15 別離と再会

  


 

 

 様々な混乱があった秋は無事に移り変わり、厳しい寒さの冬が来た。


 みらいはあの時から眠ったままで、琥珀は何度も見舞いに訪れた。

 青白かった髪の色が、徐々に落ちて真っ白になっていった。

 さなぎのような状態なのだという。

「みらい……早く、起きて」

 琥珀は眠ったままのみらいの手を握り、つぶやいた。




 吹雪が舞う頃、桐野の祖母は、夫や息子夫婦の待つ天国へと旅立った。

 

 星草堂で、桐野は泣き崩れた。

 海月はその背をさする。

 すがるように、桐野はきつく抱きしめた。


 一連の葬儀は流れるようにしめやかに行われた。

 通夜のあと、桐野は喪主として葬儀場にいなければならない。海月は身内ではないから、帰らなければいけない。桐野は、無意識か、海月の手を握って離さなかった。

「桐野さん」

 声をかけて。

「着替えて、また明日来るね?」

 桐野は、うなずいた。頭では理解しているようだった。だけど、離れたくなくて。

 握った手が離せない。

 捨てられた子犬のような目で海月をすがるようにみつめた。

 海月は一度、目をぎゅっと閉じて。

 強い意志を、あえて、こめた。

「しっかり、ね?」

 桐野の目が迷うように泳ぐ。海月は唇を笑顔の形に無理やり動かした。

「おばあさまの、最後の晴れ舞台だよ。あなたがしっかり送ってあげなきゃ、ね?」

 桐野は顔を上げた。祭壇で、遺影が、にこやかにうれしそうに生き生きとした顔で、こちらを見返していた。

「ばあちゃん」

 涙がひとすじこぼれた。

「……くらげちゃん、ありがと」

「また、あとでね」


 桐野は、立派に喪主を務めた。

 遠いな。

 ひとり、遠いところで頑張ってる。

 支えたいのに届かないもどかしさに海月は震えた。


 海月は星草堂に帰ってきた。

 白猫が、黒猫が、にゃおんと寄ってくる。

 扉をしめて、鍵をおろして、海月は泣いた。

 猫たちとともに、大切な知り合いの死を悼んだ。


「おわったよ」

 夕方、桐野がうつろにやってきた。

 ソファにこしかけて、珈琲を飲んで。ふと息を吐いて。

「おわって、しまった……」

 涙が、ぼろぼろとこぼれだした。

 海月は隣に腰かけ、手を握った。

 そっと背中をさする。

(……わたしが、いますよ、なんて。こんなときに、そんなうぬぼれたこと、いえない。)

 洗いたてのタオルを桐野の顔にあてて涙をぬぐっていると、桐野がぎゅっと海月を抱きしめた。

「ばあちゃん……っ」

 悲しみが体の芯まで響いてくるようで、海月は身震いした。

 やがて桐野が、ふと気づいたように海月の顔を覗き込んだ。

 大きな手が海月の頬を包み、涙で潤んだとろんとした目が海月の目線をすいこむ。

(ああ。)

 海月は直感した。

(私、このひとのこと、好きだ。)

 すいこまれてしまっても全然気にならない。この身を捧げてでも、慰めたいと思ってしまう。これが恋でなくて何だというのだろう。

 あんまりなときに自覚してしまった気持ちに、海月はため息をついて、少しせつなく微笑んで、目を閉じた。

 と。

 唇が、降ってくる。

 そんなつもりで目を閉じたわけではなかった海月は内心慌てたが、後の祭りだ。

 くちづけは甘く、ながく続いた。

 ため息を吐こうと薄く開けた唇が、そのまま割り込まれて。舌を、絡めた。

 

 海月が目を開ける。優しい瞳の桐野がいた。

(ああ……もう、止まらないね)

 海月が諦めて、そういう気分に呑み込まれようとした。


 にゃおん、と黒猫が鳴いた。


 桐野が止まった。

(……っ!)

