14 慈雨


 琥珀はひとり、黙々と足を勧めた。小さな敵には動揺せずに薙ぎ払い、大きな敵には身を隠してかわし消耗を防ぐ。

 猫にしか通れないような穴を通過するときは猫に転身して荷物を咥えて通った。


 そしてついに、氷の岩屋にたどり着いた。手燭の緑の光が、強く指す。ここに、みらいがいるのだ。

 岩の向こうに巨大な氷の宮殿が立っている。冬の王の住まうところだ。


 鍵が、凍り付いていた。琥珀はしばらく考えて、手燭の炎を鍵にかざしてみた。桜姫の炎だ。無敵なはず。思った通り、手燭の炎で凍り付いた鍵は解けた。ひっそりと琥珀は侵入した。

 

 氷の宮殿は、息もできないくらい冷たくて、露出した皮膚が凍えそうだった。

 琥珀は自然に覚醒モードを使い、顔や手にも猫の毛皮を纏った。


 大きな広間の先に、彼はひとり、王の椅子に座って琥珀を待っていた。

 玄冬王の本体は、白髪の冷酷そうな青年だった。アイスブルーの瞳が刺すように琥珀を見下ろす。

 つまらなさそうにつぶやいた。

「来たか。獣」


 つ、と玄冬王が玉座から立ち上がる。

 

 琥珀はぐるぐると低く唸った。

「みらいを、離せ」

 爪が、最大限に伸びる。足が跳躍に備えた。みらいは、どこだ。


 玄冬王が、あざ笑うように見下ろす。

「ならぬ。我妻は永遠に我が元におく」


「あなたの妻じゃない!」

 琥珀は叫んだ。今すぐその首へかぎづめを振り下ろしてやりたかった。みらいはどこだ!


「ほざけ。そなたには永遠に、我妻に触れられぬ」 

 玄冬王は玉座の右、露台の方へ眼をやった。

 分厚い氷の壁の向こうに、みらいが閉じ込められていた。

 髪の色まで青白く染まり、目は閉じ、完全に凍り付いているようだった。体中に黒い鎖が絡みついていた。


「……っ」

 あまりの姿に琥珀が息を呑む。まさか、命を奪われているのか、と疑った。いや、まだ呼吸している。胸がかすかに動き、生命の気配がある。だがすべてが氷に閉ざされて、眠っているようだった。

 

「紹介しよう。生まれ変わった美しき我妻、氷姫だ」

 玄冬王が、緑色の髪をひと房、床から拾い上げた。

「あのような場所に、木に、縛られぬ身体に作り変えてやったのだ。もうすぐ、目覚めよう。我が愛しの姫よ」

 これ見よがしに床に投げつけ、その緑の髪を踏みにじる。よく見れば、みらいのかつて身に纏っていた紅葉色の単衣なども、玄冬王の足元に踏みつけにされていた。


「うわああああああっ」

 琥珀は吼えた。


 その声に、玄冬王は耳をふさぐような仕草をする。

「下賤な。……暗黒王」

 すっと、蔑むように目を細めて。

 玄冬王がこんと足を鳴らす。

 足元から、黒く大きな影が立ち上がってきた。

 かつての玄冬王の能力の化身であり、良き心であった。つまりはかつてと玄冬王と呼ばれた者のなれの果てだった。今の玄冬王は、みらいへの執着心だけが残った妖魔だ。

 

