12 誘拐


 秋の、銀杏色の落ち葉に染まった公園で、ほたると拓人はおしゃべりをしていた。

 拓人は受験生だから、たまにしかこういう時間はとれない。

(アオトとハツのことは心配だけど、今日だけしまっておく)

 ほたるはタクトを見つめて微笑んだ。

「ねえ」

 拓人がギターを構えていった。

「一曲、歌ってみない? 僕が伴奏する」

「いいよ?」

「で、それを録音したいんだ」

「ろくおん」

「とりあえずスマホの動画で。あとで編集して音と映像と分離させる。それでうまくしたら歌ってみた動画なんて上げられたらいいなと思うんだけど。……いや?」

「わからない。歌うのは嫌じゃない」

「わかった。じゃあひとつずつやっていこう。また出来たら説明するから、嫌かそうじゃないか、教えてね」

「うん」

「じゃあ、何歌おうか。桐野さんの歌にする?」

「うづきの歌でもいいよ」

「『くろしろ』?」

「うん」

「じゃあそれで。ちょっと待ってね、準備する」

 拓人はタブレットにコードを表示させ、スマートフォンを近くのテーブルの上に固定した。なるべく二人の顔が映りすぎないように、はらはら舞う銀杏の美しさが伝わるように。工夫してカメラを配置する。

 ギターを弾きならした。コードを復習さらう。

 ほたるは声出しをした。ファの音。透明な、きれいな声。

(うん。調子は万全だ)

 ふたりは目を合わせて笑い、頷いた。

「よし。じゃあ、はじめよう」

 拓人がそっとボタンを押して、録画を開始した。


 ほたるののびやかに澄んだ歌声が、響く。ひらひらと銀杏が舞い、ほたるの胸元の天然石の首飾りが揺れた。


 一曲歌い終わって、スマホを操作して。

「もう一曲、いい?」

 拓人が振り返る。ほたるは頷く。

 最初に歌った曲。『きみがすき』。

 伴奏に、歌声にゆるやかに感情がのっていく。

 するりと感情がほどけて乗る感覚がして、ほたるは最近続けている獅子王の訓練を思い出した。祈るように、意思を集中して。心を、歌に乗せていく。上手く言葉で表現できないような複雑な気持ちが、心の襞にたまった感情が、ふわりと歌に乗った。

 観客が銀杏の葉のみなのが残念なほどに、素晴らしい音楽になった。

 自然とこぼれた涙をそのままに、ほたるは歌い上げた。

 公園をうっすらと碧色の優しい光が覆っていく。噴水の水にはじけて太陽の光と交わり、とける。

 煉瓦で仕切られた公園の中が、優しい異界と繋がった。


 曲が終わり、たくとが息をつく。なんだかすごいものを聞いた気がする。ギターの演奏でついていくのに夢中だったけど、鳥肌が立った。

 動画を恐る恐る確認する。素晴らしすぎて撮れていないかもしれないと恐ろしい想像が浮かんだのだ。幸い、ちゃんと再生できる映像が撮れていた。

「うん、ちゃんと撮れた」

 ほっ、と拓人の顔がゆるむ。これで、受験勉強の追い込みもがんばれる。

「みせて?」

 涙を無造作に袖で拭ったほたるが、顔を寄せてくる。

「いいよ。一緒に見よう」

 こどものような仕草に笑って拓人はハンカチでほたるの頬を拭いた。動画をもういちど再生する。

 固定されたカメラから、背を向けた拓人のギターと横を向いたほたるの歌声が響く。

 二人ははにかんで、微笑んだ。

「……すてき」

「うん、最高だね」

 涙がにじむ。ほたるの歌は、動画で切り取られてもなお人を癒す、不思議な力を持っていた。

 

 そんな平和が突然、終わりを告げた。


 ひしり、ひしりと空間に澱んだ茶色いひびが出現する。

 ひびは無数の線となり、公園の中ほどに集約されてきた。ひびの間からへどろのような色の汚れが染み出してくる。

 へどろ色をした淀みは地面に刺さり、そこにとぐろを巻いて魔法陣状になった。

 

「なんだ、あれ……」

 拓人が息をのむ。

 見るからに禍々しい気配がした。

 ゆらり、と魔法陣から黒い影が立ち上がった。黒光りする目があたりをねめつける。

 ほたるの耳がぺたんと震えた。

 影が、それを目にとめた。

 

 ――――グオオオオオオッ!

