第87話 乳癌4
心眼を習得したと言っても、この魔法は奥が深かった。
「見えるものが全てではないし、視界に入ったからといって見えているわけではないことも多いさね」
師匠の言葉が分からなかった。見えるようになる魔法であるにもかかわらず、その精度をどれだけ研ぎ澄ませようとも見えないもの見えないというのはどういうことなのだろうか。
二つ名に「心眼」を持つ師匠の言葉である。今すぐに理解できるわけもないというのは分かる。それにしたって謎過ぎると思わないでもなかった。
それに気づいたのは依頼の最中だった。斥候職であるにもかかわらず積極的に前線に立とうとするソアラの援護に魔法を放とうとした時である。
後ろの仲間の位置を確認するために振り返った。大丈夫、この位置ならば問題ない。
師匠の魔法の神髄は心眼で相手の弱点をつくことである。ある治癒士はその伝授した心眼を力の限り魔力をこめて行うらしいが、師匠のそれはできるかぎり自然体で心眼を発動させることにある。つねに効率的に魔法を使うことによって、心眼に使われる以上の成果を上げるのだ。だから、余裕があるときには心眼を発動させることにしていた。
視界の端に、なにかひっかかるものが一瞬であるがとらえられた。それが何なのかはすぐには分からなかったし、魔法発動の障害になるようなものではなかったために、その時は何も考えずにソアラの援護を行った。しかし、戦闘が終わってすぐに正体が分かった。
自分の右胸に、へんなものがある。左にはないことから正常なものではないのはたしかだった。こんなものは他の誰にも見当たらない。
すぐに思い浮かんだのが呪いだった。体のどこかに呪いを受けてしまった人間は、徐々にそれが体を浸食していき、回復魔法が効かないままに死んでいく。それはこの世界の常識だった。
***
「よろしくお願いします。メスをください」
道具屋の奥さんの手術というのは何の問題もなく始まった。すでに何度も手術を行っているこの診療所では、さまざまな医療機器が取りそろえられているし、消毒のための設備なども改良を加えている。
手にはルコルに作ってもらった電気メスの魔道具が握られ、病変が取り除かれたあとはサントネ親方やセンリが作り上げた極細の針糸が滅菌された状態で用意されていた。
「さすがに
左乳房の下の部分を切る。中の乳腺組織をくりぬくことになるために、皮膚を全て残してしまうとしわが寄ってしまうのだ。そのために最終的にしわが寄らないように線対称の形で切り取るのである。その形は目というか葉っぱというか、楕円の先のとがった形状とでも言うべきだろうか。
「皮膚の下を剥がすように電気メスで切っていくんだ」
ルコルの電気メスは改良が進んでほとんど現代日本で使われていた電気メスと同じ感覚で使用することができるようになっていた。
電気メスはメスという名前がついているが、正確には刃物ではない。組織というのは電気が流れることによって変性する。タンパク質の多い卵などが高温で色と硬さが変わるように、弾力性のあった組織が通電することで縮まるのだ。そして隣の細胞や組織とのつながりがもろくなった部分が「ちぎれる」のである。そのために電気メスを使う際には、左手にもった
「よし、ここをこうやって上に持ち上げて」
「はい、先生」
「切っていくよ……よし、次はこっちだ」
助手をしてくれているローガンに指示を出しながら皮膚と乳腺組織を剥がしていく。ある程度深くなったら下にある大胸筋と乳腺組織を剥がす作業に移るのだ。
「ちょっとここを触ってごらん。すこしだけ硬いでしょ」
「うん、触ると硬い」
「これが腫瘍だ。念のためにここからだいたい一センチメートルくらいの幅をとって切り取るよ」
「はい」
綺麗に取り切ると直径がだいたい三センチメートル、高さもおなじくらいの円柱が取り出せる。乳癌の転移の仕方から、筋肉組織にまで
「よし、次は脇の下だ。といっても心眼と
脇の下を少しだけ切ると、僕は見えているリンパ節を
「さあ、ほとんど手術は終了だ。ローガン、ここの皮膚を縫ってごらん」
「はい」
教育も忘れない。僕はローガンに縫い閉じた皮膚に
「女性の胸っていうのはなかなかに重要でね。他の部分と違って小さくなったり傷が残ったりすると落ち込んでしまう人もいるから、慎重さが必要なんだよ」
「それなのに俺に縫わせたの?」
「うん、勉強だ」
本当は電気メスを使わせたいとすら思ったのだけれども、魔力量が心配でさせてあげることができなかった。
特に
乳癌という手術は乳腺組織に切り込んで取り除くのが主体の手術になるために、他の臓器を傷つけにくく、電気メスに慣れるにはもっともよいとされる手術の一つだった。あったとしても細い血管があるだけで、皮膚の火傷さえ気をつけていればいいのである。もちろん気をぬいていい手術ではないが。
「たしかに、胸を開いたりお腹の中の手術とは違うけどよ」
「その分、すぐに本人が違和感に気づいてしまうからね」
「普通は命が助かったんだから、それでいいんじゃねえの?」
「そうでもないのが人間だ」
さすがにこの世界ではまだ出会ったことはないけど、現代日本ではいくら危険であると言っても「助かる前提」で手術の話を聞く患者というのが一定数いる。そしてその人たちの多くは病気やけがになったのが医療者の責任でなかったとしても、それを治療できなかったのは医療者の責任なのだと考えるようだ。
特に命に関わらない分野ではその傾向が強い。思っていたのと違う、というのを訴えられた時に僕らはどうすればよいのか。
「まあ、できうる限りは希望にそってあげるのが一番なんだよ」
「でも先生。それってわがままってやつじゃん」
「はは、ローガンの立場からしたらそう言いたくなるのも分かるけどさ、お互いさまなんだよね」
こちらの世界で訴訟対策なんてものはしたくない。けれどもトラブルというのはどの職業でもあるものだし、意思の疎通がきちんとできていなければトラブルも起きやすい。
つまりはきちんとした意思疎通、事前の情報提供などを含めて納得してもらうことが重要なのだろう。あまりにも問題が昔からあるものだし、未来永劫解決するとは思えないけど。
道具屋の奥さんには少しだけ胸が小さくなる可能性というのを伝えていた。旦那さんはそんな事は気にしないから、確実に取り除いてくれと言ったけど、そのときに奥さん本人は悲しい顔をしたのは見逃さなかった。
「あまり、形が変わらなくて良かったですね」
「先生、ほんとうにありがとうございます」
「この年になって胸なんか気にしてんじゃねえよ。それより命あってこそだ」
「そりゃ、そうなんだけどねえ」
旦那さんの言い分は正しいと思う。だけど、できることならば形も残して治療をしたいと思うのは悪いことではないだろう。
「もっと発見が遅かったら、全部取らなきゃなりませんでしたからね」
その光景を、レナがじっと見つめていた。いつもならば話に加わるはずなのに、何も言わずに。
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