。喧嘩なんてしませんよ」

「……おまえの念がこもったのがそれしかなかったんだよ。悪い」

「いいですよ」

 桐野はにこりと笑った。

「倍返ししてもらいますから」

「お前は、さっさと修行でもして折り紙で依り代でも作れるようになるんだな」

「僕は陰陽師を目指してはいないので、また暇になるまで待っていてくださいね」

 獅子王は苦虫をかみつぶしたような顔で黙った。

 無敵の獅子王も直系の子孫には弱いようだった。

 

 桐野がすっと海月の横に立つ。二人は目を合わせ、微笑んだ。

「もうみんな来たの?」

「桜姫は少しお出かけされてるだけだし、あと拓人くんが来ればそろうよ」

「そっか」

 桐野はちらりと客席を見る。琥珀とみらいは二人の世界だし、獅子王は気にしていなかった。

 そっと、頬にくちづける。

「海月。大好き。……ありがとう」

「なあに? こちらこそ、ありがとうですよ」

 海月はそっと背伸びして、背の高い桐野の頬にくちづけかえした。

 ふたりは目を合わせて微笑む。

 

 からん、と猫の形をしたドアベルが鳴った。 

 星草堂は、今日も平和だった。

 

 

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星草堂に恋の音。 森猫この葉 @z54ikia

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