 陶酔していた目に、正気が戻る。

 勢いで。

 彼女を傷つけるとこだった。


「ごめんっ」

 慌てる桐野に、海月はさみしそうに微笑んだ。

「……いい、ですよ?」

 その言葉にこめられた感情。

 溶け合った、唇の感覚。

 やつれきった桐野を見つめ、海月は覚悟を決めた。

 海月から桐野にくちづける。

 疲れと悲しみと荒れ狂う感情でもうろうとしていた桐野の理性は、簡単に崩壊した。


 黒猫はそっと、その場を離れた。

 

「ねえ、ほたる」

 屋根の上で、満月を眺めながら琥珀はつぶやいた。

「アオトとうづきは、どうしてつきあわないのかな?」

 ほたるが首を傾げる。

「わからない。でも」

 かつての拓人の、凍り付いた表情を思い浮かべた。

「そのひとにしかわからない、ことがあるんだよ」

「そう、だね。もどかしいけど」

 ううん、と伸びをする。

「うまくいってほしいな」

「そだね」

 ふあああ、とほたるがあくびをして、目を閉じてうずくまった。

 

 

 ※

 

 

 朝、目が覚めたらそこは星草堂で、服を着ていなくて。桐野は夢でも見ているのかと思った。珈琲とサンドイッチが用意されていた。

 頭はものすごく混乱していたが、今日の予定を思い出す。祖母の家に、様々な手続きの打ち合わせに人が来るのだ。

 とりあえず昨夜脱ぎ捨てたらしい服に手を通し、身支度を整える。珈琲を飲んだ。飲みなれた、星草堂の――海月の、味だ。

 桐野がばたばたと仕度していると、母屋が開く音がした。海月が顔をのぞかせる。

「おはようございます」

 はにかんで笑う海月が可愛くて、予定がなければそのまま抱きしめてしまいたかった。

「珈琲、ありがとう」

「いえ。今日も、お忙しいでしょう? サンドイッチも、よかったら」

「ありがとう。お言葉に甘えるよ」

「じゃあ、いってらっしゃいませ」

 ひらりと身を翻す、海月の手を桐野はつかんだ。

「またすぐ、来るから。必ず、来るから、そのときにちゃんと話をしよう?」

 海月は少しうるんだ瞳で桐野を見上げ、頷いた。

 桐野は後ろ髪を引かれる思いで、星草堂を離れた。

 

 そして、桐野はその後、星草堂に姿を見せなかった。

 冬の間中、海月は猫のドアベルが鳴るたびに来客の顔を確認しては、がっかりした顔をしないように隠して接客していた。

 

 何も手を付ける気が起きなくて、海月は夜散歩する。

 冬の星空は空気も澄んでいるせいかとてもきれいで、明るく星々が瞬いていた。

 星空を見上げていたら、涙があふれた。

 

 桐野はいま、大阪にいるらしい。

 実家は知人に貸し出しているとか。琥珀を連れて、遺品を片付けて大阪へ引っ越すのは大変だったらしく。多忙で、顔を出せなくてごめん、とメールが来ていた。

 

 いいのだ。星草堂は書店だ。海月は星草堂の店主で、桐野はお客さんだ。それだけの、関係なのだ。

 だから、縁がなくなったらこのように、会わなくなることもよくある話なのだ。そういえばあのお客さん最近見ないなとおもったら転居されていたとか、前職でもよくあった話だ。

 

 海月は、自分にそう、言い聞かせた。

 落ち込んだ日は、悪い方へ考えた。

 三十過ぎて、盛ったおばさんに言い寄られてきっと嫌な気持ちがしたのだ。面倒くさいから距離を置いたのだ。そんな風に考えた。

 でもきっと、違うのだ。

 海月は信じていた。桐野はそんな人じゃない。

 じゃあどうして、一度も顔を出してくれないのか。

 海月はまた、涙をこぼした。

 

 理由の一端がわかったのは冬の終わりのことだった。

 『ねこの@しっぽ』の正体がネットのゴシップサイトに取り上げられたのだ。昨年のイベントの時の顔出し写真とともに、キリノアオトを誘惑する悪女だとか、あったこともないアレンジャーさんと二股をかけているとか、ないことばかり書かれていた。どうやら桐野の周辺は、この件でしばらく炎上していたようだった。

 

 ――――くらげちゃん、ごめん。


 ――――僕のファンがもし君のお店に迷惑かけていたら言って?


