13 戦い
ぴちょん、と水滴がどこかに落ちる音が響いた。
闇の中の洞窟を、桜姫に借りた手燭を頼りに進む。
手燭はゆらゆらとゆれて、碧色の光を強く放っていた。
怖い。拓人は、思考の渦の中に沈む。
(怖い、怖い、怖い)
本当は今すぐにでも、家に帰りたいのだ。
拓人はぐるぐると考えていた。
(だっておばけは嫌いなんだ。超常現象なんてありえないんだ。僕は、……『こわいはなし』なんて、読まないことにしてたんだ)
小学生時代の図書室を思い出す。
ひらがなが読めるようになって、漢字を習って、絵本をたくさん読んで、読み物に手を出して。そのころクラスで流行っていたのは、『こわいはなし』だった。
拓人も率先して『こわいはなし』をよんでいた。『こわいはなし』なら、すこしくらい字が小さくても文字が多くても借りていった。友達同士で絵を見てこわがって、こんな怖い話呼んでる僕すごいんだぜ、と背伸びして張り合っていた。
その日借りた本はとても大きい子向けで、写真なんかがある本だった。
友達はその写真を見て真剣に怖がって、泣きながら先に帰ってしまった。拓人はそんな本を借りてしまったことを少し後悔しながら、仕方がなくその本を持って帰った。
家に帰っても鞄の中のその本で見た、怖い写真が忘れられなかった。
夜、トイレに行こうと思った時、洗面台の鏡の向こうに何かが見えた気がした。
拓人は泣き叫び、母親の寝室に駆け込んだ。呪いの本は母親に学校に持って行ってもらった。その本が入ったランドセルを、どうしても背負えなくて学校を欠席してしまったのだ。
それ以来、拓人は一切そういうたぐいの本を借りなくなった。成長するにつれ、超常現象をありえないと否定する理論にばかり詳しくなっていった。将来は医学を志しているのだ。その方が、いいはずだった。
(だけど。)
拓人の目の前でくるりと猫に転じた少女を思い出す。
あきらめきった顔で、悲しそうな目で、拓人に正体を告げた。
拓人が臆病で、すぐに受け入れることができなかったから、長い時間待たせてしまった。
再び向き合えるようになって、ほたるがどれほど嬉しそうに笑ったか。
彼女の手を取ることができて、どれだけ拓人が幸せを感じたか。
拓人は、忘れない。
(だから)
超常現象だろうが何だろうが気にしない。すべて乗り越えて、彼女を助け出すのだ。幸い同行者はあやかし出身の彼女の兄だ。さぞ頼もしいだろう、とちらりと横を確認した。
青ざめて、震えながら本を抱きしめている少年がいた。
(…………)
拓人は目を瞬いた。
(だいじょうぶ、だろうか)
道行がだんだん不安になってきた。
琥珀は『猫神術』の本を脳内で暗唱していた。
(尾躍の術、捕爪の術、鳴唱の術……)
獅子王の修行もあって、捕爪の術までは使えるようになった。鳴唱の術は別の意味で難しかった。琥珀は歌えないのだ。
歌を歌おうとすると、喉が閉まったようになる。むりやり声をひねり出しても、かすれてつぶれた悲鳴のようにしかならない。
あまりの耳障りな音に琥珀が口を閉ざすまで、訓練に付き合ってくれた獅子王すらも微妙な顔をしていた。脅されてもなだめられても、何をしても歌うことができなかったのだ。苦肉の策として、獅子王からは呪文のようにつぶやく方法を教わった。
尾躍の術で身をかわし、捕爪の術で敵の動きを止め、鳴唱の術でとどめを刺して浄化する。
どうしても、とどめが刺せそうになくて琥珀は困惑していた。
「ねえ、タクトは歌を歌える?」
「僕?」
拓人は琥珀を振り返った。
「歌えるけど、別にうまくない。外さないけど感情がこもってないって言われる。ギターだと情緒豊かなのに、不思議だねって」
「そっか」
琥珀はうつむいた。
「……声が、出なくなるなんてことはないよね」
「僕はないな。でも聞いたことがあるよ。心理的なストレスで、言葉が出なくなる人」
「そうなの?」
「うん。琥珀は歌えないの?」
「……うん。歌おうと思うと声が枯れるんだ」
「声が出ない感じなんだ? じゃあやっぱり心理的なものかもね。小さいころとか、歌って嫌なことがあったとか」
「嫌なこと……」
昔を思い起こしてみる。
人に転じて物心ついたころから、歌は歌っていなかった気がする。
(いや……)
ちらりと脳裏に幼いほたること翡翠の顔が浮かんだ。
「うわああああっ!」
ばさばさばさ、という物音とともに、拓人が大声で悲鳴を上げた。正直、琥珀は拓人の悲鳴に驚いた。
何か思い出せそうだったが、思考は中断した。
蝙蝠はあっさり捕爪の術だけで倒すことができた。
ひとつ自信となり、琥珀と拓人は暗闇の中、桜姫に授けられた不思議な色の手燭を掲げて進む。
通路は時に細くなり険しくなり、時に広くなり、二人の消耗を激しくした。
鍾乳洞の横を恐る恐る歩き、大岩の前を走り抜ける。
蝙蝠は何匹も出現した。対応にも慣れてきて、琥珀は内心ほっと息を吐いた。
徐々に気温が低くなり、琥珀の耳がぴんと立つようになってきた。
しんしんと、雪が降る音がする。
(洞窟の中に、雪……?)
