11 祖母の入院
その連絡が海月のところに入ったのは、秋の終わりの頃のことだった。
ーーーーばあちゃんが。
ただ、それだけのメッセージだった。
続きがいつまでたっても来ないので、海月ははじめて、メッセージアプリの通話ボタンを押した。
「くらげちゃん? どうしよう。ばあちゃんが……ばあちゃんが、入院したって」
「桐野さん、今どちらですか?」
「今そっちに向かう電車の中。もうすぐ倉敷駅」
「じゃあ、中央改札口に来てくださいね。わたし、そこまで行きますから」
「……ありがとう、くらげちゃん」
桐野には、もう身内と呼べるのは祖母しかいない。その祖母の急病に、とてもとりみだしていた。声が乱れていた。
海月は焦る気持ちを抑え急いで仕度をすると、臨時休店の札をかけた。
コートを着て、倉敷駅へと走る。
改札で、息を整えていると、桐野が出てきた。普段は鋭いまなざしが、しょぼくれた犬のようにへたれた顔になっている。
「くらげちゃん」
桐野は、海月に駆け寄った。
そのまま、ぎゅっと抱きしめられる。
桐野は細かく震えていた。海月はしばらく、桐野の腕をさすった。
「桐野さん」
海月は桐野を連れてベンチに移動した。そっと、桐野の背中をさする。
「くらげちゃん。くらげちゃん。ばあちゃんが、入院したって。危篤だって……っ」
「危篤……。心配ですね」
震えている手を握った。もう一方の手で背中を撫ぜる。呼吸が落ち着いてきた。
「どちらに入院されたんですか?」
「医大の……」
「では、近くですね。車で送って行きますね。……ところで桐野さん、最後にとった食事はいつですか?」
「えー……レコーディングしてたから……昨夜は、弁当食ったし。朝のコーヒーが最後か?」
「もう夕方ですよ。食欲はないかもしれませんが。せめて水分でもとって落ち着きましょう」
海月は鞄から、お茶の入った水筒と夕食用に用意していたおにぎりを出して桐野に渡した。
桐野が、お茶をひとくち飲む。ふう、と肩の力がぬけるのがわかった。
お茶をカップ一杯分くらいとごはんを少し食べて、桐野の青白かった顔にようやく赤みがもどってきた。海月はほっと目元をゆるませて、立ち上がった。
「車は駐車場に止めています。そこまで歩けますか?」
「うん。ありがとう」
病院で、桐野は病室へと案内されていった。 祖母はたくさんのチューブにつながれて、眠っているようだった。桐野はすがるように、手袋越しに祖母の手を握った。
海月は桐野を病院に送り届けた後、星草堂に戻った。とても寝るどころではなく、こまごまと片付けながら何度も携帯を眺めた。
桐野の様子が心配だった。
朝方、メッセージが来た。
――――ばあちゃん、もちなおしたって。
よかった。
カウンターに突っ伏して寝ていた海月は、涙交じりに微笑んだ。
――――よかったです。
――――起こしちゃった?
――――起きてましたよ。車、だしましょうか?