 久方ぶりのメールは、簡潔で。

 海月も事務的な返信しかできなかった。

 

 ――――ありがとうございます。今のところ、被害などはございません。

 

  琥珀からもメールが来ていた。

  

 ――――海月さん。アオトはいま、事務所の人から海月さんとの関係を止められてるんだ。メールも送れないって言ってた。ケンエツがあるんだって。

  

 ――――個人の恋愛する権利を縛るつもりはないけど、今は時期がまずすぎるって。だから、お店にも顔を出せないんだって。ごめんって、泣いてた。

  

  海月は苦く、笑った。

  

 ――――琥珀くん、ありがとう。お気遣いなく、と私が言っていたとお伝えください。琥珀くんは大阪で大丈夫ですか?

 ――――ありがとう、海月さん。近くの神社からみらいのお見舞いに通ってます。今のところ僕は大丈夫です。少しずつ、歌のリハビリをしています。海月さんも、歌えるようになりましたか?

 ――――こんばんは。そちらの神社からでも会えるのですね。あやかしの世界は不思議ですね。私は、まだまだへたくそな歌しか歌えないのであまり歌っていません。琥珀くんは歌で世界を救ったのだから、勇気をもってがんばってくださいね。応援しています。

  

  不思議と琥珀とのメールの方がやりとりが長く続いた。琥珀曰く「けんえつ」がないからだろうか。

  桐野が売り出し始めの大事な時期なのはわかっていた。男性シンガーに女の影は、リスクが高いのもわかる。ましてや年上のおばさんなのだ。ファンの女子たちがみるからに炎上しそうだった。

  海月は、ため息をついてスマホを鞄にしまった。

  

 ほたると海月はふたり、静かに冬の星草堂を過ごした。ほたるは何もできず呆然としていた海月に寄り添って、助けてくれた。ほたるの恋人の拓人も受験勉強で忙しく、兄は遠方に行ってめったに会えなくて、ほたるもさみしかったのだ。

 半人前の二人三脚で、星草堂の冬は過ぎていった。

 


     ※


「受験が、終わった!」

 そう言って拓人が遊びに来たのは2月の終わりのことだった。

「終わったよ、ほたるちゃん」

「うん!」

「あとは結果を待つだけなんだ」

「うん」

 ほたるはうれしそうに、拓人の隣に座った。

「だから、さ」

「うん?」

「僕の夢は、前にも言ったと思うけど、東京で学んで就職することなんだ」

「……うん」

 そうだった。ほたるは半年ほど前の会話を思い出す。

「だから、もし合格してたらさ」

「……うん」

 さよならって、言われたらどうしようとほたるが心配していたら、拓人はそれどころではないらしくきらきらした瞳でほたるをみつめた。

「僕と、結婚を前提にお付き合いしてください!」


 突然のプロポーズに、ほたるが目をぱちくりと瞬いた。

 海月も驚いて目を見張る。

 