拓人が不思議に思っていたら、開けた空間に出た。
黒い夜空から、雪が舞い降りる。一面が白く埋め尽くされ、その屋敷も真っ白に覆われていた。
「手燭は、ここを指しているよ」
琥珀がつぶやく。琥珀には手燭から出る碧色の光と、うっすらと緑の光が見えていた。緑の光はまだ遠そうだった。
「ほたるはきっと、ここにいる」
拓人はこぶしをにぎりしめた。
「―――行こう!」
二人は門をそっと押し開けた。
※
門の中は吹雪だった。
外からの見た目と違い、大粒の雪が二人を責め立てた。
寒いのが苦手な猫の精である琥珀は、耳を押さえて蹲った。
拓人が琥珀の手を握る。拓人の上着を、琥珀に掛けてやる。拓人自身はギターを抱いて運んでいるからか、まだそこまで寒くなかった。
「ここでしゃがんでたら、死んでしまうよ」
琥珀は、膝に力を入れて立ち上がった。ほっとしたように拓人が微笑む。
「行こう!」
拓人に引きずられるように琥珀は屋敷の入口まで駆け抜けた。
雪の塊のあやかしが襲い掛かる。
「うわあああああっ」
拓人が決死の体当たりをする。
一度は壊れた雪男が軽々しく再生をするさまを見て、琥珀の目が覚めた。
耳がぴんと立つ。いつのまにか琥珀の頬にはひげがあらわれ、爪は伸び、しっぽがあたりを警戒するように揺れていた。猫神術・覚醒モードだ。
ふりかぶった雪男の左手をかわし、跳躍する。
雪男が振り返るころには背後をとっていた。鋭い爪を脊椎のあるあたりに刺し、雪男の核を抉り出す。うっすらと光る核が、最初から琥珀には見えていた。
あっさりと雪男が崩れ、ただの雪となった。
ふう、と琥珀は息を吐いた。
いろいろと想定して心配しすぎる琥珀にとって、実践は意外と簡単かもしれなかった。
その後もいくつも敵を倒し、ついに屋敷の最奥までたどり着いた。
―――きしゃああああっ。
気持ちの悪い鳴き声が響く。
鵺は人の形をした猿のようで、手足は獅子のようにするどく爪を尖らせ、尾は蛇のようにうねっていた。
ほたるの白いほわほわとした髪が、鵺の後ろに見える。
琥珀はごくりとつばを飲み込み爪をかまえた。
体格はどう見ても鵺の方がよく、同じような戦い方をする以上、琥珀の方が不利だった。
拓人は見守るだけの自分がふがいなくて唇をかみしめた。
あまりに強く噛みすぎて血がにじむ。
鵺の目の色が変わった。
――――人ノ血!
鵺が拓人に襲い掛かる。
――――血ヲヨコセェッ!
拓人は必死に逃げた。
拓人が鵺を引き付けている間に、琥珀は態勢を立て直した。猫爪を、出しなおす。
ふう、と息をついて集中した。ひげがぴんと張った。
(狙うは、鵺の核!)
琥珀の目には、鵺の上半身の中心が赤く光って見えた。
「タクト!」
ほたるは息をのんだ。兄の琥珀の苦戦の次は、拓人が狙われている。
首飾りを、握り締めた。
体の底から力が湧いてくる。
二人を、守りたいのだ。
「あの子をよろしくね」
昔、優しい人にたくされた光。
ほたるの存在の核をなす、あやかしとしての力。
一度は離れて、海月の光でつないで、また結んで。
最近強化中の、祈る力。
ほたるの耳の毛がびりびりと逆立ち、髪がふわりと舞い上がる。
青白い光に包まれて、ほたるは祈った。
「タクトを、コハクを、いじめないで!」
青白い光は大きな塊となり、拓人に覆いかぶさっていた鵺を直撃する。
――――ナッ……ナンダ、コレハ!?