 

 影が吠えた。激しい怒りを感じた。拓人はあまりの異常事態に、恐怖に足がすくんだ。今すぐ逃げ出して布団に沈んでしまいたかった。だけど。

 黒い影が、ほたるに手を伸ばす。


「……っ、えっ」


 ほたるの顔が、驚きに歪んだ。影が、ほたるの腰をつかみ闇の魔法陣へと引きずり込む。


「ほたる!」


 ――――ウォオオオオッ!


 影が咆哮した。

 拓人の足が止まる。気持ちは追いかけたいのに、体がどうしても竦んで動けなかった。

 黒い影は、ずるずるとほたるを呑み込んだまま、闇の魔法陣へ沈んでいった。

 闇の後を追うように魔法陣も地面の底へと吸い込まれる。

 闇のかけらが消えて、凍り付くような冷たい風が吹き付けた。

 拓人はしばらく、全く動けなかった。


 ※


 星草堂のドアベルが鳴る。

 冷たい冬の気配のする風と共に、拓人が、歪んだ顔で入ってきた。

 恐怖と自己嫌悪と、心配と怒りとでぐしゃぐしゃになっている。

「海月さん。ほたるが」

 店の手伝いに来ていた琥珀が驚いて立ち上がった。

 海月はすっと目を細めた。拓人に寄り添い、肩に手を置く。人の温もりに、拓人の恐怖に凍り付いていた心がゆっくりと溶けだした。

「何があったの、拓人くん」


  ※


 ほたるは闇の手の中でもがいていた。

「はなせ、はなしてっ」

(拓人は、おばけが、きらいなのに。)

 怖い思いをさせてしまった。

 ほたるの感情が昂る。

(……守りたいのに!)

 あやかしの世界から、守って、隔離して。できるだけ普通のほたるでそばにいたいのだ。

 夏のあの日、拓人が帰ってきてくれた日から、ほたるはずっと祈り続けてきた。

 このまま、拓人のいるときに何事も起こりませんように、と。

 異物であり、あやかしの存在であるほたるを受け入れてくれたのだ。大好きな人なのだ。

 先ほどの、恐怖に歪んだ顔を思い出す。

 それでも、拓人は手を伸ばしてくれていた。

 ほたるの目から、涙がこぼれる。

 大好きな、ひとなのだ。あやかしの世界に巻き込まないでほしい。

 もどかしい思いに、ほたるはひたすらに胸に下げた首飾りを握り締めて祈った。

 碧よりももっと青い、清冽な怒りに満ちた青白い光がほたるからゆらりと立ち上った。


 ――――ギャアッ


 黒い影ははじかれたようにほたるから離れた。

 ほたるは体についたほこりをはらい、立ち上がる。

 首飾りを握り締めた。

「タクト……」

 

 ほたるから離れた黒い影が、闇色の鎧の大男を形作る。

 吐き捨てるように喚いた。


 ――――コムスメガ!


 ほたるを憎々しげににらみつける。


 ――――我ガ姫ニ、手出シヲスルナ!


