第88話 乳癌5
視線を感じるというのはいつもの事だった。たいていの男は話している最中に視線が下を向く。嫌な思いをしたこともあったが、すぐに慣れるようになった。そんなものだと。
こんなものが大きくてもいいことなんかない、と思う時期が続いた。でも、意外とそうでもないと思うこともあった。
「でかいよな」
聞こえているぞ、と怒鳴りたくなったのはパーティーを組んでいた仲間のダスプという戦士の言葉を聞いた時だった。ギルドの受付で依頼完了の手続きをしているときに、パーティーの仲間は先に酒場へと向かっていた。テーブルにつくなり、こちらにも聞こえる声量でそんなことを言う無神経さはいつもの事だ。彼が私の胸の話をしているというのは不快以外のなにものでもなかったのだが、その話をしていた相手というのがソアラだった。
「う、うん」
顔を紅潮させて、でも否定せずにそういうソアラを見て、私は生まれて初めて自分の胸が大きかったという事実に感謝した。治癒士のレイノルドがその話に乗っかってきて、ダプスと一緒に盛り上がっているのには腹が立ったけど。
「男って、どうしてああなんだろうね。聞こえてるっつーの」
「ほんと、そうですよね」
ギルドの受付をしてくれていたシルクさんが私の気持ちを代弁してくれようとしている。でも、ソアラの顔を見たらいつの間にか不快感というのが薄れていた。ソアラだったら、まあいいかとも思う。とりあえずはダプスを睨んでおいたら、向こうも気づいたようだった。
ソアラは一度死にかけている。まだ駆け出しだったころに師匠とともに行ったゴブリン退治の際にかすり傷を受けた。その傷から毒が回ったのだ。
その時は師匠と師匠の知り合いというシュージ先生たちに助けられた。パーティーの仲間全員でソアラの治療を行った。
あまりにも見たことも聞いたこともない治療方法で、ソアラの喉には穴まで開いた。ガタガタと震えながら死んでいこうとするソアラはそんな突拍子もない治療の甲斐があり、徐々に回復していった。体中のありとあらゆる穴に管をつながれたソアラを見て、もう何も考えられなくなった。それでもシュージ先生はソアラを助けた。
そこで気づいた。私はソアラを愛していたことに。
失うことに耐えられなかった。そして、ソアラが助かるとシュージ先生が言った時の安心感。まぎれもなかった。
ソアラが完快して、また一緒に依頼に行けるようになって気持ちはどんどんと膨れ上がった。それでも私はパーティーを引っ張っていかなくちゃならないし、パーティー内の恋愛は厄介ごとの元にしかならないと言われている。自分の気持ちを自制しながら、それでもソアラがたまに自分の胸を見ているとなんとも言えない気持ちになった。
だけど、心眼に影が写った。
頭ではわかりきっている。シュージ先生に診せるべきだ。そして取り除いてもらわなければ命に関わるかもしれない。だけど、おそらくは診せれば取り除かなくてはならない。そうなったら、ソアラは私のことをどんな目で見るのだろうか。
なかなかうち明けることができなかった。そんな時に、ジャックさんとシグルドさんと飲む機会があったのだ。それは酒場のマスターであるシングさんの回復記念パーティーでのことだった。ジャックさんとシグルドさんが王都から帰還することになったいきさつを話してくれた。
「レナがな、言うんだよ。膵炎かもしれないって。ほんと、何言ってるのか意味不明すぎてな。でもその迫力とアレン様が横で睨んでいるのと、まあシルクがごにょごにょ……」
「それで俺を捕まえにきたのか。あ、俺にもエール」
「お前このシグルド野郎、酒だめだと言っただろう。あ、お茶に変えてくれ。……しかしアレン様も見ないうちにわんぱくになられて……グスン。昔はもっとクールな次期領主様だったってのによう」
「出会い頭に簀巻きにされて、レナに
「ああ、あれにはびびった」
途中からよく話を聞けていなかった。でもジャックさんは言った。
「レナがな、言うんだよ。膵炎かもしれないって」
レナさんが呪いを言い当てたと。それは私の中で重要なことだった。男であるシュージ先生に相談するよりも、レナさんだったらまだ相談しやすい。これが呪いじゃない可能性もまだあるのだ。
そして翌日にレナさんのところに言って胸のことを相談した。だけど、レナさんには分からないらしい。私がまだシュージ先生や他の人には相談しないでほしいと言うと、レナさんは「医学書を読んでみる」と言ってくれた。
***
「シュージ、相談があるの」
思い詰めた顔でレナが言った。いたずらを白状するときの子供のようである。
「もしかしてフォンの事かな?」
「えっ、分かるの?」
「当たり前だよ。あれだけこそこそしてれば僕だって気になるさ」
それに道具屋の奥さんの手術の時だってレナはいつもと違った。そしてレナには異常がなく、フォンがレナを訪ねてきたこととソアラからフォンが自分の身体の異常を気にしていたとまで情報があれば誰だって気になる。気になればフォンを見かけた時に心眼を使うに決まっているじゃないか。
「それで、一応話を聞こうか」
レナが今まですぐに相談してくれなかった原因もなんとなく分かる。おそらくはフォン自身に止められていたからだろう。これだから年頃の異性の患者というのは扱いに困る。手遅れになったらどうするんだと思わないでもない。
「フォンには相談しないでくれって言われているんだけど、彼女、右胸にしこりがあるって。心眼で変なものが……」
「ああ、僕も確認したよ」
「えっ!? いつのまに!?」
レナが驚く。まあ、そうだろう。僕はレナがすぐに相談してくれなかったというか、適正な判断ができなかったにも関わらず様子を見たのに少し怒っている……と言っても二日だけか。
そして、フォンに異変があると僕が推理してからすぐにフォンをみつけに行ったのにはわけがある。
僕は外科医だ。一応は全般的に手術などを行うことができているけど、苦手な分野はある。あまりにも専門的なところは治療できないし、分からない事だってある。
その一つが産婦人科疾患だ。取り除くことはできても適切な診断ができるとは到底思えない。あれは、やったことがないし研修医の時も後ろで見ているだけだった。
だから、フォンが産婦人科疾患だった場合にどうしようかと悩みに悩んでいたのである。結局は乳腺疾患だったのでほっとした。対処可能だ。しかし、産婦人科疾患に関しては今後の課題として残った。
「レナはあれが乳癌だと思ったわけだね」
「……え……ということは」
「あれは乳癌じゃないよ。腫瘍ではあるけど良性腫瘍、正確には
心眼と
「じゃあ、フォンは助かるのね」
「助かるもなにも、最初から命の危機ではないから安心しなよ」
僕に半分騙された状態のはずなのに、レナはフォンが死なないという事を聞いて安心してその場に座り込んだ。ずいぶんと悩んだのだろう。本当に根は優しい子だなと改めて思う。
「私、フォンのところに行ってくる」
「一応、診察に来てくれって伝えてくれよ」
「分かったわ」
あまりに安心したのか、レナは
この後、診察に来たフォンに
「しかし、心眼で視界に入るなんてね。レナだったら……」
このあと僕がしこたま蹴られたのは言うまでもない。
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