第139話 急性大動脈解離17

 脳分離体外循環を開始したことで、一息つける。そう思っていたが、急がなければならないのは変わらない。現状では下半身、つまり心臓と脳を除くほとんどの臓器に血液が流れていないのだ。だからこそ、できるだけ早く人工血管を吻合し、下半身への血流を再開するのが急がれる。


 しかし、次は末梢側血管吻合、つまりは最も深い位置での血管吻合だった。


「4点固定、つまりは4本の針糸を使って吻合していくよ」

「はいっ」

「できるだけ見えやすいようにしてくれ」


 ここはどうしても自分だけの作業ではできない。かなり深い位置にあるために周囲の臓器や組織が邪魔をして見えなくなる部分も多い。そのために助手に視野を確保してもらわなければ作業ができないのだ。そして、視野がよくなったからといっても簡単にできるわけでもない。


「確実にやっていくよ」


 それでもこの手術はできるだけ急いで、である。


 大動脈弓とよばれるアーチをえがいた部分の先を切る。この近くには反回神経はんかいしんけいと呼ばれる神経が通っており、傷つけると声が出しにくくなったり飲み込みができずにむせてしまったりする神経である。発生の段階で神経だけ下側に伸びていくために、こんなところを通っているくせに喉に影響を及ぼすのだ。

 その神経が絶対に傷つかないように注意をする。そして特注の人工血管の長さを調節して切り、針と糸で縫い合わせていくのだ。


 この特注の人工血管は途中で4本の枝が出ている。それぞれ頭頸部に向かう3本の枝に加えて、人工心肺と連結させる枝である。この末梢側の吻合が終了すると、全ての枝を遮断して空気が入らないようにし、人工心肺から血液を送ることで下半身への血流を再開させるのである。


 非常に深い部分で糸を結び合わせる。指先がなんとか入るくらいの深く狭い先で結ばれた糸が血管と人工血管を合わせていく。一度結んで固定した針糸を次は連続で縫うことで、さらに血管と人工血管が合わさっていくのだ。血管と人工血管に糸をかけるたびに引っ張り上げ、糸のたるみをとり、次へと縫っていく。そうして4点にかけた針を起点にして、4つの面を縫い合わせるように吻合していく。一つの面を縫い終わると、次の起点に縫われて結ばれた糸を結び合わせる。

 現代日本ではもっとも気をつかい、かつ難しい部分の一つである。あまりにも深い位置であることに加えてかなりの圧がかかる部分であるために、吻合の一部から出血した場合に直すことが困難なのが理由だ。なにせただでさえ狭いくせに吻合が終わると血管と人工血管の中は血液が流れているためにその分さらに狭くなるために修正する方が難しい。少しも結紮けっさつを緩ませるわけにはいかない。


治癒ヒール


 吻合が終わると治癒ヒールをかけた。これで下半身の血流再開ができる。人工血管の中枢側と頸部への枝を鉗子かんしで完全に遮断し、残った枝を人工血管の送血管につなげる。遮断していた一部を少しだけ開けて、足に入っている送血管から血液を送ることで完全に血管内から空気を抜いた。


「下半身の体外循環を再開してくれ」

「分かったわ」


 ヴェールに指示をだし、体外循環を再開させる。これで脳も下半身も血液が送られることになる。


「これでようやくゆっくりできるわけね?」


 少し気が緩んだのが分かったのか、レナが言った。これまでの緊迫した雰囲気から今までほとんど言葉を発せなかったようだけど、タイミングを見計らってくれていたのだろう。しかし、たしかに大きな山場を越えたわけだけど、現実はあまくない。


「残念だけど、脳分離体外循環の血液の流れは完全なものとは言えない。だから、できるだけ脳のダメージを減らすようにまだまだ急ぐよ」


 すでにこの時点で手術を初めてから3時間以上が経過しただろうか。専門の心臓血管外科医とそのチームであればもっと早くできるだろうけど、僕らの実力ではこの程度である。それでもかなり頑張った方だろう。


「これから頸部の枝を3本、そして中枢側の吻合がある。まだまだ大変だけど、頑張っていこう」



 すでに疲労が出てきている。しかし、まだまだ手を緩めるわけにはいかなかった。




 ***




「勇者殿が助からなかった場合と、助かった場合を想定しておかねばならないと。そういう事ですね?」

「ええ。この領地の立ち位置というのは非常に難しいものとなりましょう。私も立場上何も見なかったというわけにはいきませんので」


 宮廷魔道士であるロンドルは領主館へとやってきていた。すでにレグスの手術を開始してから一時間以上がたっているだろうか。事前に聞いていた話ではかなりの長時間の手術になるらしい。それがどんなものかをロンドルは想像することができなかったが、それまでに酷使していた体は腰を中心に悲鳴をあげており、すぐにでも横になりたい衝動を押さえて領主館へとやってきたのだ。もちろん、領主との面談が終わればすぐにでも部屋を貸してもらい寝るつもりである。