「僕が、東京に慣れて、自分で稼げるようになって、君を養えるようになったら呼ぶから東京に来てほしいんだ。僕と一緒に暮らそう?」

 拓人はまっすぐに、ほたるをみつめた。

「僕はもう、君の正体を含めて、大好きだから。きみと一緒に生きていきたいんだ」

 ほたるは目を見開いた。

「ねえ、海月さん。ダメですか?」

 拓人は店内を片付けていた海月に声をかける。保護者がしっかり聞いていたのも、承知の上のプロポーズなのだろう。海月は苦笑した。

「ほたるがいいなら、わたしはかまわないわ」

 でも、と真面目な顔で釘は刺しておく。

「ちゃんとほたるの意思と、ほたるの親族の許諾を得てからね。彼女の兄と保護者は怖いわよ」

「……桐野さんは、もう来られないんですか?」

「桐野さんは、当分来られません。お仕事が忙しいそうです」

 海月はすらすらと答えた。

 こんなことくらい、どうってことない。

「じゃあ僕、合格したら大阪にも行ってきますね!」

 海月はその行動力に、憧れを感じ微笑んだ。

「ええ、おねがいね」


 ※


 みらいの髪が、うっすらと緑色に色づいてきた。

 琥珀は大阪の神社の入口から足しげく、みらいに会いに通っていた。歩けば数十分でたどりつく、あやかし用の通路は不思議だった。

 何度か通ううちに、みらいの髪はやがてかつてのような美しい緑色に染まった。

 琥珀はみらいの手を握りしめた。

「……みらい」

 ぴくり、とまぶたが動く。息を呑んで、琥珀は待ちに待った瞬間の訪れを待った。

 みらいが目を開けた。

 琥珀と目が合い、ふわりと微笑む。

「おはよう、琥珀」

 琥珀の顔が、くしゃりと歪んだ。

「おかえり、みらい」

 そのまま、みらいを抱きしめた。

 

 ※


 桐野は、どんどん有名になっていった。SNSで楽しそうな桐野を見て、海月は心を決めた。

(おばあさま、すいません。彼がもう私を必要としないなら、遠くから見守るだけにしますね。)

 海月はスマートフォンを操作して、キリノアオトのアカウントをミュートした。

 

 ※

 

 みらいが目覚めた。嬉しくてうれしくて、琥珀はあいかわらずうじうじとしている桐野にイライラしだした。

「ねえ、どうして会いに行かないの」

「……事務所が、男女恋愛禁止だって」

 すねたように桐野が答える。

「そんなの、気にして守るの?」

「僕をひきたててくれた会社だからね。できるだけ迷惑はかけたくない」

「好きって、言っちゃえばいいじゃないか」

「言ってなんになるんだ。つきあえないのにさ」

 琥珀はため息を吐いた。

「それでスランプに陥ってたら意味ないじゃん」

「だけど。彼女と、どうなったら幸せなのかわからないんだ。このままじゃ好きって言ったって、結局待たせてしまう」

「……そのへん全部正直に言えばいいんじゃないの」

「だから、それじゃ意味ないって。傷つけちゃうだけだ」

「あのこはそんなに弱くないよ。守られるだけの存在じゃない。二人で決めればいい」

「傷つけたくないんだ」

 ぐずぐずと言い訳をする桐野に、琥珀はため息を吐いた。

「もう好きじゃないんだったら、いちどちゃんと話をしに行ってよ」

「好きじゃないわけじゃない! むしろ……」

 悲鳴のように桐野は叫んだ。

「時間を置いたらもうすこし、落ち着くかと思ったんだ。穏やかに、愛せるかなって……」

「逆効果だったね」

「このままじゃ、彼女を壊してしまいそうなんだ」

「壊してみればいい。彼女はそんなに弱くないと思うけどね」

「……この、こんどの、ライブが終わったら。会いに行くよ」

「もう。絶対だよ?」

 琥珀は、桐野の鞄から一枚、関係者向けチケットを奪った。封筒に入れる。あて先はどうしようか。『星草堂 星村様方 桐野ほたる様』で届くだろうか。


 

 春は名ばかりの花冷えの季節のころだった。

「うづき」

 ほたるが、海月に一枚のチケットを差し出した。

「琥珀が、来てって」

「ほたるちゃん」

 桐野のワンマンライブ。大阪のライブハウスで行われるらしい。

(いやだなあ、こわいなあ。でも。思いきるにはいい機会かも。)