返信が来たのは、少し時間をおいてからだった。
桐野の手が震えている。携帯をみつめてかたまった様子をみて、救急車に付き添ってきた琥珀が首を傾げた。
「返事、しないの? 正直に言えばいい。会いたいって」
フードで猫耳を隠した琥珀に背中を押され、桐野はメッセージを入力した。
※
――――ありがとう。……もしよかったら、送ってほしい。
――――わかりました。15分ほどでそちらに行けると思います。
――――ありがとう。待ってる。
めずらしく遠慮がちに甘える桐野に、せつなくて、たまらなくて、海月は身だしなみを最低限ととのえると病院へ向かった。
夜間出入り口の外で、桐野は所在なさげに立っていた。
「桐野さん」
海月は駆け寄り、桐野の手を握った。
「くらげちゃん」
桐野が、泣きそうに笑った。
「寒い中、待たせてしまって。早く乗ってくださいね。……おばあさまは、いかがですか?」
助手席に乗り込んで、桐野はつぶやくように言った。
「余命、一か月だって……」
海月は、きゅっと目を閉じた。なんとつらい宣告だろう。
「もって、三か月だって。末期まで進行してて、どうしようもないって……」
うつろに、ダッシュボードをみつめる桐野を放っておけなくて、海月は桐野の手を握った。冷たい手だった。
桐野はぬくもりにすがるように、海月の手を握り返した。
ぽつり、ぽつりと口を開く。
「僕さ。ばあちゃんっこだったんだ」
「……ええ」
「親が早くに亡くなったからさ。ばあちゃんとじいちゃんに育てられて」
「うん」
「じいちゃんが、去年の春に亡くなって」
「うん……」
「ばあちゃんの様子がおかしくてさ」
「うん」
「マメに帰るようにしてたんだ」
「そうだったんですね」
「ばあちゃんにはずっと、元気でいてほしくてさ……」
握ってない方の手で、顔を覆って、桐野はすすり泣いた。
「死なないで、ほしいよ」
「そう、ですね……」
(わたしがいます、なんて言えた立場じゃないけれど。)
海月はため息をつき、微笑んだ。せめてぬくもりが伝わればいいと思い、桐野の手をにぎり、背中をさする。
桐野の手が、きゅっと強く握り返してきた。
「くらげちゃん」
「なんですか」
「キス、していい?」
目を見張って。海月は桐野の顔をのぞきこんだ。その瞳に荒れ狂うようななげやりな色を見つけて、海月は、かなしそうに首を振った。
(わたしは、かまわない。一夜限りでも、なんでもいい。でも今の桐野さんじゃ、彼自身のためにならない……)
身を切る思いで、告げる。
「ダメ、です」
「どうして!」
「ダメです。逃げちゃダメ。ちゃんと向き合わなきゃ。……ここで、キスして、性欲に逃げて、おばあさまに顔をあわせられますか?」
くしゃっと、桐野の顔が歪んだ。
「星村海月。君は厳しいね。……だが、正しい」
目元を片手で覆って、桐野は天を仰いだ。
「だてに、年はとってないですからね」
海月は自嘲するように笑った。
ふいに、桐野に抱きしめられた。先ほどの目つきと違う、混乱からの逃避じゃないないやさしい抱擁だった。
「ありがとう……。ここにいたのが君でよかった」
心から染み出すようなささやき声に、海月は息をついた。
「どういたしまして」
海月は、弟をあやすような気持ちで微笑んだ。
「さあ、ご自宅までお送りします。荷物とか、取りに行かれるんでしょう?」
「……ああ、そうだ」
「では、出発しますね」
海月は、困ったように左手を見た。桐野の手が離れない。仕方がなく、手をつないだままシフトレバーの操作をした。ぽんぽん、と手を撫ぜると、桐野は気づいたように仕方がなく手を離した。
桐野の祖母の自宅に着いた。
「ありがとう。だいぶ落ち着いた。次は、バスで行くよ。いつまでも君に迷惑をかけられないからね」
「わかりました。またなにかありましたら遠慮なくおっしゃってくださいね」
「ありがとう。気を付けて帰ってね。おやすみ」
「おやすみなさい。ではまた、です」
海月は微笑んで、手を振った。隣の空っぽの席が、なんだか心に染みた。
数日後、桐野の祖母が一般病棟に移ることができたというので海月はお見舞いに行くことにした。
「おばあちゃんは、池波正太郎がお好きなんですか?」