「獣を始末しろ」

 ――――御意。


 闇落ちした玄冬王の影は鎧姿の大男暗黒王となり、琥珀に襲い掛かった。

 とっさに琥珀は飛び上がった。猫の速さで駆けて飛び回る。暗黒王は重量派なだけあって動くのは遅かった。そのかわり、破壊力が半端なかった。

 琥珀は跳躍しかわし、暗黒王は床を地響きを鳴らして破壊する。

 玄冬王は玉座に座り足を組み、冷たいまなざしでそれを眺めた。


「意外と手こずりおる」


 立ち上がり、みらいを封じた氷の前に立った。氷の壁に手を伸ばす。するりと溶け込み、氷の中に入った。


「みらいぃっ」

 片足を瓦礫に挟んだ状態で、暗黒王の拳を受け止めつつ琥珀が叫ぶ。

 玄冬王はちらりとそちらを見やり、にやりと笑った。


 蒼白くなったみらいの髪を掬い、唇を寄せる。

 目を閉ざしたままのみらいの頬に、手を滑らせた。

「そなたは我のものだ。氷姫みらい」


 そっと、唇を奪う。


 琥珀は歯をぎり、と食いしばった。

「うわあああああああっ!」

 こぶしを突き上げ、暗黒王の体を貫通する。その手には暗黒王の核があった。

 ぱきん、と核は割れて暗黒王は解けて消えた。

 琥珀はそのまま氷の壁に駆け寄る。


 みらいの目がゆっくりと開いた。


「……っ!」

 眼前にある玄冬王に、とっさに拳を振り上げる。

 玄冬王はするりとかわし、くすくすと微笑した。

「お目覚めか、眠り姫よ」

「近寄らないで」

 みらいはのけぞる。

 玄冬王は手にしたままの青白いみらいの髪に頬摺りした。


「や、いやあっ」

 おぞまし気にみらいが叫ぶ。玄冬王は頓着しなかった。みらいを抱き寄せる。

「そなたは我がものだ。あきらめろ。ともに滅びよう、みらい」

「や、いやだよっ」


 泣きながら、みらいが助けを求めるように琥珀を見た。琥珀は氷の壁の前で、どうしようもない壁の厚みに立ち尽くした。なぐってもなぐっても、びくともしない。

「みらいっ」

「琥珀!」

 琥珀の胸元の、ほたるの天然石が光を放つ。

 歌が聞こえた。

 ほたるを中継して伝えられる、送られてくる力は琥珀をゆっくりと満たしていった。



 玄冬王の抱擁から身をよじって逃れながら、みらいが必死に琥珀に手を伸ばす。


「琥珀。歌って!」

 絶望的な要求に、琥珀は泣きそうになった。なんで。

「みらい、僕は歌えない」

「歌って! あなたの初めての歌を」

 歌姫は、叫んだ。彼女には見えていた。琥珀の心に眠る、歌の力。純粋で無垢で、いまだに何にも染まっていない、原初の力。


「はじめての……?」

「あなたの心に封じられた、初めての歌を!」


 少しだけ、思い出しかけた記憶の続きがよみがえる。

 琥珀の、小さかったころ。

 もう人になっていたんだったか。


 嵐の夜。小さな蒼斗がおびえていて、ほたる…翡翠と二人、歌を、歌いっこしていて。

 あの時は琥珀が歌っていたのだった。

 桐野の祖父が、うるさいと叱ったのだ。

 虫の居所が悪かったのか、ひどくきつく、よく叱られていた翡翠を叱って。

 翡翠は家を飛び出した。

 

(妹が、失われてしまった)

 自分の歌のせいだ。

 歌っていたのは自分だといえなかった、自分のせいだ。


 琥珀は自分を責めた。

 妹が帰ってこなくて。涙が枯れるくらい泣いて。


 歌を、歌うことをやめたのだ。

 

 だけど、翡翠はほたるとなって帰ってきた。

 

 (……もう、歌ってもいい?)

 

 琥珀は歌が大好きだった。

 みらいに、アオトに、好きな歌をたくさん歌ってもらった。


 気持ちを、声に乗せて。歌う。

 初めて、素直な気持ちで喉が開いた。


 今度は、琥珀が皆を救う番だった。

 琥珀が口を開く。

 こぼれでたのは、愛を歌う歌だった。

 桐野が、ほたるが、歌っていた、愛の歌だった。

 天然石を通して、ほたるの歌が届く。桐野が歌っていた。海月の歌も聞こえた。

 世界中から、歌が聞こえた。桜姫が舞いながら歌う。藤姫のつづみの音も聞こえる。


 琥珀は、力強く歌い上げた。

 たまりにたまった感情が、歌を通してこぼれ出た。

 

 玄冬王が動きを止める。

 みらいと、目が合う。

 

 みらいは泣き笑いで、微笑んだ。

 琥珀の心から愛情があふれ出す。

 

 

「きみが、すきだ」



 琥珀は心を込めて歌いあげた。


 目の前を阻む氷が解けていく。

 みらいが、玄冬王に抱き着いた。そのままさくりと、握りしめた水晶のかけらで玄冬王の脊椎にあった核を刺す。

 玄冬王が信じられないように崩れてゆく。

 傷口から黒くどろどろした淀みがあふれ出し、流れて、尽きて。

 後に残ったのは、真っ白になった玄冬王の抜け殻だった。


「みらい……どの。すまなかった」

 抜け殻が、さらさらと溶けながらつぶやいた。

「冬の君」

 みらいが見下ろす。

「邪な、心に。……勝てなかったのだ。すまなかった」

 にがく、微笑したまま、玄冬王は死んだ。さらさらと。最後は雪のように溶けて消えた。

「愚かな方」

 ぽつりとつぶやき、みらいはひとすじ、彼のために涙をながした。

 分厚い氷の壁が溶け、音に乗って天井に舞い上がり、雨のようにしずくが降ってきた。

 みらいは全身を蝕む鎖をしゃり、と握りつぶした。これも氷でできていたのだ。すべてを振り落とし、琥珀に駆け寄る。

 琥珀はぼろぼろと泣きながら歌っていた。みらいをみて、泣き笑う。

 みらいはそっと琥珀に掌をあわせ、微笑んで、一緒に歌いだした。


 世界に歌が響いていく。溶けた氷のしずくと一体となって、世界を満たしていく。

 