「もし、その手術とやらが成功した場合のことを考えると、ベルホルト殿の治癒ヒールでも治すことのできなかった呪いを治すのです。王家が放っておくわけがありません」

「いつかは王家に目をつけられるとは思っていましたが、案外早かったですな」

「逆にレグス殿が助からなかった場合、当代の勇者を失ってしまったという損失に関して、この領地に責任がないとは言えないのではないでしょうか」

「それは先の戦いの戦功を持ってしても、相殺できないほどとお考えですかな?」

「そこはなんとでもなるのではないかと」


 ロンドルの主張に対して何が目的なのかを測りかねる領主ではあったが、現在のところは敵対していないということだけを確認できただけでも良いと考えている。ユグドラシル領が何も対策をしない方が王家にとっては有利に働くはずで、宮廷魔術師という立場上はロンドルは王家の味方であるはずだった。

 腹の探り合いばかりをしていてもらちが明かないと感じたランスター=レニアンは、単刀直入に聞くことにする。


「そちらの目的は?」


 直接的に聞かれるとは思っていなかったのか、ロンドルは少しだけ意外そうに微笑むと言った。


「腰が痛くてですな。そろそろ引退してどこかに引きこもろうと思っていたところなのですよ。ちょうど、腕の良い治癒師……いえ、失礼。医者の噂を聞いたもので」




 ***




「世界樹の雫をください」

「はい」


 マスクを少しだけずらしてもらい、ストローを使って世界樹の雫を飲む。本来はこのような不潔になるかもしれないような事をすべきではないが、魔力を回復させるためには仕方のないことである。


浄化ウォッシュ

「ありがとう」


 せめてもと、浄化ウォッシュの魔法をヴェールがかけてくれる。術野に戻ると、終わりの見え始めた手術と、それでもまだ吻合しなければならない上行大動脈を見て疲労を強く感じた。


「頸部分枝の吻合終了。これで脳分離体外循環を終了して、一般的な体外循環にもどるよ」


 人工血管から出ている四本の枝のうち、三本はそれぞれの血管へと吻合した。残りの一本は人工心肺につなげており、それは送血管の役割を果たしている。

 残りは中枢吻合のみである。すでに吻合された血管には回復ヒールをかけており、その治癒作用によって完全にくっついた血管から血液の漏れはない。代わりに僕もミリヤも魔力が枯渇しかけていたために、世界樹の雫を使って魔力を回復させたところだった。


「あとちょっとだ。このままの勢いでいくよ」

「はいっ!」


 こちらの世界にきてからというもの、これほどまでに長時間の手術はなかった。これでも急がなければならないというプレッシャーの中、確実性を損なわないように注意しながらやっている。少しでも人工心肺の時間を少なくすることで合併症を減らし、さらには血管の吻合は他の手術に比べて失敗すると大出血につながるものであるために集中力はかなり必要となる。


 間違いなく、総合的に見てもっとも困難な手術だった。緊急性も含めると今までの手術の比ではない。


「中枢側吻合終了! 遮断を解除して人工心肺から離脱していくよ!」


 大動脈の遮断を解除すると、今まで流れていなかった心臓の冠動脈かんどうみゃくへと血液が流れ込み、それによって仮死状態にされていた心臓の細胞が再び活動を始める。

 最初は弱い動きから、徐々に力強く収縮しはじめる心臓を見て、僕は心眼を発動させる。まだ、心臓へともどっていく血液を人工心肺でほとんど吸い出している状態のために流れは悪い。しかし、それでも心臓は強く動いていた。


「再鼓動、確認したよ」

「先生、おめでとうございます」


 ローガンが言った。おめでとう、と。その意味というのは僕の想定しているとおりなのだろうか。もしそうだとしたら、それは僕の想定したすべての手術ができる病院ができあがったということを意味している。


「レグスは、救われたのか?」


 ベルホルトが目を見開いて言う。


「ああ、手術はもう少し続くけどね。たぶん、もう大丈夫」


 人工心肺から流れる血液の量を少しずつ減らしていくと、レグスの心臓はそれに呼応するように動きを強くしていった。最終的に人工心肺が無くても全身へ血液が循環しだすようになる。それを確認して脱血管と送血管を抜く。空気が入らないように、穴にもともとかけてあった糸を結んで閉じ、回復ヒールをかけて完全に止血を行う。


 最後の方はもう誰もほとんど言葉を発さなくなっていた。疲労が強すぎたのもあるだろう。しかし、それ以上の達成感に手術室が満たされていた。


「後は胸を閉じるよ」


 皆を見渡す。


 完璧な助手を務めてくれたミリヤに、第二助手を必死に行ったローガン。器械出しと準備に尽力を尽くしてくれたサーシャさん、ノイマンとマインは手術室のサポートを行ってくれている。人工心肺はヴェールがいなければ作り上げることはできなかったし、作成はルコルとメルジュさんが行ってくれた。手術器械や人工血管、針に糸はサントネ親方にセンリが特注のものを作り上げてくれて、薬剤の多くはベルホルトが作った。他にもたくさんの人がこの病院を助けてくれた。

 なにより、彼女がいなければ僕はここまでのことはできなかっただろう。


 レナの方を見て、僕は言った。



「終わったよ、手術終了だ。ありがとうございました」

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