「そうねえ、お爺さんの趣味でね。一緒に呼んでたらすっかりはまっちゃったの」
「まあ、素敵ですね」
「いい年してねえ、ちゃんばらしたり切ったりはったり、大人げないかしらと思うんだけれどね。好きなのよ」
「また、おすすめの本もってきますね。もしよかったら音読の練習をさせてくださいな」
「あらあら。ありがとうございます」
桐野の祖母は大変やつれて、あまり動かなくなって。それでもおしゃべりはげんきだった。
病室の外で、やつれた桐野が待っていた。
「ありがとな」
「いいえ。楽しい時間を、過ごせました」
海月はふんわりと微笑む。
「めし、くいにいこう」
「いいですよ。食べたいものはありますか?」
「食欲はない。だけどちょっと、君のおにぎりが食べたい」
「もう。食べに行けないじゃないですか。星草堂にいらっしゃいますか?」
「食べるのは禁止じゃなかったのか?」
「お客様にお出しするようなものはつくれないというだけです。おにぎりくらいだったらできますよ」
「きみの、部屋でいただいてもいい? 君が守ってる星草堂に、食べ物のにおいがするのは耐えられない」
「いいですよ。ちょっと片付ける時間をくださいね」
「じゃあ僕は米を炊こうか」
「わかりました。お願いします。キッチンはカウンターの裏から入れます」
他愛のないことを話しながら、二人は星草堂に戻ってきた。帰りに近くのスーパーで食材も買ってきた。
海月が二階を片付けてちゃぶ台を用意する間に、桐野が母屋のキッチンで、ご飯を炊き味噌汁を作り、卵焼きを焼いた。
「おにぎりは君が作ってね」
「こだわりなんですか?」
「うん」
「わかりました。そんなに上手じゃないですよ?」
「いいよ。作って」
海月は、手を真っ赤にして炊き立てご飯からおにぎりを作った。鮭や鰹節などのシンプルな具材だ。海月もあまりここで自炊をしているわけではないので、そんなに買い置きの食材はなかった。
二階のちゃぶ台に二人で運んで、ほうじ茶を入れ、二人で手を合わせた。
「いただきます」
しばらく、もくもくと食事をする。桐野が微笑んだ。
「なんだか。いいな、こういうの」
「大阪では自炊されてるんですか?」
「近所の食堂とかばっかだよ。そもそも忙しくてあんまり帰ってない。岡山ばっか来てるよ」
「うちでよければいつでもお貸ししますので、またお料理しましょうね」
「うん。ありがとう」
海月は何も、言わないけど。桐野は深く感謝していた。海月の温かい気配りが、心にしみる。
にじんだ涙をかくすように、くだらない話をして笑って。かりそめの日常が、そこにあった。
食後のお茶をすすりながら、桐野がふと遠い目をした。
「ばあちゃんがさ。病院でね」
桐野がぽつりぽつりと語った。
「これが最後の栗ごはんかねえって、言うんだ」
海月は息をのんだ。相槌すらうてない。
「縁起でもないこと言うなよって、退院したらまたばあちゃんの栗ごはん作ってよって僕が言ったらさ」
「……ええ」
必死な桐野の顔が思い浮かんで胸が詰まった。
「いいんだよって、言うんだ」
桐野が、涙をこらえるようにぎゅっと瞼を閉じた。
「年齢の、順番通りだから、いいだよって」
目の端から、涙が流れる。
「…………っ」
声にならない言葉を吐いて、桐野は、こぶしを握り締めた。
海月はそっと、桐野の手を握って、背中に手を添えた。
先日の、ハツの言葉を思い出す。
「星村さん。蒼斗をよろしゅう頼みます」
「……わかりました。わたしにできることがあったら」
「あの子はな、あんたを連れてくるようになって、よう笑うようになったよ。それだけで、じゅうぶんじゃ」
「ハツさん。私も、桐…蒼斗さんのことは大切な友だと思っています。私ができる限り、彼が必要とする応援を、していきたいと思っています。ひとりの、友として」
「いまはそれでええよ。ありがとうなあ」
嘘は、言えない。安心させてあげたいけど。今の海月には、それが精一杯だった。
「くらげちゃん」
「はい?」
「ぎゅって、していい?」
「……いいですよ?」
桐野はぎゅっと、海月をだきしめた。
息継ぎのようなため息が耳元にかかる。
ただ、ただせつなかった。
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