「わがひめ?」

 何のことだ。ほたるには見当もつかなかった。首を傾げた。

「しらない。なんのこと」


 ――――我ガ妻トナルベキ、紅葉姫ダ。


「紅葉姫。……みらいちゃん?」

 ほたるは首を傾げる。

 琥珀の大事な人だ。以前桐野の実家を訪れたときに、一度だけ会わせてもらった。


 ――――ソウ、紅葉姫『未来』。我ガ妻ダ。


「妻ではないわ」

 凛とした声が響く。

 不思議な和装に身を包んだ少女が、闇の姿をした男の後ろの岩の奥から現れた。しゃらしゃらと音がするのは、足から全身にまかれた鎖のためのようだった。


「玄冬王。わたしは、あなたの妻にはならない」


 玄冬王が、吠える。


 ――――約定ガアルノダ!


「仮初めのものでしょう。わたしが巫女姫の役目につくときに、その役目を終えたらあなたが娶ってもいいと冗談で言っておられたのよ。わたしは役目を終えるときのことなど考えもしなかったから、返事もさしあげていないはずよ」


 ――――ソノヨウナコトハナイ。ソナタハ我ガ妻ダ。


「いいえ」

 苛立ったように紅葉姫は首を振った。何度も繰り返している問答なのだろう。


「それで、どうしてこの子を誘拐したのです」


 ――――ソナタヲ誘惑シタ罪人ダ。


「……琥珀のこと?」

 眉をひそめた。

 ――――あの地に住む、猫の精だ、

 玄冬王が、胸を張る。

(愚かな。)

 紅葉姫はため息を吐く。

「人違いよ」


 ――――なっ……。


 玄冬王は息を呑んだ。今の今まで、恋敵はこの猫の精だと思っていたのだ。

 紅葉姫は、ほたるを見て眉をひそめた。


「この子は無関係の猫の精よ、帰してあげて」


 ――――イヤダ。


「どうして」

 ――――そのものは、そなたの名を知っていた。無関係ではなかろう。


(気づかれた。知性はまだ残っているのね。)

 紅葉姫は唇をゆがめた。


「わたしの大好きなひとじゃないことは確かよ。濡れ衣で無関係の娘を痛めつけるなど、冬をつかさどる王のなさることではないわ」


 ――――……。

 玄冬王は考えた。


 ――――鵺。


 ――――はっ。

 玄冬王に喚ばれ、鴉のような影が跪いた姿で出現する。


 ――――この娘を、吹雪の屋敷に閉じ込めておけ。


 ――――承りました。

 鵺は、抵抗をものともせずにほたるを抱えるとすっと消えた。


 紅葉姫はもどかしげにため息を吐く。

「玄冬王。桜姫……春の君がお知りになったら、ただではすみません」


 ――――かまわぬ。


 ――――そなたを失うよりは、いい。


「わたしは最初から、あなたのものではありません」


 ――――岩屋に、戻る


 闇の蛇の姿になった玄冬王に絡みつかれ、紅葉姫はあきらめた表情で意思を消した。



  ※


 ほたるがあやかしの世界に攫われた。

 その一報は、鏡を通して桜姫に届けられ、たちまちに玄冬王の反逆的行動がつきとめられた。

 怒りを通り越して、表情を凍らせた桜姫が正装に着替える。

 宝飾品まで身に着け、完全装備になった桜姫は、恐ろしいほどの気迫と威厳に満ちていた。


「我は王の道より玄冬王の元を訪なう」

 駆け付けた琥珀と海月達に、桜姫は宣言した。

「されどこの道は王の道。四季王にしかたどれぬ道じゃ。琥珀、そなたらはふもとの道より、玄冬王の宮殿を目指すがよい」

 ついと居室に掲げられた水鏡を見遣る。

「獣の。そなたは未だに、そこを動かぬつもりかえ」

 鏡に映し出された獣の王の君、獅子王は苦笑した。

 

 ――――オレはまだここを動かないよ。あの娘と、娘に添ったオレ自身に約束したんだ。


 ふん、と桜姫は鼻を鳴らした。

「解き放たれし折には覚えておくのだな。休んでいた分も必ず働いてもらう」

 獅子王は苦笑いのまま頬をかいた。

 

 ――――まあ、でも今のオレにできることをしておくよ。

 