鵺はのけぞり硬直した。
(いまだ!)
すかさず琥珀が跳躍し、鵺の背に乗り、爪を振り下ろす。
――――ギャアアアアアツ
鵺が咆哮した。
琥珀が鵺の核を握りつぶした。
鵺は、さらさらと解けて消えた。
ほたるが、拓人に飛びついた。上乗りになって、拓人の無事を確認する。たくさんの擦り傷に、ほたるの涙がぽろぽろとこぼれた。きっとすごく、怖い思いをさせたのだ。
拓人はへらりと笑った。
「迎えに来たよ」
「うん。……ありがとう」
ほたるはそのまま、拓人に抱き着いて泣いた。
拓人はそっと、ほたるのほわほわした髪を撫ぜた。
「琥珀も、ありがとう。……あのね、みらいちゃんがね」
「うん。玄冬王、だよね?」
「そう。たすけて、あげてね」
「もちろんだよ。助けに来たんだ」
琥珀はふう、と息を吐いた。ほたるの祈りで、ここは満たされ浄化されていた。ここなら大丈夫だろうか。
腰に入れた、猫神術の書を取り出す。
(鳴唱の術……。)
ぱらぱらとめくった。詠唱する言葉が書かれている。琥珀はもう、覚えている。
「ねえほたる」
「なあに?」
涙をぬぐいながら、ほたるは首を傾げた。
「これ、うたってよ」
「え?」
「僕の代わりにさ。こういう、呪文の歌があるんだけどさ」
猫神術の書を差し出す。該当のページを開いて琥珀は頬をかいた。
「僕、音痴だから歌えないんだ」
ほたるはうなずいた。
「わかった」
「へえ、譜面があるんだね。……僕が伴奏しようか」
拓人はギターを出し、手を温めた。かき鳴らす。
闇色に澱んだ屋敷が、音にはじかれるようにきれいな空間になっていく。
ほたるが、らーらーらーと歌を乗せる。世界が色を取り戻すように、吹雪の屋敷が清涼な空間になった。
歌の力を目の当たりにして、琥珀は目を伏せた。
「じゃあ、ここから先は僕だけで行くよ」
「え」
「きみたちは、ここでさ。この曲、完成させてよ。このあたりは、もとは桜姫の御殿と同じくらい清浄な空間だったはずなんだ。君たちの歌で、ここをもとのように浄化してほしい」
「わかった。まかせとけ」
拓人はにっと笑った。恐怖心はずいぶん克服した。ほたると歌を奏でることは、何よりの喜びだった。それが世界の助けとなるのなら。ギターの和音をかき鳴らした。
ほたるは、それでも琥珀が心配だった。ひとりであの王と対峙するのか。
握りしめていた、胸に下げた天然石の首飾りを外した。琥珀に握らせた。
「ほたるのかわりに、つれていって」
「……ほたる」
琥珀だって、ほたるがどれほどこの首飾りを大事にしているか知っている。
泣き笑いで頷いた。
「うた、届ける。ここにつながる」
「わかった。ありがとう。……絶対に、持って帰ってくる」
「コハク。みらいちゃん、助けてね」
「もちろんだよ。ほたる、ごめんね、こんなことにまきこんじゃって」
ほたるは笑顔で首を振った。
「わたしには、タクトがいるから大丈夫」
「うん。……じゃあ、行ってきます」
琥珀はひとり、緑の光を追って旅立った。
二人は琥珀を見送って、急いで曲を奏でる練習をした。
※
ひっそりと静まり返った星草堂で、海月はピアノを奏でた。
子どものころに好きだった曲から、順番に。メロディラインに祈る気持ちを乗せて、鍵盤を弾いた。
蔦模様の縁がやわらかく光り、桜姫の宮殿へ音を届ける。
カーテンを引き、閉じた店舗の中で、優しい音は響き続けた。
桜姫の宮殿には、静かに海月の奏でるピアノの音が響いていた。
その音はたおやかながらも折れない強さを持ち、桜姫の宮殿に邪なるものが侵入することを阻んだ。
四季王の回廊で、桜姫が何度扉をたたき、なじり、怒鳴ろうとも、玄冬王の宮殿の大扉は開くことがなかった。
神術をぶつけられてすらびくともしない扉に、桜姫の怒りも心頭に達した。
「玄冬王め、門前払いなどと!」
宮殿に帰り、怒りにたぎった桜姫が祭壇で吠える。
禊の冷水をざばりと被り、身を清めるための手順を踏むが、全く精神が落ち着かない。荒れ狂っていた。
「桜様」
たおやかな声が聞こえる。
床几に乗せられて、藤姫が運ばれてきた。
