第99話 鎖骨下動脈盗流症候群7
脳への血流が低下すると脳細胞が障害されて死滅していく。
これはほんの数分の血液遮断でも起こる事であり、そのために人間は心臓が動かなくなるとすぐに死んでしまう。それだけたくさんの血液を必要とし、酸素と栄養分がなければ脳神経細胞というのはその機能を保っていられないほどに精密で脆い構造をしている。
ここまで血液が常に必要であるというのは哺乳類に特有のもので、例えば爬虫類や両生類なんかはそこまで脳神経細胞が活発じゃないから首を刎ねられていても動いたりする。蛇が脅威の生命力で、なんて表現をされるけど、僕からしたら哺乳類のほうが脅威の思考能力を持って常に活動し続けることができると思っている。
そのため、手術中にすこしでも血液が脳に行かなくなるというのを避けねばならない。しかし、どうしても血液の流れが悪くなることもある。その対策が実はある。
「よし、それじゃあ頭を冷やして」
レナが冷気の魔法でラチェットの頭部を冷やしだした。これによってラチェットの脳は仮死状態となって脳細胞が死滅することを少しの間だけではあるけど防いでくれるのである。極寒の川なんかに落ちてしまった人が、心臓が止まってからかなり時間がかかっているのに助かったりするのはこのためだった。
「よし、ではこれから左
ラチェットの鎖骨下動脈盗流症候群の治療を行うにあたって、僕は大きな勘違いをしていた。それは、手術をするのならば、現代日本でやってきた手術を行うべきという固定概念がまだ僕の中に残っていたのである。
たしかに鎖骨下動脈盗流症候群の治療を行うのには一般的に人工心肺が必要だった。そのために僕は人工心肺が使える可能性にかけてヴェールを拉致したわけではあるけど、これは失敗に終わった。ヴェールには人工心肺の代わりになる魔法が使えなかったのだ。
しかし、その後のアレンとジェラールの会話を聞いていて、僕はなにも現代日本の治療に即したやり方にこだわる必要性なんて全くなかったことに気付かされた。
ラチェットはたしかに左鎖骨下動脈の起始部が閉塞している。しかし、そこを綺麗に修復する必要はないのだ。そして道が塞がっているならば他の道を通ればよく、なければ作ればいいのと一緒で、他の場所に血管をつないでやればいいのである。
このやり方は鎖骨下動脈盗流症候群の治療ではなく、ほかの病気の治療で使われる手術方法の一つだった。だから、手技自体は問題なく行えるのが分かる。そしてそれはさほど難しいものではなかった。
左総頚動脈、つまりは左側の脳へと向かう血管から左
人工血管を左総頸動脈につないでいる際に、少しの間ではあるけど血の流れを遮断しなければならないのが問題だった。それを解決してくれるのが脳を冷やすことである。頭と血液を冷やすことで脳細胞を仮死状態にして、血液が少なくても耐えることができるようにするのだ。
「ほら、先生! 私も役に立ってるわ!」
「ちょっと、だまってて。今、急いで縫ってるんだから!」
血液を冷やすのを任せたのがヴェールである。彼女が治療に必要ということにして、なんとか処刑されずにユグドラシルの町まで連れて帰ったのだった。まあ、アレンもジェラールも真相は知っているからなんとも言えない顔をしていたけど、そこは僕を信用してもらうということでなんとかなった。だって、拉致までしたのに放置するっていうのはちょっと……僕も人間であるわけで、そこまでひどいことはできなかった。
ユグドラシルスパイダーの糸で作られた人工血管は非常に優秀だった。極細の針と糸で血管に縫い合わせていく。左総頸動脈の途中から、人工血管にT字状に飛び出ているような格好に
「よし、少しずつ体温を戻していってね」
「はーい、了解です」
なんか、ヴェールの受け答えがある度にレナがイライラしているような気がするけど、僕は見ない事にした。それにまだ手術は終わっていない。吻合した部分から少し出血しているようで、止血の縫合を追加していく。拍動する左総頸動脈と人工血管の根元からほとんど血が出なくなったことを確認して、僕は一旦息を吐いた。ここまではなんとか順調だ。
次に左の鎖骨の下を切る。鎖骨の下には鎖骨下動脈があり、それは脇の部分で
まずは腋窩動脈のまわりを十分に
「血管を遮断する
「はい」
サーシャさんから
「よし、縫うよ。人工血管の長さを調節して、一気にいくからね」
鉗子を取り除いて血液の流れを元に戻すと、左総頸動脈から人工血管を通って左
「よし、後は傷口を閉じておしまいだ。回復(ヒール)をかけたらあとはローガンがやってよ」
「は、はい! 分かりました」
こうしてラチェットの手術は終了した。
***
「私も役に立ったというのを認めなさい」
「あなたは別にいなくても良かったわね。あのくらいなら私だけで十分だったわ」
ラチェットの病室で僕が診察をしている後ろで、今日もレナとヴェールが喧嘩をしている。
ヴェールは身体に埋め込まれた魔力を取り込む魔道具の解析をさせてもらうという条件付きで、なんとか助命してもらえることが決まった。本当はこれが決まったときにレナがほっとしていたのを僕だけは気づいていたけど、言うとややこしくなるから言わない。
「先生、実はあのあと何回か左手を使ってみてさ。やっぱり意識が飛びそうになるから、本当なんだって……だから先生が治せないって言ったのが本当にショックだったんですよ。でも良かったです。さすがは先生だ」
「いや、本当にすまない。僕はまだまだ未熟者なんだ」
ラチェットはそう言うと左手を勢いよく突き出してみた。そしてぶんぶんと大きく振ったり動かしたりする。しかし、意識がなくなることはない。
「おいおい、先生が未熟だったら原因を作った俺はどうなるんだよ」
そして病室にはもう一人いた。シグルドである。あれからラチェットが呪いにかかってしまったという噂を聞いて、かなり気にしていたようだった。僕に原因を聞きに来たときにはすでに左
「シグルドさん。別にシグルドさんが原因ってわけじゃないです! それに、本当に色んなことを学ばせてもらいましたから」
ラチェットがあわててシグルドのフォローにまわった。彼も本心からシグルドを尊敬しているようだし、シグルドも反省するところがあると本気で思っているのだろう。僕も反省しなければならない。
「さあ、これで退院だ。依頼を受けてきても大丈夫」
「先生、ありがとうございます!」
ラチェットは頭を下げると病室を出ていった。その間もレナとヴェールは喧嘩をしていたけど、僕は無視することにしている。
「そうそう、ギルドマスターから伝言だ。俺はこれを伝えるために来たんだった」
病室に残っていたシグルドが言った。
「王都の状況がまた変わったらしい。一応、先生にも伝えといてくれってさ」
さすがにレナとヴェールの喧嘩はそこで終わった。
それは魔物の群れがいなくなったというのと、リッチと白い男を討ち取ったという報せだった。
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