 晴れている中でぽつぽつと降る雨に、桐野はギターの手を止めて空を見上げた。

「琥珀……?」


 ――――ほう。倒したか。


 感心したように、獅子王が呟いた。


 星草堂の屋根を、雨の音が拍手のように打ち鳴らした。

 ピアノで最後の音を奏でて、海月は微笑んだ。

 何かが帰ってきた気がする。ぱらぱらと雨の音が光がさす窓から聞こえて、そちらを見上げ微笑んだ。


 ふっと、ほたるは歌うのをやめた。ふらりと拓人に倒れ掛かる。

 拓人は慌てて抱きとめた。ざあっと、雨が降った。雪が解け、流れていく。

「コハク。たすけた」

「そうなんだ?」

 拓人の腕の中で、ほたるは満足そうに微笑みうなずいた。

「ありがとう……」

 拓人は優しくほたるの髪を撫ぜた。


 ふと、桜姫が空を見上げる。

「逝ったか」

 白くたなびく雲を見上げて、玄冬王の敗北を感知した。

 すぐに優しくやわらかな雨が降り注ぎ、巫女姫みらいの復活を知る。

 世界は無事に守られたのだ。

 ほっと肩の力を抜いた時、藤姫がかたりと崩れ落ちた。


「藤! 藤姫、ならぬ!」

 桜姫が藤姫を抱き起こす。

 藤姫の肌は青白く、髪は真っ白になっていた。

「さくら様……ようございましたね」

 うわごとのようにつぶやき、微笑む。

「よくなど、ない! そなたは逝ってはならぬ!」

「ありがとう、ございます……」

 嬉しそうに、藤姫は微笑んだ。


「藤姫……っ」


 桜姫は吼えた。


 いやだ、いやだ、いやだ。

 まだ何も言えてない。

 感じていた気持ちも、今わかった気持ちも。

 藤姫を失うなど、耐えられるはずがなかった。

「そなだが、好きだ。だから、逝くな」

「桜様……」

 藤姫が身じろぎし、目を開けた。

「殿方とか夫婦とかなどどうでもよい。そなたがおらぬ世界など考えられぬ。そなたが、好きだ。逝かないでくれ」

 藤姫は、嬉しそうに震えた。涙がひとすじ、頬を伝う。

「ありがとう、ございます」

 桜姫は藤姫の手を握り、再び吼えた。


 みらいはふと、氷の宮殿で目を見張った。

「たいへん。このままでは桜姫様が堕ちてしまわれるわ」

「みらい…?」

「このような、悲しい定めは認めません。作り変えてしまいましょう」


 みらいの瞳が藤色に輝く。髪が、桜色に染まった。

 世界に、次元の巫女姫みらいの歌声が力強く響く。

 それは人々の心に寄り添い励まし、勇気づけ、前を向かせる力を持つ声だった。

 そして桜姫の宮殿にもまた、奇跡をひとつ運んでいった。


 慟哭する桜姫の腕の中で、藤姫が淡く光る。

 薄紅色の光をまとった藤姫はするすると縮んでゆき、十歳くらいの少女になった。

 光がふわりと宙に消え、後には幼い姿の藤姫が残される。先ほどとは違い、健康的な頬の色をして、胸は健全に呼吸していた。

「藤……?」

 桜姫は藤姫を抱きしめる。桜姫の腕の中に、ふわりと藤姫は着地した。

 幼い藤姫はぱちりと目をあけて、微笑んだ。

「さくら様。戻ってまいりました」

 そしてまた眠そうに目を閉ざした。

 桜姫は幼い藤姫を抱き、今度は安堵の涙をこぼした。


「御前様、藤姫様の木に新芽が発見されました!」

 と庭師がかけこんでくるのはもう少し後のことだ。


 みらいの髪がふわりと色を変え、緑に戻る。瞳の色も緑に戻った。

「琥珀」

 みらいはそっと、傷だらけの琥珀の頬に手を伸ばした。

「ありがとう」


「みらい。よかった」

 琥珀は泣き笑いながら、みらいの手を握った。


「だいすき」

 みらいがそっとささやく。

「うん」

 琥珀は勇気を出して、みらいをそっと抱き寄せた。

 みらいは琥珀の胸に顔をうずめて、ようやく肩の力を抜いた。そのままふわりと眠りに落ちた。

 

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