ふらりと立ち上がり、禊の水をかぶる。
身を清めた後、祭壇に両手をついた。
「さくら様、つづみを、打たせてくださいませ」
「ならぬっ」
藤姫が笑みを浮かべる。
「今わたくしがやらねば、世界が滅びてしまいます。そのようなことはまっぴらごめんなのです」
「っ」
鮮やかに、愛しげに、藤姫は桜姫を見上げた。
「それに、あなたさまにその責務のひとかけらなりとも負わせることになるなど、耐えられませぬ」
「そなた」
藤姫の、生命をかけた眼差しに、桜姫は毒気を抜かれたように息をついた。
「生命をもやしても、かまわぬのか……? 好きものじゃのう」
藤姫がくすくすと笑う。
「ええ。貴女様をお慕いするような者ですから。一筋縄ではゆかぬのですよ」
「ふん。……許す、つづみを打て」
「承りました」
両手をついて頭をさげたあと、藤姫はつづみの支度をし、意識を澄ませた。
桜姫はもう一度、手順を踏んで身を清め、精神を集中する。
「では」
「はい」
桜姫がゆるりと謡い、舞い始めた。
拍子をとるように鼓の音が響く。海月の音も、引きずられるように自然と舞と呼応した。
世界がゆらりと揺れた。
拓人がギターをかまえる。
猫神術の書にあった譜面を、旋律に変えていく。
それを聞いて、ほたるが覚えた。
「うたわなきゃ。……たくと、弾いて?」
「うん、いくよ」
拓人の伴奏に、ほたるが歌をのせる。
冬の屋敷の片隅で、またひとつ祈りの柱が立ち上った。
祖母の病室で、桐野は何かに気が付いたように顔を上げた。外を見上げる。立ち上がり、ギターをかついだ。
屋上に上がる。
普段は施錠されているはずの扉は、何かの要件のせいなのか、今日はするりと開いた。
――――子孫よ、気づいたか。
左肩の獅子王の刻印から声が聞こえる。
――――そなたも、音曲を奏でるものなのか。ちょうどよい、奏でろ。オレの力を刻印越しに送ってやる。世界の平和を祈って、歌え。
(言われなくても、わかっている。)
あやかしの世界に、琥珀やほたる、海月に呼ばれた気がしたのだ。
屋上に立ち、桐野はギターをかき鳴らした。
祈りを込めて、歌を歌う。
肩から不思議な力が流れて、歌に飛ばされてどこかにいった。
――――そなたの歌は。なんというか、暴力的に力強いな。
力を操ってやろうとかまえていた獅子王の、あっけにとられたようなつぶやきが聞こえてくつくつと桐野は笑った。負けるものか。
「あなたの、子孫だそうですから」
桐野はまた、歌に感情を込めた。
星草堂で、海月はピアノを弾き続けた。
ほたる、拓人。琥珀。海月の、可愛い若い友人たち。
(みんなが、無事でありますように)
祈るように、奏でた。
海月にとって祈りとは音楽であり、歌だった。
ピアノを、心行くままに奏でる。
肌で感じる不安。世界の危機。よくわからないけれど、大事なものが欠けていきそうな予感がした。
祈るように、旋律を押さえる。
心の底から、湧き上がってくる感情があった。
(……歌いたい。気がする。)
この荒ぶる感情を、祈りを、もっと表現したくて。歌に乗せれば、もっと放てる気がした。ほたるに、届く気がした。
でも。
――――君は、歌わない方がいいね。
心に刺さった棘が、うずく。
だけど。
だけど、あの人はうそつきだった。
たくさんの甘い言葉とうそをついて、海月を翻弄した。
――――君の歌声はやわらかくて、癒されるね。
桐野の言葉。
まっすぐな言葉は心に染みこみ、溶けだし。ふわりと、傷ついた海月の心を癒していった。
(……歌える、気がする。)
息を一つ、吐く。
震える気持ちで、喉を震わせる。
旋律をひとつ、言葉に乗せた。
歌いだす。
その後は、流れるように歌がこぼれた。
一緒に涙があふれ出す。
心の壁が、激しく海月を縛っていた心の壁が決壊した。
音楽を、奏でる。
ひさしぶりに、歌った海月の歌は、あふれそうな想いをのせて異界へと響いた。
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