第138話 急性大動脈解離16

「それじゃ、遮断するよ。送血の量を一時的に減らしてくれ!」


 すでに回り始めている人工心肺から血液を送る量を減らす。大動脈を遮断する際に高度の圧がかかっていると血管が裂けることがあるからだった。今回の場合は大動脈解離が悪化する恐れがあり、最悪の場合には完全に裂けて大出血する。


「遮断、送血量を通常に戻して! それじゃあ剪刀せんとうください。人工心肺の方は、血液を冷やして体温を低下させていってくれ」


 ここからは時間との勝負である。血液を完全に送らなくなってしまった心臓には心臓自体に血液を送り込む冠動脈という血管がある。左右にあるそこにめがけて心臓を仮死状態にする薬を送り込まねばならない。その薬は心筋保護液という。

 上行大動脈を切る。血管から大量の血液が出てくるが、すでに心臓から送られることはないために、ある程度吸引してしまうと内部が見えるようになった。

 心臓の出口にある大動脈弁、それのすぐ上に二カ所あるのが冠動脈である。


「心筋保護液ください」


 注射器に満たしてあるのは心筋保護液であり、その先にはスライムゼリーで作成した先の柔らかいカテーテルである。冠動脈の入り口にそれを入れ、空気が入らないように注射器で心筋保護液を送り込んだ。

 現代日本ではこれは専用の機械をつかって、圧力が一定になるように測定しながら行う。そうでなければ心臓全体に心筋保護液が行き渡ったか分からないからであり、不均等な注入を行うと保護されなかった心臓の一部が壊死してしまうからである。

 しかし、この世界には魔法があるために心眼を使って心臓全体に十分行き渡ったことを見ることができる。機械の代わりは常に魔法で行ってきた。


「と、止まった……」

「ほ、本当に心臓が止まるなんて」


 心筋保護液を左右の冠動脈へと注入すると、心筋は活動を停止する。本来は細胞で使われるはずの酸素やエネルギーを消費させないために仮死状態にしたのだ。これはカリウムというミネラルが細胞に影響するために起こる現象であり、心筋保護液はもう一度動き出す時のために必要なエネルギーとして糖分も十分に入っている液体である。

 手術中は人工心肺で生きていてもらうという説明は全員が理解していたはずだった。しかし、実際に心臓が止まってしまうというのを目の当たりにして、とんでもない事をしているという思いがあるのだろう。しかし、心筋保護液を使っていても心臓の細胞には負担がかかり続けているし、他の臓器も生理的な血液の流れではないためにダメージを受けてしまう場所もある。感慨にふける暇もなく、僕は手を動かし続ける。


「先に中枢側の断端を形成するよ。治癒ヒールをお願い」

「はいっ、治癒ヒール!」


 ミリヤに指示をだして上行大動脈の心臓側に治癒ヒールをかけてもらう。こうすることで中膜と外膜が裂けて離れていた部分をくっつけ、さらにその上から縫いこむことで再解離を防ぐのだ。解離が冠動脈まで及んでしまうと冠動脈に血液が流れなくなってしまうために心筋梗塞や不整脈を起こし、命に関わる事態となってしまう。

 とにかく、急ぐ。それだけ人工心肺というのは体に負担がかかるものなのである。


「断端形成終了、次にいくよ」

「はいっ!」


 いつもより速く動く僕の手技にミリヤが遅れそうになる。自分だけが先に進んだとしても手術が速くなるわけではない。そのため僕はある程度のところまでいくと立ち止まってまわりがついてきているかどうかを確認しなければならないわけだけど、そんな余裕はほとんどない。


「頸部三分枝を剥離するよ、テーピング準備してて」

「は、はい」


 大動脈から分岐して頭頸部に向かう血管は三本ある。腕頭動脈、左総頸動脈、左鎖骨下動脈である。それぞれテープを通して、絞り上げることで遮断できるようにしておく。ただし、強く絞ると血管が傷ついてしまうために実際に遮断するときは優しくしなければならない。


「脳分離開始できる!?」

「準備はできてるわ」


 人工心肺の血液を送る管を送血管、途中に分岐した側管はさらにその先で3つに分岐するように作ってあった。それぞれ先に固定用の風船バルーンがついている。

 空気が絶対に入らないように血液と点滴液で満たしたそれをそれぞれの血管に挿入する必要があった。



 足から送り込んでいる血液を一旦減らして、大動脈の遮断を解除し、頸部に行く血管を根元で切り落としたあとにそれぞれの送血管を入れ、固定し、適切な量の血液を送り込む。それだけの間、脳には血液が送られないことになる。


 脳神経細胞は約3分の虚血で死滅すると言われている。


 なんとかして、その時間を伸ばすことはできても微々たるものである。体温を低下され、完全に死滅すると言われている約3分を約10分ほどにまですることはできてもダメージはあるはずである。


「できるだけ速く、そして焦らず丁寧に正確に」

「は、はい」

「大丈夫。僕らならできる」


 ミリヤを励ましつつ、これからの行動を説明していく。低体温にしているために脳神経細胞の寿命もかなり伸びているはずだ。焦らず、丁寧にそしてできるだけ速くやれば脳神経細胞にダメージが来る前に血液を送ることができるはずだと、僕は自分自身にも言い聞かせる。


「送血止めて……遮断解除するよ。吸引お願い」


 大動脈の遮断を解除すると、血液が出てくる。それを全て吸引して人工心肺に戻すのだ。戻す際に浄化ウォッシュをかけるのはヴェールの役目である。あまりにも出血が多いと体を循環している血液の量が足りなくなるために、出血はこまめに吸引して人工心肺に戻し、送血管から体内へと戻すのである。


剪刀せんとうください」

「はい」

「一気にいくよ」


 上行大動脈に切れ込みをいれ、頸部の三つの動脈の始まりの部分を見つける。根元で切り落とすと、左鎖骨下動脈、左総頸動脈、腕頭動脈の順に細い送血管を入れ、固定の風船バルーンを膨らませ、あらかじめひっかけていたテープを絞ることで固定した。


「脳分離開始!」

「はいっ! 行くわよ」


 ヴェールの方で送血の量を調節しながら脳分離体外循環を開始する。この間に下半身には血液を送らない。できるだけ早く人工血管との吻合を終わらせて下半身への送血も始める必要があったが、それよりも脳へ血液がきちんと送られているかを確認する必要があった。


「だい……じょうぶ……だと思う」


 この世界で初めての脳分離体外循環である。脳への血液の量は心眼で見ることができるが、どれが本当に正しい量なのかなど分からない。足りなければ脳神経細胞が死んでしまうし、多すぎれば脳浮腫という脳全体が浮腫むくんだ状態となってしまう。どちらも脳へのダメージがある。


「レナもたまにでいいから心眼で頭への血液の量が足りてるかどうかを確認してくれ」

「分かったわ」


 不安なことしかないが、それでもやるしかない。


「それじゃあ、人工血管をください」


 僕はサントネ親方特製の人工血管を手にして、次の行程へと進んだ。

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