 ほたると拓人が留守番をしてくれると言ったので、海月はひとりで参加することにした。





  ※


 桜姫の宮殿で、庭を散策しつつ、桜姫は手をつないだ娘を見て声をかけた。

「藤よ」

「はあい?」

「我は、そなたが育つまで待とうと思っていたのじゃ」

「はい」

 にこにこと頷く少女藤。

「じゃが、そなた実はわかっておろう」

「はい?」

「中身は以前の藤のままじゃな?」

 藤姫は目を見張り、それからぺろりと舌を出した。

「ばれましたか」

「幼女のふりをしておったな」

「その方が、桜様がお優しかったので。甘えておりました」

「まったく」

 桜姫は唇を尖らせた。

 藤姫に、伝えておかなければいけないことがあるのだ。

「藤」

「はい?」

「一度しか言わぬ。よく聞け」

「何度でもお聞きしたいです」

「言わぬのじゃ! 聞け!」

「はい、お聞きしますわ」

「我は、そなたのことが好きだ。共に生きよう。千年先も、万年先も」

 藤姫はほろほろと涙をこぼしながら笑顔で頷いた。

「ええ。この命がつづくかぎり、お供いたします」

 桜姫は藤姫をぎゅっと抱きしめた。


 ※


 桐野のワンマンライブは、大きなライブハウスであった。人波でごった返す中で、海月は押されてスタンディングエリアの片隅に立つことになった。桐野がマッチ棒くらい小さく見えた。

 桐野は、ステージの上でまぶしい光を放っていた。完全に別の世界の人だった。

 弟の成功を祝うように淡く微笑んで、アンコールは聞かずに退出した。

 帽子を目深にかぶって帰った。

 ぐしゃぐしゃな顔を、誰にも見せたくなかった。



「あーあ」

 琥珀はため息を吐いた。海月が出て行ってしまった。

 桐野は気づかず、アンコールを歌ってる。熱烈なバラードだ。

「いま、これを歌ってもさ」

 桐野が歌う、せつない求愛の歌は海月の耳には届いていない。

「ちゃんと、言葉で、伝えなきゃ」

 身を翻ると、旅支度のために大阪の桐野の家へと帰った。


 ※


 翌朝。高校生たちの登校の時間、海月はいつも通りに店をあけた。その真っ赤になった目に、みのりがぎょっとしたように振り返った。

「くらげちゃーん。どうしたの花粉症?」

「そうみたい。みのりちゃんも気を付けてね、いってらっしゃい」

「いってきまーす」


 店の前を掃いて。

 彼が、ギターを弾いたところを見つめて息ができなくなった。

 涙があふれる。

 もう、店を閉めようか。しばらくやすむのもいいかもしれない。

 そう、心を決めかけた。


「海月」

 名を呼ぶ声が聞こえた。

 幻聴かと思った。


 ふりかえったら、桐野がいた。

「ごめん。待たせた」

 頬に涙がこぼれおちる。

 うそ。

 言葉にならない。


「海月。きみが、すきだ」


「……どうして」

 言葉に、ならない。

「ごめん。勇気がなくて。意気地なしで。きみに、来させてしまった」

 え、と海月は顔を上げた。

「きのう、大阪にきてくれてただろう?」

(あの、たくさんの人が密集したなかから、みつけてくれたの?)

「きみしか見えなかった」

 海月の、傷ついて閉ざされていた心がじんわりとほどけていくのを感じた。

「ぎゅっ、て、してもいい?」

 目を丸くして。顔が赤くなる。うなずいた。

 桐野が、そっと海月を抱きしめる。求めていたぬくもりに、海月は息を大きく吐いた。そっと桐野の肩に額を寄せる。

 桐野がささやいた。

「ごめん。ずっとあいたかったんだ。だけど、携帯が壊れて。忙しくなって、会いにこれなかった。…なんて、我ながら嘘くさい言い訳だな。……ずっと、逃げてたんだと思う。自分の気持ちから。ごめんね。だけど、君の姿を見て目が覚めたよ。遅くなって、本当にごめん」

 海月は、ぎゅっと桐野の背中に手をまわした。

「あなたがいるなら、もうそれでいいよ」

 過去のことはもういい。今そばにいてくれるのなら。

 海月が、ささやくように答えた。

 桐野はぎゅっと海月を抱きしめた。

「海月」

 名前を呼ばれた。あだ名の、くらげじゃなく。桐野の声で紡がれる自分の名前はすごく新鮮で、不思議な気分だった。

「好きだ」

 耳元でささやかれて。海月は震えながら、頷いた。


 

 春の日差しが、優しく皆を包んでいた。


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