 桜姫は興味を失ったように水鏡から視線をそらすと、琥珀に向き直った。

「いま、岩屋への扉を開けよう」


 桜姫の庭の一角にある、しめ縄を張られた祭壇。その脇の小道を抜けた裏に、大きな岩があった。その下で桜姫が呪文を唱える。

 地響きと音をたてて、洞窟の入口が開いた。

 桜姫が手燭を手渡す。さらわれた、ほたるとみらいへ導いてくれる手燭だという。ガラスの向こうに揺らめく炎は、不思議な色に光っていた。

「行け。……海月、そなたには別に頼みたいことがある」

 海月は名を呼ばれて首を傾げた。こんな事態に、ただの人である自分が役に立つことなどあるのだろうか。

 琥珀は、『猫神術』の書を握り締めた。何度も開いた部分に折り癖が付いている。

「琥珀くん……僕も、行くよ」

 青ざめた拓人が、琥珀の隣に並んだ。

「ほたるちゃんは僕の恋人だから。僕が、助けなきゃ」

「タクト。……楽器は、持っていく?」

「うん。僕の相棒だから」

 拓人は前に回して掛けたギターバッグを抱きしめた。いざとなったらこれで敵を(敵ってなんだろう!? )敵を、殴る覚悟だった。

 琥珀は猫神術の書をくるりと丸めて腰に差した。師匠の教えを思い出す。

  『小僧、自信を持って行け。お前の潜在能力はなかなかのものだ』

 歯を食いしばる。

「タクト、行こう!」

 拓人とともに、琥珀は洞窟の中に入った。

 

 ※

 

 海月は、藤姫の寝室へと通された。

 やつれた藤姫が微笑む。

「海月さん。……わたくしの代わりに、お願いしたいことがあります」

 藤姫は青ざめ、肌も乾き、髪もぱさぱさで、とても弱っている様子だった。しかし瞳は力を失っていなかった。愛する者のため、生命を最後まで燃やし尽くす覚悟に輝いていた。その鮮烈な美しさに、海月は思わず頭を下げた。

「先日、あなたの演奏をお聞きしました。洋琴の奏者なのですね」

 洋琴。ピアノの和称か。海月は頷いた。

「蔦の水鏡を、常時こちらとお繋ぎいたします。ぜひあの星草堂で、演奏していただきたいのです」

「演奏? ピアノをですか?」

 思わぬ言葉に、思わず復唱した。この非常時に、ピアノ?

「祈りを込めて神楽舞を舞うように、心を込めて、音を奏でていただきたいのです」

 藤姫は桜姫の神楽舞を思い浮かべて、目を閉じた。荘厳で、美しく、凛としてあやかしの世界を護り、人の世界を護る舞。大好きだった。

 脳裏にぽぉん、とつづみの音が聞こえる。

 この者に、託すのだ。

 藤姫はかっと目を開けた。

「本来ならば、わたくしのつづみがその役割をするのですが。この体たらくです。桜姫の、宮殿に邪なるものを寄せ付けない結界を、音で張るのです。そなたの清涼なる演奏ならば、できます。おそらく先祖に、歌舞音曲の巫女がおられましょう。……頼みましたよ」

「わかりました」

 海月は頷いた。自分の由来も特殊な能力も信じきれないが、演奏することで役に立てるなら本望だ。

「では、星草堂に戻ります」

 頭を下げて、退室する海月に藤姫は声をかけた。余計なお世話であるのはわかっていた。 

「海月。うたっても、よいのですよ」

 目を開いて、それから微笑んで首を振った。海月は頑固なのだ。こればかりは海月自身でもどうにもならない。

「歌わないと、決めているのです」

 きっぱりと告げる。

「もったいない。そなたの声には、ほたると同じ、癒しの力があるのに」

「……いつか。納得ができたら、歌いたいと思います」

 苦い微笑みを浮かべて、海月は桜姫の宮殿を辞した。 

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