第86話 乳癌3
「この前の事なんだけど……」
周囲に誰もいないというのは確認していた。それにしたって、こんな所で話すべき内容なのかというのをレナはためらう。
ギルドの酒場の裏の路地。
それは彼女の人生にとって重要な何かを告げる場所としては全くふさわしくなく、そして自分がこれから紡ぐ言葉というのが正しいかどうかは分からなかった。だが、彼女の気持ちも分からないでもない。そして自分が頼られたのだから、それに応えるのは当たり前のことではないかとレナは思う。しかし、結果は思わしくなかった。
「絶対にそうだとは言えない。私には分からないことが多すぎる」
「でも、そう書いてあったのですよね?」
「やっぱり、シュージに相談しよう」
「レナさん、相談したところで、取り除くしか治療法はないのでしょう?」
言葉に詰まった。ろくに勉強ができていない自分には医学書に書いてあることをそのまま伝えること以外ができない。
彼に相談するというのが圧倒的に正しいのは分かっていた。しかし、このままではいけないという焦りがあったのも確かである。一人の力というのはどれだけ背伸びしても一人の力にしかならないというのを彼は強く理解しており、そのために後進を育てることに力を注いでいるのだ。それならば、自分は少しでもそれに応えるべきではないだろうか。
彼と、今目の前にいる彼女の気持ちに応えるためにも自分はここで自立しなければならない。だが、それには不安が伴う。自分の命であればまだいい。だが、失敗の代償として持っていかれるのは彼女の命だった。だから、レナはこう言うしかなかった。
「シュージに相談する。すくなくとも私が考えていることが正しいかどうかを聞く」
「それは、診察をするということですよね。それで結果が変わらなかったとしたら」
「それはそれでシュージならばなんとかするわ」
自分が嘘をついているという自覚がレナにはあった。彼は常日ごろから、医学は絶対ではないという事を自分とローガンに伝えてきていたのだ。だから、無理なものは無理だと言うだろう。
「心眼を発動するたびに、視界に入るのです」
それに気づいてから数か月かけて徐々に大きくなるものに対して、彼女は不安を隠さなかった。
「命が、かかっているんだよ?」
「そうですよね、ですけど……なかなか勇気が持てないんです」
その気持ちが分からないでもない……とまではレナは思えない。自分であればすすんで調べるだろう。彼女は意外なまでに初心な心を持っている。普段はそれをひた隠しにし、仮面をかぶっているのだけれども。
(命と比較するにはどうしても……)
理解できない。だが、実際に彼女は最後まで首を縦に振る事はなかった。
***
「来週、手術を予定しているから。道具屋の奥さん、乳癌みたいだね」
「えっ」
用事をすませて診療所へと帰ってきたレナに対して来週の予定を言うと、何故か思ったよりも驚かれた。
朝の診療の時間にやってきたのは道具屋の奥さんだった。左胸になにやらしこりがあって、以前同じようにしこりがあった人がその後に呪いで亡くなったという事を聞いていたから心配になったそうだ。
心眼を発動させてみて見ると、左乳房に悪性の腫瘍性増殖を認めた。大きさとしてはまだ一センチメートル程度だろうか。人によっては気づかないかもしれないほどの大きさである。
「これは、あまりよくないものですね」
「呪いなんでしょうか」
「病気です。たしかに放っておくと命に関わりますが、今のところは取り切ってしまうことが可能だと思います」
乳癌であるのはほぼ間違いなかった。そしてそれはわきの下のリンパ節に転移をしている。しかし、幸いな事に転移はそこまでだった。
乳癌はほとんどの場合、まずはわきの下のリンパ節に転移する。そのために現代日本ではわきの下のリンパ節をまずは摘出して迅速診断を行うことで転移があるかどうかを調べるのだ。色素や、微量の放射線物質を乳房に皮下注射することで、その部分のリンパが流れていく先を見つけ出し、摘出する。ここに転移がなければおそらくは他の部分にも転移はないし、あればその周囲のリンパ節を取り除くことを意味する
そのために最初に転移するであろうリンパ節のことを、戦場でもっとも先頭に存在する先兵から名を取ってセンチネルリンパ節と呼ぶ。このセンチネルリンパ節を見つけることが乳癌の手術の重要なポイントであり、センチネルリンパ節の病理検査が後の治療方針と予後に大きく関わってくる。
ここまでの病態学を作り上げた先人には尊敬の念しかわかない。だが、僕の前ではその努力が報われない。
「あ、転移はここまでですね。これは部分切除だけでいけます」
「治るんですか」
「治りますよ。大丈夫です」
心眼に
手術は局所麻酔でいけないことはないけど、痛みが完全になくならない人もたまにいるし、全身麻酔で行うほうが確実だった。場所としては乳頭にはあまり近くないために乳頭を温存することは可能である。現代日本では局所麻酔でとってしまう病院も多いだろう。
乳房部分切除術および腋窩リンパ節郭清レベル一が術式である。腋窩リンパ節郭清は段階があり、レベル三にまでなると術後に腕のリンパの流れが悪くなって腕がぱんぱんに
「レナ?」
病気と手術の説明をしているというのに、レナの表情がすぐれなかった。今回の手術はミリヤに手伝いを頼むまでもないために、僕とローガンで行おうと思っている。それもこれもレナに対する信頼というのがあるからであり、彼女はもうちょっと経験を積めば立派な麻酔科医と言ってもいいくらいに勉強家だった。
そのレナが上の空である。
「えっ? あ、ううん。なんでもない」
「何かあったのかい?」
「別に。なんでもないったら」
もしかして、と僕は心眼を発動させた。
たしかにレナはまだ若くて癌などができやすい年齢ではない。だが、乳癌に限っては若齢でも発症することの多い癌である。エルフの血が混じっているために癌にはなりにくいのではないか、なんて漠然としたことを考えたことはあったけど、例外というのはどこにでもあるし、心眼が使えるレナが自分の体に異変を感じることはあるかもしれない。
「ちょ、ちょっと」
僕が心眼を発動してレナを見ているのが分かったのだろう。だが、僕は必死にレナの体の中に何かがないかを
「あれ? なにもないよ?」
「何を勘違いしてるのよ!」
蹴られた。なんか久しぶりであるが痛い。そしてなんで蹴られたのか分からない。
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